SSブログ
歴史・地理・民俗 ブログトップ
前の10件 | -

京都 未完の産業都市のゆくえ
 [歴史・地理・民俗]

京都―未完の産業都市のゆくえ―(新潮選書)
 
有賀健/著
出版社名:新潮社(新潮選書)
出版年月:2023年9月
ISBNコード:978-4-10-603901-0
税込価格:1,925円
頁数・縦:286p・20cm
 
 現代の京都という都市を、産業と独特な町衆の社会という視点で経済的に読み解く。
 
【目次】
序章
第1章 京都の経済地理
第2章 京都の町と社会
第3章 京都の町の変容と人口移動
第4章 ゆりかご都市京都
第5章 住む町京都
第6章 観る町京都
終章
 
【著者】
有賀 健 (アリガ ケン)
 1950年、兵庫県尼崎市生まれ。京都大学経済学部卒。イェール大学経済学博士(Ph.D.)、京都大学名誉教授。専門は労働経済学を中心とした応用経済学。
 
【抜書】
●町衆(p29)
 京都の町衆とは、中小の自営業者とその家族。祇園祭は言うまでもなく、中世末期から江戸期以降、町の自治組織の中心。近世以降の京都の歴史と伝統の体現者。
 本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳などの琳派はいずれも京都の上層町衆だった。伊藤若冲も、錦小路の青物問屋「枡源」の長男。40歳に隠居して絵に専念。
 〔京都の近代化の道筋は、京都の町の中心が町衆であり続けたことに決定的な影響を受けている。〕
 
●西陣、友禅(p40)
 西陣織……先染めされた様々な色合いの絹糸の織り込みで模様を作る絹地。呉服や帯となる絹織物。
 友禅……後染め。絹の白地に染付によって模様を描くもの。
 絹織物は、安土桃山期に中国の絹織物や絹糸・絹布の輸入代替として京都や長崎で発展した。西陣が絹織物産地として国内市場で優越的な地位を確保したのは、当初、中国からの絹糸・絹布の輸入割当で優位を持ったことに求められる。江戸中期以降、国内での蚕・絹糸の生産が本格化するにつれて、西陣職人の移動などを通じ、博多、桐生、丹後、長浜などでも生産が始まった。
 
●番組(p45)
 現在では「元学区」と呼ばれ、京都の地域社会の基礎単位といえる役割を担う。
 明治期の義務化される前の小学校建設は、京都市では市民レベルの寄金と努力によって実現した。当時の小学校の通学地域を「番組」と呼んだ。
 一つの番組はおよそ27程度の町からなり、上京、下京それぞれ30あまり、計65の番組小学校を建設した。小川元学区、明倫元学区、など。地域の区割りは、町が街路や街路の交差点で区切られず、交差点から対角線方向に境界が設けられている。「菱形町」と呼ばれ、京都の中心部の町が、特定の通りに面する町家から形成されていることを示している。また、通りを挟んだ両側の家屋で形成された町を「両側町」と呼ぶ。(p72)
 
●田の字地区(p64)
 京都の中心部。北を御池通、南を五条、東を河原町通、西を堀川通に囲まれた地域。
 この地区の住民こそ、京の町衆の代表であり、京都の政治・社会の動向に決定的な影響を与えてきた人々。
 
●高速道路(p188)
 京都において郊外の発展が遅れた理由の一つは、高度成長期以降、都市型交通インフラの整備が遅れたこと。
 京都は、現在でも市内中心部に高速道路がない唯一の大都市。都市鉄道網の整備も、京阪鴨東線〈おうとうせん〉(1989年、三条から出町柳まで延伸)と市営地下鉄2線以外は進んでいない。四条以北の市内交通は依然として市バスに依存している。
 
●オランダ病(p213)
 資源セクターなど特定の産業の競争力が飛躍的に高くなることで、自国通貨の高騰をもたらし、それ以外の産業の国際競争力に大きなマイナスとなること。
 1970年代後半、北海油田の開発が本格化した時期に、Max Cordenをはじめとする経済学者が提唱した。
 当時、北海油田開発により大きな利益を得たオランダにおいて、貿易収支の劇的な改善により、自国通貨の為替レートが高騰した。それにより、オランダの他産業の国際競争力が低下し、かえってオランダ経済にマイナスの影響を与えた。
 京都では、観光がオランダ病のような現象をもたらした。観光化によって地価や地代が高騰し、他の産業がこの都市から次第に駆逐されていった。
 
(2024/2/26)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

世界史の中のヤバい女たち
 [歴史・地理・民俗]

世界史の中のヤバい女たち (新潮新書)
 
黒澤はゆま/著
出版社名:新潮社(新潮新書 996)
出版年月:2023年5月
ISBNコード:978-4-10-610996-6
税込価格:858円
頁数・縦:206p・18cm
 
 世界史であまり語られることのない、強い女たち10人の列伝。
 
【目次】
第1章 すべての女性が望むことは―魔女ラグネルの結婚
第2章 アステカ王国を滅ぼした女―神の通訳マリンチェ
第3章 男を犯して子をなす―女戦士部族アマゾーン
第4章 早馬を駆る―女騎手・すみとスミス
第5章 戦場の女―ジャンヌ・ダルクの百年戦争
第6章 女性として根絶できない部分―独ソ戦と女性兵士たち
第7章 敵はとことんやっつけるもの―ウクライナの聖人オリハ
第8章 残忍な女戦士―偉大な女王ンジンガ
第9章 苦しむ人のために戦い抜く―冷徹な天使ナイチンゲール
第10章 非情剛毅を貫いた皇后―中国三大悪女・呂后
 
