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イスラムがヨーロッパ世界を創造した 歴史に探る「共存の道」
 [歴史・地理・民俗]

イスラムがヨーロッパ世界を創造した 歴史に探る「共存の道」(光文社新書) (光文社新書 1199)
 
宮田律/著
出版社名:光文社(光文社新書 1199)
出版年月:2022年5月
ISBNコード:978-4-334-04608-8
税込価格:1,188円
頁数・縦:335p・18cm
 
 イスラムとキリスト教は(そしてユダヤも)、かつては共存していた。近代以前のイスラム(アラブ)がもたらしたヨーロッパへの影響をたどりつつ、なぜ、現在のように反目し合うようになったのかを問う。
 
【目次】
はじめに―現代社会を正しく理解するための視座
第1章 ヨーロッパの食文化を豊かにしたムスリムたち
第2章 世界商業の発展に貢献したシルクロードとムスリムたち
第3章 ヨーロッパ社会に貢献したイスラム文化と十字軍が紹介したイスラム文明
第4章 アンダルス―文化的寛容とイスラムの栄光
第5章 12世紀ルネサンスに影響を与えたイスラム―シチリア島とイタリア半島
第6章 ヨーロッパ近世とイスラム
第7章 現代地中海世界の共存
第8章 イスラム世界で活躍したユダヤ人たち
第9章 共存と愛を説いたイスラムの詩人・文学者たち
 
【著者】
宮田 律 (ミヤタ オサム)
 1955年山梨県生まれ。一般社団法人・現代イスラム研究センター理事長。慶應義塾大学文学部史学科東洋史専攻卒。’83年、同大学大学院文学研究科史学専攻を修了後、米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院修士課程修了。’87年、静岡県立大学に勤務し、中東アフリカ論や国際政治学を担当。2012年3月、現代イスラム研究センターを創設。専門は、イスラム地域の政治および国際関係。
 
【抜書】
●オレンジ(p40)
 バレンシア州にオレンジ栽培をもたらしたのはムスリム。
 オレンジ栽培は、もともとマレー半島から始まり、インド、アフリカ東岸に広まったものがローマの征服活動、アラブ商業ネットワークの発展、イスラム世界の拡大発展などによって世界中に広まったと考えられている。
 ヨーロッパには北アフリカのムーア人がイベリア半島にもたらしたのが最初。10世紀には灌漑がオレンジ栽培に使われていた。シチリア島でも9世紀にオレンジが栽培されるようになった。
 アメリカ大陸には、15世紀末の「新大陸発見」以降。カリフォルニア州にオレンジ栽培を紹介したのは、スペイン人の宣教師たち。
 
●アーモンド(p46)
 アーモンドの原産地は中央アジアあるいは中国。
 シルクロードを通じてペルシア、アラブ世界、ギリシア、スペインに伝わった。
 イベリア半島では、最初にギリシア人植民者によって植えられ、次いでフェニキア人が栽培するようになり、大規模に生産されるようになったのはアラブの征服以降。
 
●サトウキビ(p46)
 サトウキビは、マレー半島が原産地。
 ペルシア人たちがユーフラテス川、チグリス川などメソポタミアに持ち込んだ。
 アラブ人が640年にペルシアを征服すると、サトウキビ栽培をシリア、北アフリカ、スペインに紹介。イベリア半島では760年頃に始まった。
 十字軍時代の12世紀、キリスト教ヨーロッパ世界にもサトウキビ栽培が導入された。
 
●4,000語(p103)
 スペイン語には、4,000語余りのアラビア語起源の単語がある。
 その中には、アラビア語の定冠詞を残したままの語彙が多くある。
 algodon(木綿) ← al-qutun (英)cotton
 almacen(倉庫) ← al-makhuzan (仏)magasin、(英)magazine
 「オーレ! オーレ!(闘牛やフラメンコ舞踏を見ながら発する掛け声)」は、「ワッラー!(アッラーの神よ)」から派生。 
 
●コルドバ(p105)
 アンダルスは、もともとウマイヤ朝(661~750年。首都はシリアのダマスカス)の一つの州だった。
 アッバース朝の成立によって国を追われたアブドゥル・ラフマーン1世が、シリアからスペインにやってきて、418年以来イベリア半島を支配していた西ゴート王国を打倒。コルドバを首都とする後ウマイヤ朝(756~1031年)を開いた。
 アブドゥル・ラフマーン3世(919-961年)時代に繁栄。ヨーロッパで最も規模が大きく、文化的にも最先端で、「世界の輝き」とも形容される都市になった。人口は、9世紀の初めで50万人ほど。当時のロンドンは1万人程度で、人びとは粗末な木材の家に住んでいた。
 
●モサラベ(p106)
 「アラブ化した人々」の意。ズィンミー(庇護民)として税金を納め、ムスリム支配に従ったクリスチャン。
 アラビア語を習得したモサラベたちは、アラブ人とキリスト教徒の間をつなぐ重要な役割を担った。
 
●ナスル朝(p136)
 イベリア半島最後のイスラム王朝。首都の名をとってグラナダ王国とも呼ばれる。
 ムハンマド1世が、1232年にハエン北部の小都市アルホナで政権を樹立した。
 レコンキスタ運動(1236年コルドバ奪還)が勢いを増す中で、カスティーリャ王国のフェルナンド3世と同盟し、その後250年間、同国に貢納を行い、臣従関係を結んでその朝貢国となった。
 セルビア、バレンシア、ムルシアなどからムスリム難民を受け容れながら、壮麗なアルハンブラ宮殿を建設。首都グラナダの繁栄を築いた。
 
