SSブログ

遅いインターネット
 [コンピュータ・情報科学]

遅いインターネット (NewsPicks Book)  
宇野常寛/著
出版社名:幻冬舎(NEWSPICKS BOOK)
出版年月:2020年2月
ISBNコード:978-4-344-03576-8
税込価格:1,760円
頁数・縦:239p・20cm
 
 民主主義と立憲主義の比重を後者にずらし、民主主義を半分諦めることで、自由と平等を守ろう、という提案である。
 民主主義がポピュリズムやファシズムに流されないよう、反射的に対応するインターネット上でのやり取りを自制し、じっくり読み、熟慮する習慣を取り戻そう(遅いインターネット)、と主張する。浅慮の「大衆」から脱し、自ら考える「市民」になろう、ということであろう。
 
【目次】
序章 オリンピック破壊計画
 TOKYO2020
 平成という「失敗したプロジェクト」
  ほか
第1章 民主主義を半分諦めることで、守る
 2016年の「敗北」
 「壁」としての民主主義
  ほか
第2章 拡張現実の時代
 エンドゲームと歌舞伎町のピカチュウ
 「他人の物語」から「自分の物語」へ
  ほか
第3章 21世紀の共同幻想論
 いま、吉本隆明を読み直す
 21世紀の共同幻想論
  ほか
第4章 遅いインターネット
 「遅いインターネット」宣言
 「速度」をめぐって
  ほか
 
【著者】
宇野 常寛 (ウノ ツネヒロ)
 評論家。批評誌『PLANETS』編集長。1978年生。著書多数。立教大学社会学部兼任講師。
 
【抜書】
●うっかり呼んでしまったオリンピック(p7)
〔 だが、来るべき2020年の東京オリンピックはどうだろうか。そこには基本的に何も、ない。そこに存在するのはせいぜい、もう一度東京にオリンピックがやってくれば、誰もが上を向いていた「あのころ」に戻れるのではないかというぼんやりとした(そしてまったく無根拠な)期待だけだ。実際に2020年の東京オリンピックに、1964年に存在したような半世紀先を見据えた都市改造や国土開発の青写真はまったく存在しない。消去法で選ばれてしまったこの2020年のオリンピックに対して、この国の人々はまったくビジョンをもっていないのだ。自治体間の予算の押し付け合いと、開催準備の混乱が体現する「うっかり呼んでしまったオリンピックのダメージコントロール」が、来るべき2020年の東京オリンピックの実体だ。〕
 
●素手(p51)
〔 ついこのあいだまで、今日のグローバルな経済とローカルな政治という関係がまだ存在せず、インターナショナルな政治にローカルな経済が従属していた時代まで、世界に素手で触れているという実感はむしろ政治的なアプローチの専売特許だった。だからこそ、20世紀の若者たちは革命に、反戦運動に、あるいはナショナリズムに夢中になったのだ。民主主義とは、このあいだ少なくともこれまで試みられてきたあらゆる制度よりも確実に、誰にでも世界に素手で触れられる実感を与えてくれるものだった。そして、少なくとも世界の半分ではこうしているいまもそうあり続けてしまっている。この1票で、世界が変わると信じられること。僕の考えでは民主主義の最大の価値はここにある。だが、皮肉なことだがこの強力な機能ために、いま、民主主義は巨大な暗礁に乗り上げてしまっている。〕
 
●クラウドロー(p69)
 近年、市民が情報技術を活用して社会の課題を解決するシビックテックと呼ばれる運動が現れている。
 クラウドローはその手段の一つ。インターネットによって市民が法律や条例などの公的なルールの設定に参加する。
 vTaiwan……台湾。オンラインとオフラインにまたがる官民連携のクラウドロー・プラットフォーム。市民間の協議によって、ライドシェアサービス(ウーバー)の参入と既存のタクシー業者との調整、リベンジポルノに対する罰則の規定、市街地におけるドローン活用を推進するための適切な規制などが提案され、行政に採用されている。
 
【ツッコミ処】
・書く(p198)
〔 そう「書く」こと、「発信する」ことはもはや僕たちの日常の生活の一部だ。この四半世紀で、「読む」ことと「書く」ことのパワーバランスは大きく変化した。前世紀まで「読む」ことと「書く」ことでは前者が基礎で後者が応用だった。「読む」ことが当たり前の日常の行為で「書く」というのは非日常の特別な行為だった。しかし現代では多くの人にとっては既にインターネットに文章を「書く」ことのほうが当たり前の日常になっている。そして(本などのまとまった文章を)「読む」ことのほうが特別な非日常になっている。これまで僕たちは「読む」ことの延長線上に「書く」ことを身につけてきた。しかし、これから社会に出る若い人々の多くはそうはならない。彼ら/彼女らの多くはおそらく「書く」ことに「読む」ことより慣れている。現代の情報環境下に生きる人々は、読むことから書くことを覚えるのではなく、書くことから読むことを覚えるほうが自然なのだ。これは現代の人類が十分に「読む」訓練をしないままに、「書く」環境を手に入れてしまっていることを意味する。だが、かつてのように「読む」から「書く」というルートをたどることは、もはや難しい。それは僕たちの生きているこの世界の「流れ」に逆らうことなのだ。〕
  ↓
 「若い人々」の間で、「書く」ことが「読む」ことに先行している、というより、「書く」ことが「話す」ことより優先している、という現象が起きていることのほうが重要なのではないだろうか。
 彼らはまるでしゃべるように書いている。それこそが「脊髄反射」的行動の実相なのであって、本質的な「書き」は行っていないように見える。本質的な「書き」とはすなわち、「読む」に対比される「書く」行為であり、思考し、頭の中で考えをまとめて表現することである。彼らが行っているのは、「話す」代わりに「書」いているにすぎない。
 (本などのまとまった文章を)読む機会は減っているかもしれないが、SNS上でかなりの量の「読み」を行っているようには見える。
 
(2020/8/25)KG
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。