【著者】
黒澤 はゆま (クロサワ ハユマ)
 1979(昭和54)年宮崎県生まれ。歴史小説家。作家エージェント、アップルシード・エージェンシー所属。
 
【抜書】
●マリンチェ(p29)
 1502年、南米アステカのパイナラという街の首長を父に生まれた。
 幼い頃に父親が死に、別の男と再婚した母に疎まれ、隣国マヤのタバスコ州に奴隷として売れらた。〔カカオ色の滑らかな肌、砂糖菓子のようにきらめく歯、黒いダイヤみたく光り輝く目。アステカ人が好んだ比喩を使わせてもらえば、コンゴウインコのように美しい少女だった。〕
 やがてタバスコ王の目に留まり、王の妾になる。王は、つまらない醜い男だった。
 マリンチェは、アステカの神話ケツァルコアトルが戻ってくることを信じていた。17歳だった1519年、白い肌の男たち、エルナン・コルテスたちがやって来た。タバスコ王の差しだした20人の娘たちのなかに、マリンチェも入っていた。
 マリンチェは、コルテスたちをアステカへと導いた。スペイン語を習得し、「神の通訳」としてスペイン人がアステカ人の国を征服するのを助けた。彼女を通じて厳かに掲示される神の言葉はただ一つ。「みんな死ね」。
 アステカの王は、モクテスマ2世。王から1トンもの黄金を言葉巧みにだまし取り、王を自分たちのもとに軟禁し、人質とした。やがて王国中の富は、スペイン人に献納されるようになった。
 スペイン人たちは、一時は若き英雄クアウテモックによる反乱でテノチティトランを追われたが、1521年8月、南米に覇を唱え、30万人の人口を抱え、世界で最も偉大な都市だったテノチティトランは陥落、スペイン人たちが支配者となる。
 マリンチェは、コルテスの子ども、史上初めてのメスチーソ(征服者と被征服者との混血)を生み、母親とも和解し、1527年、25歳の若さでキリスト教徒として死んだ。
 
●サルマタイ(p40)
 サルマタイ人は、他の遊牧民スキタイ族を父に、アマゾーンを母に生まれた民族。BC700年頃、黒海付近を駆け回っていた遊牧民。ヘロドトスによる。
 アマゾーンの一部はギリシャとの戦いに敗れた際、奴隷として船でギリシャに連れ去られそうになったが、反乱を起こし乗員全員を皆殺しに。しかし、操船のやり方を知らなかったために嵐に遭って国会の北岸に漂着。そこでスキタイの若者に求婚され、新しい民族を作った。
 
●素人(p70)
 ナポレオンの言葉。「女と戦争は素人こそ恐ろしい」
 
●ジル・ド・レ(p74)
 貴公子ジル・ド・レは、ジャンヌ・ダルクの大親友だった。
 ジャンヌが火刑になった24年後、ジャンヌに下された異端の判決を無効とするための復権裁判が開かれた。
 しかし、ジル・ド・レはこの法廷に駆けつけることができなかった。ジャンヌが火刑になったことをショックに精神を病み、1440年に火あぶりにされていた。数百人の少年に対する猟奇的な殺人のため。この出来事をもとに「青髭」の物語ができた。
 
●インバンガラ(p115)
 アフリカで拠点を定めずに移動を常とする武装集団。
 キロンボと呼ばれる戦闘キャンプのなかで生活を営む。成員は血縁関係ではなく、イニシエーション(通過儀礼)で結ばれている。キロンボ内で生まれた子供は殺害され、戦争で子供をさらうことによって人口を増やしていた。
 起源は、戦争で生まれた不幸な年少の難民たちの群れか?
 アンゴラの女王ンジンガ(1583-1663)は、インバンガラと手を組んでポルトガル人たちに対抗していた。
 
(2024/2/14)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生
 [歴史・地理・民俗]

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社学術文庫)
 
新谷尚紀/〔著〕
出版社名:講談社(講談社学術文庫 2602)
出版年月:2020年2月
ISBNコード:978-4-06-518534-6
税込価格:1,155円
頁数・縦:257p・15cm
 
 伊勢神宮と出雲大社を対比し、天武・持統朝ですすめられた超越神聖王権について論じる。
 
【目次】
第1章 伊勢神宮の創祀
 従来の学説と、神宮創祀の基本史料
 「神話と歴史」の構成
 歴史の中の伊勢神宮
第2章 “外部”としての出雲
 王権のミソロジー(神話論理学)
 出雲世界の歴史と伝承
 祭祀王としての天皇
 出雲の地位の変化
第3章 祭祀王と鎮魂祭
 新嘗祭と大嘗祭
 鎮魂祭の歴史
 鎮魂祭の解釈
終章 “日本”誕生への三段階
 
【著者】
新谷 尚紀 (シンタニ タカノリ)
 1948年広島県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程単位取得。現在、國學院大學大学院客員教授、国立総合研究大学院大学・国立歴史民俗博物館名誉教授。社会学博士。
 
【抜書】
●推古朝(p50)
 ① 記紀の三貴神の誕生と領有分担の神話の成立は推古朝よりも後であった可能性が大。
 ② 『古事記』の記す須佐之男命の八俣遠呂智退治神話の中の箸のモチーフは推古朝より後の時代のものである。
 ③ 当時の推古朝の王権には自らの国を日昇の国、太陽の昇る国であるとの意識が存在した。
 ④ 隋との交流により前代までの政治や服飾の習慣が改められ開明化がすすめられることになった。
 ⑤ 仏教文化と半島外交を掌握していた蘇我馬子に対して、新たに、隋との国交により仏教文化や国家的な諸制度や文物などの導入を直接はかろうとした厩戸皇子との間に微妙な対立関係をはらみながら、大王家の権威の確立への努力がはかられた。
 
●祭る天皇(p90)
〔 以上の四点からみて、この持統朝において祭祀が整備されていったこと、天皇(持統天皇)の神聖性が強調されてきたこと、「祈る天武」から「祭る持統」へと神祇祭祀の整備が進んだこと、などがわかる。つまり、伊勢神宮の祭祀は天武朝に本格的に始まり持統朝にその整備が進んだのである。それは新益京の造営と不可分の事業であり、政治の中核としての都城の造営と、神祇祭祀の中核としての伊勢神宮の造営とは、対をなす古代王権の基礎構築であったと考えられる。政治的な律令制と都城制に対応するのが宗教的な「神祇制と官寺制」であり、その神祇制の中核としての伊勢神宮の造営であったと位置づけられるのである。〕
 