●カナート(p139)
 イランで生まれた灌漑システム。ムスリムたちがイベリア半島に導入した。
 山麓部に母井戸を掘り、その水を横穴式の長いトンネルに通す水路。農村やオアシス都市部にまで導き、農業や飲料に用いた。
 
●3,000語(p147)
 ポルトガル語にも3,000語ほどのアラビア語起源の単語がある。詩人・作家のアダルベルト・アウヴェス(1939年生まれ)による。
 oxala(オシャラー)は、「insha'a Allah(イン・シャー・アッラー:神の思し召しのままに)」に由来。「どうぞ~になりますように」「そうあってほしい」などの意味。
 
●カラウィーイーン大学(p149)
 ファーティマ・アル・フィリー(800-880年)という女性が創設の基礎を築いた、モロッコ・フェズにある大学。モスクでの教育が始まり。
 マドラサ大学(989設立。マリ・トンブクトゥ《またはティンブクトゥ》)、ボローニャ大学(1088年設立。イタリア)よりも古い。
 
●聖フランシスコ(p176)
 アッシジの聖フランシスコは、1219年、エジプトのディムヤートに赴き、十字軍に攻撃をやめるよう説得を試みる。
 しかし、目的を果たせずに戦闘は継続。アイユーブ朝(1169-1250)のスルタン、マリク・カーミル(1218-1238)に捕らえられた。
 スルタンがキリスト教に改宗することを望みつつ、対話をかさねる。スルタンが神をよく理解し、神への愛に優れ、価値観を共有する人物であることを理解する。
〔 十字軍の戦いがある中で聖フランシスコとスルタン・カーミルが対話を行ったことは、暴力の行使がいかに無益か、力による勝利がいかに幻想的で、空しいか、敵を倒すことによって得られる平和がいかに脆く、はかないかを伝えるものでもありました。会談は1219年9月1日から26日まで行われました。この会談は宗教間の対話こそが平和をもたらす道であることを今も人々に教えています。〕
 
●チューリップ(p220)
 チューリップの栽培は、10世紀ごろにペルシアで始まったとみられている。現在もイランの国花。
 トルコのセルジューク集団に伝わり、16世紀にヨーロッパに紹介されて爆発的に流行した。
 ウィーンからイスタンブールに派遣されていたオージェ・ギスラン・ド・ブスベック(1522-1592。神聖ローマ帝国大使)が、1551年、エディルネでチューリップの美しさに魅せられ、オーストリアに送った。これがヨーロッパに紹介された最初の機会。
 1573年、ウィーン帝国植物園で、医師・植物学者のカロルス・クルシウス(1526-1609)がチューリップを植え、1592年、多彩な色彩のチューリップの品種改良に成功した。その後、オランダのホルトゥス・ボタニクス・ライデン(ライデン大学植物園)の最高責任者となり、1593年、自宅と植物園にチューリップの球根を植えた。
 1610年には、オランダでは新しい品種の球根は花嫁の持参金と同様とも言われるほど高額になっていた。
 
●フランス革命(p235)
 フランスの革命体制がヨーロッパ反動勢力に反発される中、ムスリムたちは友好的な存在だった。
 アルジェリアのデイ(太守)のハッサン・パシャは、フランス共和国に穀物を供給し続けた。ムスリムたちの穀物支援がなければ、フランス共和国はヨーロッパの反動的潮流にあっという間に呑み込まれていた。
 
●モロッコの憲法(p256)
 モロッコで、2011年の「アラブの春」後に成立した憲法前文。
 「モロッコ王国の統一性はその構成要素の全てが一体となったものである。すなわち、それらは、アラブ・イスラム、アマジグ(ベルベル)、ハッサーニーヤ(アラビア語モーリタニア方言)・サハラの要素が一体となり、さらにそれらに加えて、アフリカ、アンダルシア・ユダヤ、地中海の要素によっていっそう豊かにされている」
 
●ムハンマド・アサド(p274)
 1900-1992年。ヨーロッパでもっとも影響力があったとされるイスラム学者。オーストリア・ハンガリー支配下の現ウクライナでユダヤ人の家庭に生まれた。ユダヤ人名はレオポルド・ヴァイス。
 シオニズムに疑問を感じて1926年にイスラムに改宗。
 シオニズムの考えに基づく移民のユダヤ人たちが、先史時代からパレスチナの地に住む人々の土地や財産を奪うのは、不道徳であると考えた。植民地主義と結びつく種族支配と考え、シオニズムがユダヤ人を「選ばれた民」と見なすことに対してあざけりの感情さえ持たざるを得ないと述べていた。
 
●モカ(p293)
 イエメンは、コーヒーの産地として世界市場をおよそ200年間独占した。その中心にあったのが、モハー(モカ)港。コーヒー豆の名称ともなった「モカ」。
 コーヒーが飲まれ始めたのはイエメンといわれている。考古学調査で、イエメンの都市ザビードでコーヒーが飲まれた痕跡がある。
 コーヒーの栽培が始まったのは15世紀。スーフィーが、祈りのために眠気を覚ます目的で服用するようになって、イエメンの山々をコーヒーの段々畑に変えていった。
 アラビア語のカフワ(qahwa)は、本来、人間の欲望(この場合、睡眠欲)を抑制することを意味する。
 
【ツッコミ処】
・アブドゥッラフマーン1世(p130)
 〔後ウマイヤ朝の創始者アブドゥッラフマーン1世の息子であるアブドゥッラーは、バレンシアに自治的な統治を与えました。〕
  ↓
 他所では、後ウマイヤ朝を開いたのは「アブドゥル・ラフマーン1世」と表記されている。 
 
(2022/7/19)NM
 
〈この本の詳細〉


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