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古代史講義 氏族篇
 [歴史・地理・民俗]

古代史講義【氏族篇】 (ちくま新書)
 
佐藤信/編
出版社名:筑摩書房
出版年月:2021年6月
ISBNコード:978-4-480-07404-1
税込価格:968円
頁数・縦:284p・18cm
 
 古代日本を作り、活躍した氏族を取り上げ、その成立と主要人物の事績を解説。
 
【目次】
第1講 大伴氏(伴氏)……大川原竜一(高志の国文学館主任・学芸員)
第2講 物部氏……篠川賢(成城大学名誉教授)
第3講 蘇我氏……中村友一(明治大学文学部准教授)
第4講 阿倍氏……服部一隆(明治大学兼任講師)
第5講 藤原氏(鎌足~奈良時代)……佐藤信
第6講 橘氏……新井重行(宮内庁書陵部編修課主任研究員)
第7講 佐伯氏……桑田訓也(奈良文化財研究所都城発掘調査部主任研究員)
第8講 紀氏……寺西貞弘(元和歌山市立博物館館長)
第9講 東漢氏と西文氏……山本崇(奈良文化財研究所都城発掘調査部飛鳥・藤原地区史料研究室長)
第10講 菅原氏(土師氏)……溝口優樹(中京大学教養教育研究院講師)
第11講 藤原北家……中野渡俊治(清泉女子大学文学部教授)
第12講 摂関時代の藤原氏(九条流・小野宮流)……西本昌弘(関西大学文学部教授)
第13講 源氏……岩田真由子(同志社大学嘱託講師)
第14講 平氏……黒須利夫(聖徳大学文学部教授)
第15講 奥州藤原氏……樋口知志(岩手大学人文社会科学部教授)
 
【著者】
佐藤 信 (サトウ マコト)
 1952年生まれ。東京大学名誉教授。横浜市歴史博物館館長、くまもと文学・歴史館館長。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。博士(文学)。
 
【抜書】
●臣、連(p35、篠川)
 臣……大王に仕える臣下を意味する漢語の「臣(しん)」に由来すると考えられる。のちに、「オミ」と読むようになった。臣姓のウジは地名をウジ名とすることが多いと言われている。かつて大王家とともに連合政権を構成した豪族。
 連……大王に連なるという意味の漢語の「連」に由来する。のちに、「ムラジ」と読むようになった。連姓のウジは職掌名をウジ名とすることが多いと言われている。上級の伴造(ばんぞう、とものみやつこ)のウジに与えられたカバネ。
 上記説は、阿部武彦『氏姓』(至文堂、1960年)による。しかし、例外もある。尾張連、茨田連(まんだむらじ)、阿刀連(あとむらじ)、膳臣、采女臣、宍人臣(ししひとおみ)、など。
 また、臣=皇別、連=神別、という説も例外が多い。
 
●継体天皇(p36)
 臣、連は、継体天皇の即位を契機として生じた違いと見るのが妥当と考えられる。それ以前は、大王に臣従した集団にはひとしく「臣(シン)」の身分標識を称していた。継体の即位を支持した集団には、それとは区別する「連(レン)」(継体に連なるという意味)の身分標識が賜与されたと考えられる。
 即位に大きな役割を果たした大伴金村、物部麁鹿火。
 妃を出した尾張連、茨田連。
 
●橘氏(p102、新井)
 橘氏は、天平8年(736年)、葛城(かずらき)王・佐為(さい)王の兄弟が、皇親から臣籍に降下することを望み、橘宿禰の姓を賜ったことに始まる。美努(みぬ)王(敏達天皇の玄孫または曽孫)を父とし、県犬養三千代(のち、藤原不比等に嫁ぐ)を母とする。
 橘宿禰の姓は、もともと三千代が元明天皇の大嘗祭後の宴席において、天皇から忠誠の賞として与えられたもの。その際、橘を浮かべた坏とともに、橘の実は人々に好まれ、枝は霜雪にも強く、葉は落ちることがない、というような言葉を賜った。ミカン科の常緑樹に、変わらぬ忠誠の意味が込められたのだろう。
 三千代が亡くなった後、葛城王・佐為王は母が賜った姓を受け継ぐことを願い出、許されて橘氏がつくられた。
 
●母系(p105)
 祖先を同じくする血縁集団が、父ー嫡子の父系で継承されてゆくという観念が日本で定着するのは、律令が導入されて以降のこと。
 それ以前の社会では母系も父系と対等な関係にあり、個人は父方・母方の双方の集団に流動的に属することが可能な「両属性」が大きな特徴であった。
 
●国司、郡司(p147、寺西)
 律令制下、地方には国司が派遣された。
 国司の職掌……神祇、民生、司法警察、人事、財政、軍事、仏事。
 郡司……国司の下にあって、郡内の民生、司法警察、財政を分任する。
 国師……仏事を分任。
 軍団の軍毅(ぐんき)……軍事を分任。
 国造……国司の筆頭職務である神祇を分任。
 
●菅原氏、土師氏(p171、溝口)
 菅原氏は、土師氏が改姓することによって生まれた。
 桓武天皇の治世下。多くの氏族が登場したが、そのうちの一つ。
 土師氏の祖は野見宿禰。垂仁天皇の時代に、殉死の埋葬の代わりに埴輪を提案。そのため、凶儀(喪葬)にあずかる氏族と目されるように。それを改めるために、天応元年(781年)6月25日、土師宿禰古人・道長ら15人が、居地の名によって「菅原」への改姓を申し出る。菅原宿禰の誕生。
 延暦元年(782年)5月には、土師宿禰安人(やすひと)ら兄弟男女8人が「秋篠」への改姓を認められる。
 延暦9年(790年)12月、桓武天皇の母方の祖母にあたる土師真妹(まいも)に大枝朝臣の姓が追贈され、「毛受腹(もずはら)」の土師氏にも改めて大枝朝臣が賜姓された。また、菅原氏と秋篠氏にも朝臣が賜姓された。
 
●菅家廊下(p183)
 菅家廊下(かんけろうか)。
 菅原清公・是善・道真の3代は、公的な場では官人として活躍する一方、私的な場では菅家廊下と呼ばれる私塾を主宰し、門人の教育に当たっていた。左京にあった邸宅の廊下に塾が置かれていたことによる呼称。
 公卿・官人や儒者・詩人の多くが是善の門人だった。文章生・文章得業生で菅家廊下の出身者は100人に及び、このことから「竜門」と呼ばれた(道真「書斎記」『菅家文草』巻七)。
 
●有職故実(p207、西本)
 平安時代、朝儀における口伝・故実の形成が進んだ。政治が摂関中心に行われるようになると、正しい朝儀作法を形成・記録し、子孫に継承することが重要になってきた。
 これを集大成したのが藤原忠平。忠平の口伝と教命(きょうみょう)が子の実頼・師輔に伝えらえ、小野宮流と九条流が成立した。
 
(2022/7/11)NM
 
〈この本の詳細〉


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