●天照大神=持統天皇(p91)
 天照大神という皇祖神のイメージ形成と、伊勢神宮の造営は、天武・持統朝で行われた。
 天照大神のモデルとなったのは、持統天皇であった。
 ① 諡号……『日本書紀』(720年)、高天原広野姫天皇〈たかまのはらひろのひめのすめらみこと〉。『続日本紀』「大宝3年(703年)12月17日条」には、大倭根子天之広野日女尊〈おおやまとねこあめのひろのひめのみこと〉とある。ヤマトネコの諡号は、文武、元明、元正にも継続された実体性のある諡号。高天原広野姫天皇へと改定された703年~720年の17年間が、記紀の天照大神を中心とする高天原神話の最終的な形成期であった。
 ② 皇孫と神勅……天照大神と皇孫瓊瓊杵尊の関係は、持統天皇と文武天皇の関係を投影しており、「天壌無窮」の神勅はいわゆる「不改常典」の詔を反映している。
 ③ 儀礼……持統天皇の即位式において「公卿百寮〈まへつきみつかさつかさ〉、羅列〈つらな〉りて匝〈あまね〉く仰ぎみたてまつりて手拍〈てう〉つ」とあるが、拍手の作法は、これ以後の天皇の即位式のモデルとなった。『延喜式』践祚大嘗祭式においては「五位以上、共起就中庭版位跪、拍手四度、度別八遍。神語所謂八開手是也」とある。この「八開手〈やひらて〉」の拍手の儀礼は、現在でも伊勢神宮の神職の間で継承されている「八度拝〈はちどはい〉」と呼ばれる正式な拍手の作法に通じるものである。
 
●中国の史書(p105)
 中国の史書に現れる古代日本の王。
 『漢書地理誌』……BC1世紀ごろ、百余国分立。小国における王の存在。
 『後漢書東夷伝』……AD57年に遣使した委の奴国王、107年に遣使した倭国王帥升〈すいしょう〉(まだ倭国の統一が達成されていたとは考えられず、一小国の王とみる説が有力)。
 『三国志 魏書 東夷伝倭人条』……239年に遣使して「親魏倭王」の称号を受けた邪馬台国の女王卑弥呼。
 空白の4世紀。
 『宋書倭国伝』421~478年に相次いで遣使し、「安東将軍倭国王」などの称号を授けられた讃(応神または仁徳または履中)、珍(仁徳または反正)、済(允恭)、興(安康)、武(雄略)の、倭の五王。小国から統一王朝への転換。
 
●東出雲(p142)
 6世紀の東出雲の古墳から、単龍環頭大刀、双龍環頭大刀、三葉文環頭大刀など、中国・朝鮮系の大陸風飾大刀〈かざりたち〉が出土、蘇我氏との関係が窺われる。隠岐の島前〈とうぜん〉地域の立石〈たていし〉古墳でも、双龍環頭大刀が副葬されており、蘇我氏との関係が推定される。
 また、松江市南郊の有〈あり〉古墳群の中の岡田山1号墳から「額田部臣」の銘文入りの大刀が出土。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇)の部民が設置されていた。
 
●神祇祭祀(p149)
 出雲古代の祭祀の三段階。
 青銅器祭祀……弥生時代前期~中葉。1世紀中葉に消滅。銅剣・銅矛・銅鐸の神秘性、精霊崇拝的な自然霊への信仰。神庭荒神谷遺跡や加茂岩遺跡から出土した夥しい銅剣・銅矛・銅鐸。アニマイズム(精霊イズム=精霊崇拝)。
 首長墓祭祀……弥生後期から古墳時代。6世紀中葉に頂点から終焉へ。首長の身体と霊魂に対する同次元的な畏怖と祭祀の段階。キングイズム(武王イズム=巫王・武王崇拝)。
 神祇祭祀……6世紀中葉以降。霊魂観念の抽象化と象徴化。ゴッドイズム(神祇イズム=神祇崇拝)。
 
●超越神聖王権(p166)
〔 世俗王権と祭祀王権とを合体した超越神聖王権をめざした大和の天武と持統の王権が必要としたのは、大陸や半島に向かう出雲という一種の辺境世界、つまり境界世界にあって、自然信仰的な霊威力を豊かに蓄積し伝承していた出雲の王権の祭祀王としての属性であった。天武の大和王権が、世俗王としてのみならず、祭祀王としての属性をも身に帯し、かつ両者の属性を一身に享けた超越神聖王をめざしたとき、必要であったのが、前述のように「内なる伊勢と外なる出雲」という東西の両端の象徴的霊威的存在であった。この東西の両者は大和の王権にとって、東-西、朝日-夕日、太陽-龍蛇、陽-陰、陸-海、現世(顕世)-他界(幽世)、という対称性のコスモロジーの中に位置づけられるすぐれて宗教イデオロギー的な存在であった。それはまさに、〈内部〉としての伊勢、〈外部〉としての出雲、という対照的な位置づけであった。そしてそれは、北極星を背に負い北斗七星をもって運行の気を占い、青龍・白虎に朱雀・玄武という東西南北に四神を配する中国王朝の天子南面の南北軸中心のコスモロジーとは別の、太陽の運行観測と海上他界観念とを基盤として日本の古代王権が独自に想定していった東西軸のコスモロジーによるものであった。七世紀末から八世紀初頭にかけて成立した大和の超越神聖王権とは、このように、〈外部〉としての出雲、の存在を必要不可欠とした王権だったのである。〕
 
●肉食(p186)
 古来、7~8世紀までは天皇をはじめ貴族層も肉食を行っていた。この頃の「肉食禁止令」は、仏教の殺生禁断の思想と天皇の病気平癒の祈願による臨時的なもの。
 9~10世紀になると、肉食が禁忌視されるようになった。神祇信仰と神祇祭祀の純化から血穢や死穢の忌避が強調されたものであり、恒常的な行動規範となっていった。〔それは、律令官人から摂関貴族へと転身していった平安貴族たちにとって必然的な変化であり、神聖なる「まつりごと(神祇祭祀と摂関政治)」に奉仕するためには、身体の清浄性こそが必要不可欠と考えられるようなったからであった。〕
 
●清和天皇(p213)
 藤原良房による幼帝清和天皇(858年即位)の擁立こそが、「祭祀王」誕生の画期だった。
 新たに純化された「祭祀王」にとっての最重要の儀式として、鎮魂祭が新たに再編成された可能性が大きい。「祭祀王」天皇の誕生で、〈外部〉としての出雲が必要なくなった。内なる〈外部〉としての摂関や内覧という「世俗王」という装置を作り出した。
 
(2024/2/12)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

世界史の中の戦国大名
 [歴史・地理・民俗]

世界史の中の戦国大名 (講談社現代新書)
 
鹿毛敏夫/著
出版社名:講談社(講談社現代新書 2723)
出版年月:2023年10月
ISBNコード:978-4-06-533218-4
税込価格:1,210円
頁数・縦:317p・18cm
 
 遣明船の時代から江戸幕府の鎖国に至るまでの間に、海外、特に東南アジアとの交易に携わった西国の戦国大名たちの足跡を追い、その意義を論じる。
 
【目次】
第1章 「倭寇」となった大名たち―戦国大名と中国
第2章 外交交易対象の転換―対中国から対東南アジアへ
第3章 対ヨーロッパ外交の開始とその影響
第4章 戦国大名領国のコスモポリタン性
第5章 東南アジア貿易豪商の誕生
第6章 日本と世界をつないだ国際人たち
第7章 戦国大名の「世界」と徳川政権の「世界」
 
【著者】
鹿毛 敏夫 (カゲ トシオ)
 1963年生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院人文科学府博士後期課程修了。博士(文学)。現在、名古屋学院大学国際文化学部長・教授。専攻は日本中世史、日本対外交渉史。
 
【抜書】
●天正遣欧使節(p13)
 天正10年(1582年)ローマへ。
 巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと大村純忠、有馬晴信が主導した。大友義鎮(宗麟)の権威を借りて、派遣主体を3名の大名とした。
 教皇やイエズス会総長への書状を偽作してでも、Coninck van BVNGO(豊後王)からの派遣という形式と記録を整え、その王である大友義鎮の名代としての主席正使伊東マンショの派遣を演出する必要があった。
 
●カンボジア、タイ、メキシコ(p20)
 16世紀半ば以降、戦国大名の活動は東南アジアにおよんだ。
 松浦氏はアユタヤ国王への書簡と武具を贈答。大友氏は、1570年代初頭までにカンボジア国王との外交関係の締結に成功した。島津氏は、豊薩合戦以降、軍事的優位に立ち、豊後とカンボジアの通交を遮断し、自らカンボジアとの善隣外交関係を構築しようとした。
 伊達政宗は、メキシコ経由で慶長遣欧使節を派遣した。
 
●BVNGO、Bungo(p39)
 ポルトガルのイエズス会士ルイス・ティセラ(Luis Teixeira)が1595年に作成した日本地図には、本州部分をIAPONIAとし、九州全体をBVNGOと表記していた。
 1610年、オランダの地理学者ペトルス・ベルチウス(Petrus Bertius)が作成したアジア図にも、本州をJapan、九州全体をBungoと記している。
 九州全体を、日本(本州)に並立する「豊後」という国であると錯覚していた。
 
●硫黄(p55)
 宝徳3年(1451年)の遣明船団の積み荷。サルファーラッシュ。
 銅15万4500斤(92.7トン)、硫黄39万7500斤(238.5トン)。
 中国への硫黄の輸出は、10世紀末から確認できる。宋代の中国では、兵器としての火薬の利用が拡大し、黒色火薬の原料として硫黄、硝石、木炭の需要が急増した。宋国内では、硫黄はほとんど産出しなかった。
 
●1571年(p67)
〔 グローバルヒストリーを含めた世界史と日本史における近年の多面的研究の成果によると、一六世紀における歴史の画期は、一五七〇年前後に求める考え方が一般的である。古くはチャールズ・ボクサーが指摘し、一九九〇年代にはデニス・フリンらが主張したように、旧来の個別大陸間の中距離交易に加えて、アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカの四大大陸を結ぶ恒常的な海上貿易の連環が完結して、いわゆる「世界貿易」が誕生した一五七一年が大きな画期としてとらえられる。その重要要因は、中国における銀の大量需要である。無論、銀の大流通に共時性の基礎をおく時代認識は、地域によって強度が異なるが、一五七一年前後の世界貿易の活性化は、地域による強さや方向性の相違を超えて相互に比較するに足るレスポンスを生み出している(岸本美緒「銀の大流通と国家統合」)。
 さらに、明代中国史研究においても、海禁と朝貢貿易に伴う厳しい経済統制の維持が困難になった明朝が、一五六〇年代末についに海禁を緩和したことを大きな画期としてとらえ、一五七〇年前後からの東アジア海域が、「互市〈ごし〉」「往市〈おうし〉」などの多様な民間交易の秩序を新たに形成していく過程を、「一五七〇年システム」と称する研究もある(中島楽章「一四~一六世紀、東アジア貿易秩序の変容と再編――朝貢体制から一五七〇年システムへ」)。
 
●実利・対等(p127)
〔 中華とその周辺国の上下関係を前提とした冊封体制とはまったく性格を異にする外交関係が、一六世紀後半という時期に、本来は国を代表する外交権を保持するとは考えがたい「地域国家」の主権者=戦国大名の手によって開拓されたことは一見、奇異に見える。しかしながら、逆に考えれば、かつて室町将軍足利義満や天下人豊臣秀吉らが抜け出すことのできなかった東アジアの伝統的国際秩序を、きわめてシンプルな形で打ち破ることができたのは、古代以来の伝統の呪縛にとらわれる必要がなく、実利・対等を基軸とした新たな二国関係を比較的安易に獲得しやすい彼らの政治的立場と地政学的環境がその要因になっていたのだろう。〕
 
●16世紀半ば~17世紀初頭(p146)
〔 日本の歴史のなかで、一六世紀半ばから一七世紀初頭という時期は、地方社会が世界に直接つながることができた稀有な時代である。それを可能とした要因は、国内においては、戦国時代の政治権力の地域割拠性と自律性、造船や船舶航海技術の進歩、地域での産業と経済の発展であり、また世界においては、環シナ海域(東シナ海域と南シナ海域)レベルでの経済・交易活動の活発化、「大航海時代」を経験した西欧諸国の東アジア到達である。こうした要素のうち、どれか一つでも欠けていたならば、日本列島の地方の都市や町でのコスモポリタン性の萌芽は、二〇世紀末からの現代を待つことになっていたであろう。〕
 
●伊倉(p169)
 肥後国伊倉(熊本県玉名市)に、「肥後四位官郭公墓〈しいかんかくこうぼ〉」と呼ばれる唐人墓がある。16世紀初頭に活躍した「唐人」、朱印船貿易に携わった郭濵沂〈かくひんき〉の墓。海澄県(現在の福建省漳州〈しょうしゅう〉)出身。元和5年(1619年)仲秋(旧暦の8月)に、子息の国珍と国栄が建立。立碑形式の石製墓碑を墳丘の前に立てる中国華南地方の墓地様式。
 このほかにも、伊倉とその周辺には謝振倉〈しゃしんそう〉と林均吾〈りんきんご〉の唐人墓もある。
 伊倉には現在も「唐人町」の地名が残っており、有明海に注ぐ川も「唐人川」と呼ばれている。
 
●豊後の豪商仲屋氏(p205)
 初代仲屋顕通〈けんつう〉、二代目宗越(宗悦)。豊後府内の商人、16世紀半ば、天文年間の九州で第一と称された豪商、政商。豊後の領主大友氏から認められた規格の秤によって、富を築いた。「乾通の遺秤」。
 顕通は、もともと貧しい酒売り商人だった。
 肥後に進出して、豊田荘の中央部を流れる緑川〈みどりがわ〉の流通路を掌握し、川荷駄賃〈かわにだちん〉の利益を得ていた。
 そのほか、①年貢納入の複数年請負契約による米の投資的運用に伴う収益、②地域升の規格差を利用した換算差益、③米と銭の「和市」相場の変動を利用した交換差益、という仕組みで富を築いていった。
 宗越は、大坂・京都・堺にも商業活動の拠点を持っていた。臼杵の唐人町懸〈かけ〉ノ町にも広大な屋敷を有していた。
 カンボジア交易を手掛ける明の貿易商人と取引関係を結び、東南アジア方面の物資を入手していた。
 
●中国の海賊船(p246)
 1547年12月、フランシスコ・ザビエルはマラッカの教会で、アンジロウという人物に出会い、日本という国の存在を知る。ローマのイエズス会員にあてた書簡でそのことを伝えている。
 その中に、中国の海賊に関する記述がある(河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)。
 「私は心のうちに私自身が、あるいはイエズス会の誰かが、二年以内に日本へ行くようになるだろうと思います。その渡航はたいへん危険で、大暴風雨に遭いますし、海上には積み荷を盗ろうと往来する中国の海賊船がいますし、〔航海の途中で〕たくさんの船が難破していますけれど、それでも私たちは行きます。」
 
●家康の東南アジア外交(p280)
 初期徳川政権の外交姿勢は、前政権のものとは明らかに異なるものであった。家康は、秀吉の強硬外交政策をあらため、明や朝鮮などとの国交回復交渉を開始した。
 東南アジア諸国(カンボジア、安南、シャム、ルソン《スペイン領フィリピン》)にも親書を送り、外交・貿易関係の復活に成功した。日本国内の戦乱が終結し、朱印を捺した日本船が各国に到着した際には受け入れ、それ以外の船には通商を認めないよう求めた。相手国から日本への渡航を望む人間への往来許可も求めた。
 17世紀に来航したスペイン、オランダ、イギリス各国も歓迎し、日本での貿易を許可したり、朱印船制度によって一定の規制をかけながら日本人の海外渡航・貿易を認めたりした。特に、オランダに対しては、カトリックと敵対する国の商人であることから優遇した。
 
●鎖国=海外貿易の独占(p289)
 元和2年(1616年)、江戸幕府は、中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定。
 寛永元年(1924年)には、スペイン船の来航を禁じる。
 寛永10年、日本船の海外渡航を、朱印状に加えて老中奉書による渡航許可を受けた船に限定。
 寛永12年(1635年)、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止、さらに500石積み以上の大船の建造禁止令を出す。
 その後、九州各地に訪れていた中国船の入港地を長崎に限定、寛永16年には、ポルトガル船の来航を禁止、寛永18年に平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す。
〔 こうしていわゆる江戸時代の「鎖国」の状態が完成し、以後、日本は二〇〇年余りの間、朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族・オランダ商館・中国の民間商船に絞った外交交易関係を幕府が管理し、それ以外の海外諸勢力との交渉を閉ざした。また、幕府以外の国内諸大名や民間商人らが外交交易の前面に立つ場をつぶし、幕府が対外関係を一元的に統制する体制を完成させた。この「鎖国」体制によって、幕府は対外貿易を独占することになり、近世日本の地域社会において、産業や経済、文化に与える海外からの影響は制限されることになった。すなわち、江戸幕府による「鎖国」は、消極的に国を閉ざしたのではなく、その半世紀前までの戦国大名が個別に開拓・保持し、その富強化の根源としていた諸外国との外交と貿易の権利を、日本国唯一の統一政権として一元的に管理・統括する、積極的世界戦略だったのである。〕
 
●大友氏改易(p302)
 大友義鎮の跡を継いだ義統〈よしむね〉は、秀吉の偏諱を受けて「吉統」と改名した。
 文禄の役で、城に籠る小西行長軍が、反撃してきた明・朝鮮連合軍に包囲され退却する際に、援護をせずに自ら退却したとの責めを受け、改易された。
 
●対等外交(p307)
〔 さらに、一六世紀後半に芽吹いた日本の脱中華および対等外交の素地は、その後、近世徳川政権による二百数十年間の管理・温存を経て、一九世紀半ば過ぎにあらためて登場したロシア、アメリカ、イギリス等欧米諸国との交渉場面に応用された。中国に三跪九叩頭〈さんききゅうこうとう〉する必要を伴わない外交の実現が、東アジアの日本という国から起こったことで、この圏域内の伝統的国際秩序は終焉へと向かうことになった。一九世紀以降の東アジアにおいて、中国や朝鮮が社会の近代化に苦しむなか、日本がいち早くそれを成し遂げることができたのは、その三〇〇年前の一六世紀に、大内、大友、相良らの戦国大名がある時は「日本国王」を偽証し、またある時には倭寇的扱いを受けながらも、中華世界へのアプローチに腐心した「経験」が、潜在的に受け継がれたからに他ならない。その経験によって、古代から室町時代までの日本の各政権にとって絶対的存在だった「中華」を世界のなかで相対的に見る思想が芽生え、その外交思想が、やがて数百年後の近世末期に再び訪れた外圧に対する主体的な対処を誘発し、東アジア諸国のなかで比較的早いスピードでの近代的な「国家」形成に結実したのである。〕 
 
(2024/2/6)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:

賃金の日本史 仕事と暮らしの一五〇〇年
 [歴史・地理・民俗]

賃金の日本史: 仕事と暮らしの一五〇〇年 (575) (歴史文化ライブラリー 575)
 
高島正憲/著
出版社名:吉川弘文館(歴史文化ライブラリー 575)
出版年月:2023年9月
ISBNコード:978-4-642-05975-6
税込価格:2,200円
頁数・縦:309p・19cm
 
 古代から近代にかけて、主に職人の賃金の歴史を詳述する。
 政府発表の統計資料などない時代の、数量経済史の難しさについてもおおいに語る。
 
【目次】
歴史にあらわれた賃金―プロローグ
古代 日本の賃金のはじまり
 神話と貨幣
 古代の労働者たち
 律令官人の仕事と生活
 古代の格差
 銭の使い方
中世 職人の誕生とその時代
 浸透する銭貨
 職人の時代
 中世職人の賃金
近世 都市化の進展と職業の多様化
 近世都市の労働者たち
 都市に生まれた職業
 災害と賃金
 賃金に関係するもの
 長期の賃金を概観する
 新しい賃金史研究
近代へ
 変化する職人たち
 工業化のなかで
近代の職人はどのように描かれたのか―エピローグ
 
【著者】
高島 正憲 (タカシマ マサノリ)
 1974年、大阪府に生まれる。現在、関西学院大学経済学部准教授、博士(経済学)。
 
【抜書】
●頴稲(p30)
 えいとう。
 稲首で刈り取って稲穂が付いた状態の稲。布などと同じく、古代の日本では貨幣として流通していた。
 
●金属貨幣(p33)
 古代日本では、7世紀後半には金属貨幣が造られていた。
 『日本書紀』天武12年(683年)三月乙酉条、『続日本紀』文武3年(699年)十二月庚子条に、銭貨を作るための鋳銭司〈じゅせんし〉が設置されたという記録がある。
 1998年には、奈良県飛鳥池遺跡から、富本銭が鋳型などのさまざまな鋳造用語(ママ。用具?)とともに出土。
 
●律令官人の給与(p62)
 古代の律令官人に与えられる給与は、律令のうちの令によって詳細に定められた規程により、位階(身分的給与)と官職(職務的給与)それぞれに対して支給された。
 禄……絁〈あしぎぬ〉、糸、布などの現物を原則とする。支給の大部分を占める。
 禄以外に、位階・官職に応じて田地(位田、職田)、封戸(位封、職封)が支給された。
 
●中世の職人(p100)
 賃仕事……道具のみで原材料を持たず、注文と同時に原材料を与えられて、製品の制作・加工に従事し、その労働に対して報酬=賃金を得る仕事。おもに建物建築や高級品の注文に対する仕事。
 代金仕事……道具の他に原材料も持ち、消費者の注文の有無にかかわらず、製品を制作・加工し、完成品を商品として販売する仕事。主として日常的な手工業品の制作・販売。
 
●100文(p122)
 中世の京都の大工の賃金は、長い期間100~110文であった。14世紀後半から16世紀後半のデータより。
 
●大坂城(p145)
 豊臣秀吉は、織田信長と10年にわたる争いを繰り広げた石山本願寺の跡地に大坂城を建設した。
 大坂夏の陣(1615年)で焼け落ちた後、その地に徳川幕府によって新たに大坂城が造られた。
 
●猫の蚤取り(p159)
 江戸時代には、猫の蚤取り、耳垢とり、掃除屋、親孝行、すたすた坊主など、珍妙な職業があった。
 猫の蚤取り……猫をお湯をかけて洗い、濡れた身のまま狼の皮をかぶせ、蚤をそちらに移動させる。その皮を振るって蚤をはらう。『西鶴織留〈さいかくおりどめ〉』(元禄7年、1694年)。
 親孝行……「張りぬきの男人形を胸につり、衣服二つを上下に着し、手足も張りぬきを用ひ、孝子父を負ふに扮す」。『守貞謾稿』。
 すたすた坊主……願人〈がんにん〉坊主を装う乞食。人家や商店の入り口で歌い踊り、金品を受け取る。裸で縄の鉢巻き・蓑のついたしめ縄の腰巻、片手に扇や錫杖という出で立ち。
 
(2024/1/24)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

光明皇后 平城京にかけた夢と祈り
 [歴史・地理・民俗]

光明皇后 - 平城京にかけた夢と祈り (中公新書)
 
瀧浪貞子/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2457)
出版年月:2017年10月
ISBNコード:978-4-12-102457-2
税込価格:968円
頁数・縦:282p・18cm
 
 聖武天皇との関わりを中心に、光明皇后(光明子)の生涯をたどる。
 
【目次】
第1章 父不比等と母三千代
第2章 父、逝く
第3章 皇太子の早世
第4章 母の死
第5章 四兄弟の急死
第6章 夫との別れ
第7章 娘への遺言
 
【著者】
瀧浪 貞子 (タキナミ サダコ)
 1947年、大阪府生まれ。1973年、京都女子大学大学院文学研究科修士課程修了。京都女子大学文学部講師等を経て、1994年、同大学文学部教授。現在、京都女子大学名誉教授。文学博士(筑波大学)。専攻は日本古代史(飛鳥・奈良・平安時代)。
 
【抜書】
●変成男子(p110)
 へんじょうなんし。男子に生まれ変わり、仏になること。
 仏教では女性は成仏できないとされているが、『法華経』では、変成男子を説いたので、女性の信仰を集めた。
 『金光明最勝王経』でも同様の教えが説かれ、後宮の女性から注目された経典である。
 
●大養徳国(p131)
 天平9年(737年)12月27日、聖武天皇は「大倭国〈やまとのくに〉」の表記を改め、「大養徳国」とした。「大いに(天子としての)徳を養う」の意味。
 同年暮、猖獗を極めた天然痘がようやく沈静化したのを機に、国名表記を改めた。
 
●知識(結)(p153)
 知(智)識とは、仏の功徳にあずかるために浄財を喜捨すること。あるいは、喜捨した人を言う。
 河内国に知識寺があり、本尊は廬舎那仏。聖武天皇は、天平12年(740年)、光明子とともに礼拝した。この時の経験により、紫香楽での大仏造立には知識結を求めた。
 
●善信尼(p159)
 日本で最初に出家したのは善信尼という女性(尼)だった。6世紀後半。司馬達等〈しばたっと〉の娘の島、当時11歳。
 島が選ばれたのは、日本では神社に仕える巫女は純粋無垢な童女とされていたから。司馬達等(中国南梁の人)が故国から持参した仏像を人々は「大唐神〈おおからがみ〉」と称し、仏像は異国の「神」と認識されていた。そのため、出家第一号は僧ではなく、尼が選ばれた。
 そうした経緯があったので、国分寺とは別に国分尼寺が設けられた。
 
●尊号聖武(p197)
 「聖武」は諡ではない。生前出家して仏に帰依しているので、「更に諡を奉らず」と孝謙天皇が勅の中で述べている。
 諡(漢風諡号、和風諡号)のない天皇は、聖武が初めて。「三宝の奴」と称した聖武の強い遺志であった。
 天平宝字2年(758年)8月、孝謙天皇が仲麻呂に勧められて、聖武の偉業と徳を称え、「勝宝感神聖武皇帝」という尊号を追贈する。このうちの2字を取って「聖武」と呼ばれるようになった。
「勝宝感神」は天(神)をして黄金を出土せしめるに至った聖武の信仰心、「聖武」はいかなる賊臣をも屈服させる神聖な徳と武威、に由来する。
 
●改元(p247)
 淳仁天皇の即位には、不自然なことが多い。その一つが、即位後の代始め改元が行われていないこと。孝謙天皇時代の「天平宝字」をそのまま継承している。しかも、在位6年の間、一度も改元されていない。
〔 孝謙天皇が意図的に改元を拒んだ結果としか考えられない。納得したうえでの譲位でなかったことを示している。〕
 
(2024/1/18)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

最初の神アメノミナカヌシ 海人族・天武の北極星信仰とは
 [歴史・地理・民俗]

最初の神アメノミナカヌシ: 海人族・天武の北極星信仰とは
 
戸矢学/著
出版社名:河出書房新社
出版年月:2023年8月
ISBNコード:978-4-309-22892-1
税込価格:2,145円
頁数・縦:219p・20cm
 
 『古事記』では最初に登場する神であるのに、『日本書紀』には言及がないアメノミナカヌシ(実は一書第四に天御中主尊として出てくる)。その理由を、天武天皇の思想と事績とともに解き明かす。
 アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)とは、北極星であり、海人族の神であった。海人族の凡海〈おおあま〉氏に養育され、道教と陰陽道に精通した天武天皇(大海人〈おおしあま〉皇子)が、日本神話(古事記)に差し込んだ神なのである、という。
 
【目次】
第1章 北極星信仰の実相…海に生きる者に唯一の指針(北極星(北辰)の顕現
 神名の原理
 本居宣長の神名解釈
 ヤマト言葉の由来
 アメノミナカヌシを祭神とする神社
 北極星と道教
 伊勢に定着した「太一」
 北極星は海洋民族の指針
 星宮・星神社の系統
 北辰信仰
 記・紀に見える「星」
 宮中祭祀と北辰・北斗
 北極星と四方拝
 四神相応が解き明かす「北に君臨する神」
第2章 北極星が統合した呪術と科学…天武帝が企図した陰陽道国家(始めて占星台を興つ
 天武帝が目指したもの
 諱と海部
 飛鳥を拓いた渡米氏族・東漢氏
 乙巳の変と東漢氏
 神格化された天皇
 天文遁甲
 陰陽寮と陰陽道
 「八色の姓」が明示する古代日本の支配層
 皇別の実態
 「神別」の底力と「諸蕃」の実態
 陸の民の指針になった北極星
第3章 北極星の天下取り…坂東武者は関東平野を馬で泳ぐ(東照宮と陰陽道
 螺旋の呪術
 江戸の四神相応
 よみがえる「海人族の科学」
 二社一寺による江戸の守護
 坂東武者たちの北極星
 神道の起源
 幻の大和心
 復古神道の真相
 新たな蠢動
 「尾張神宮法案」廃案の真相
 尾張氏はなぜ〈剣〉を返納しなかったか
 「宇斯波久」が真相を解き明かす
 「うしはく」と「しらす」
 諡号に隠された真相
 真の「復古」とは
 
【著者】
戸矢 学 (トヤ マナブ)
 1953年、埼玉県生まれ。神道・陰陽道・古代史研究家、作家。國學院大学文学部神道学科卒。
 
【抜書】
●天武天皇の九大功績(p81)
 (1)「天皇」という尊号の創唱……道教の「天皇大帝〈てんおうだいてい〉」(北極星を意味する天の支配者)から天皇を採り、その論拠用法を記紀によって展開。
 (2)『古事記』と『日本書紀』の編纂を勅命。
 (3)三種の神器の制定……鏡は太陽(収穫)、勾玉は月(祭祀)、剣は武力(軍事)を象徴。
 (4)践祚大嘗祭を始めとする宮中祭祀の制定。
 (5)伊勢神宮を頂点とする国家神道の確立。
 (6)陰陽寮および占星台を設置。
 (7)宮都の選定および建設。
 (8)八色の姓の制定……真人(道教で、天の神の命を受けた地上の支配者。皇族のみ)、朝臣、宿禰(武人、少将。<おおね:大将)、忌寸、道師(技術者・技能者)、臣、連、稲置(地方官)。(p125)
 (9)飛鳥浄御原律令の制定。
 
●式年遷宮(p87)
〔 ここに天武天皇の計画の一つが「式年遷宮」という形で結実することになる。二十年に一度必ず実施するためには、少なくともそれ以前の数年間は準備に取り組まなければならない。そして二十年という年月は、おおよそ一世代に当たる。これを国家儀礼として定め置くことによって、日々継続的に神道教化活動をおこなわせることとなり、遷宮の際にはあらためて神道を国家国民の信仰として印象づけることができることになる。それが天武天皇の政策であろう。
 そしてこの時に、アマテラス神は日神(太陽神)になったのだと、私は推測している。それまでアマテラス神はヤマトの人々に信仰も崇拝もされてはおらず、氏神とする氏族も存在しない。しかし稲作を国家施策とする日本にとって、太陽崇拝こそは最もわかりやすい信仰対象である。天武天皇は、アメノミナカヌシ神(北極星崇拝)に続いて、アマテラス神(太陽崇拝)をここに打ち立てたのだ。
 勅命によって始まったこのシステムは、まことに示唆に富んでいる。天武天皇によって開始された「再生〈リフレッシュ〉による永続」は、その後の日本文化の根元の思想になった。〕
 
●淡海三船(p99)
 722-785年。
 天智天皇の直系、大友皇子の曽孫。現存最古の漢詩集『懐風藻』の選者。大学頭であり、文章博士であって、当時最高の知識人だった。
 神武天皇から元正天皇までの全天皇の漢風諡号は、淡海三船が一括撰進した。ただし、弘文と文武を除く。
 
●岩船(p113)
 『大和名所図会』に載る「益田岩船」が、天武天皇の設置した占星台(わが国最初の天文台)?
 岩船は高台にあり、飛鳥を見渡すことができる。
 この地域は東漢〈やまとのあや〉氏一族の拠点。天文を観測できる技術を有する人材は、東漢氏をおいて他にいなかった。
 
●諸蕃(p121)
 しょばん。
 『新撰姓氏録〈しんせんしょうじろく〉』、弘仁6年(815年)編纂。京を含む畿内全域に居住する有力氏族1182氏が列挙されている。
 (1)皇別……神武天皇以後、天皇家から派生した氏族。
 (2)神別……神武天皇以前の神代に生じた氏族。① 天神(ニニギが天孫降臨した際に付き従った神々の子孫)、②天孫(ニニギから三代の間に分かれた子孫)、③地祇(天孫降臨以前から土着していた神々の子孫)。
 (3)諸蕃……渡来人系の氏族。渡来して間もない人々。
  海人族〈あまぞく〉は、本来であれば諸蕃に当たるはずだが、古くに渡来して定住しており、日本各地で首長的氏族となって国造となり、地祇を奉斎することによって神別に組み込まれた。尾張氏、海部〈あまべ〉氏、紀氏、熊野氏、宇佐氏、など。彼らの一部は、渡来氏族であるにもかかわらず、信仰する氏神ともども「ヤマトの神々の子孫」として公式に列せられた。
 
●伏見稲荷大社(p137)
 通称「おいなりさん」。京都府京都市伏見区深草藪之内。
 祭神:宇迦之御霊〈うかのみたま〉大神。
 配祀:佐田彦大神、大宮能賣大神、田中大神、四大神。
 全国最多、4,000社ある神社「稲荷神社」の総本社。
 稲荷は、もともと「稲なり」で、農耕豊作の神。祭神の宇迦之御霊大神は、穀物とりわけ稲の神霊を意味するもので、典型的な弥生神。
 しかし、農耕には無縁の秦氏が信仰するようになって、また、都という土地柄もあって商業神に変貌した。
 
●文氏(p139)
 文〈ふみ〉氏(宿禰、忌寸など)は、最も古い漢系の帰化氏族。後漢霊帝の子孫を称する。秦始皇帝の裔と称する秦氏と並び称される。
 応神天皇時代に渡来し、朝廷に文筆で仕えた。
 阿知使主〈あちのおみ〉は、東漢氏の祖に。王仁〈わに〉は、西漢氏〈かわちのあやうじ〉の祖となった。
 
●日本神話のスタンダード(p146)
〔 日本人の神話観の歴史は、平安時代初頭から第一に『日本書紀』によって形成され、次いで『旧事紀(先代旧事本紀)』に影響されている。『古事記』が日本神話のスタンダードとされるようになるのは、この二書から大きく遅れて江戸時代も後半に入ってからのことで、もっぱら本居宣長の評価によるところが大きい。
 明治に入って『古事記』第一になるのも、国学者たちによる復古神道が維新の原動力の一つになったからで、いまでこそ『古事記』神話がスタンダードであるかのようになっているが、朝廷が『古事記』を秘匿したのは当然ながら理由あってのことだろう。しかしその理由が何なのかは今もって定説はない。〕
 
●縄文(p172)
〔 しかし実は、そのような万華鏡のような「神道」にも、不変の一貫する本質があって、「神道」を論ずるのであれば、そこにこそ焦点をあてなければならないだろう。それは、何かといえば、「縄文人の信仰(縄文時代の神信仰)」である。これこそが「随神道〈かんながらのみち〉」であって、古代より現代に至るまでのすべての時代の神道にも引き継がれている本質であり原形である。これに比べれば、社殿建築や儀礼祭祀などは二義的な要素にすぎない。そして、「かんながら」とは和訓であり、ヤマト言葉である。これに対して「しんとう」は漢語であり、漢音である。〕
 
●アメノミナカヌシ(p211)
〔 天皇なるものはすべて死すればアメノミナカヌシ神に統合される、というのが天武天皇が到達した思想である。したがって、地上に存する神社でアメノミナカヌシ神を祭神として祀るのは不敬であって、『延喜式』の「神名帳」にアメノミナカヌシ神を祀る神社がまったく見当たらないのは当然であろう。アメノミナカヌシ神の依り代(神体)は天に輝く北極星そのものであって、他にはありえない。だから、それを祭神とする神社が地上に存在することなどありえないのだ。
 ところが第一章で見たように、星神社を始めとする多くの神社に祀られている。その理由は、少なからぬ星神社がすでにあって、江戸時代になってからその祭神をアメノミナカヌシ神に変更したか、または追加合祀したものであるだろう。その罪深い所業をおこなわせた者は徳川家康と天海であろう。家康・天海は、アメノミナカヌシ神を我が物にしようとして失敗した。東照宮が維新によって激減したのはその証である。〕
 
(2024/1/12)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

武家か天皇か 中世の選択
 [歴史・地理・民俗]

武家か天皇か 中世の選択 (朝日選書1038)
 
関幸彦/著
出版社名:朝日新聞出版(朝日選書 1038)
出版年月:2023年10月
ISBNコード:978-4-02-263123-7
税込価格:1,870円
頁数・縦:254p・19cm
 
 中世期の朝廷と武家との関係について考える。
 
【目次】
序 謡曲『絃上』の歴史的回路―虚構を読み解く、「王威」そして「武威」
1 武家か天皇か
 「本朝天下ノ大勢」と天皇
 「本朝天下ノ大勢」と武家
2 内乱期、「王威」と「武威」の諸相
 東西両朝と十二世紀の内乱
 南北両朝と十四世紀の動乱
3 近代は武家と天皇をどう見たか
 近代日本国の岐路
 武家の遺産
 再びの武家か、天皇か
 
【著者】
関 幸彦 (セキ ユキヒコ)
 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。
 
【抜書】
●九変五変(p32)
 新井白石『読史余論〈とくしよろん〉』より。天皇の流れ「本朝大勢の九変観」と、武家を主軸とした「当代に及ぶ五変観」。
《九変》
 一変……藤原義房、摂政就任(幼帝・清和天皇:在位858-876)。外戚政治の始まり。
 二変……藤原基経、関白就任(宇多天皇:在位887-897)。藤原氏の外戚専権。
 三変……冷泉(在位967-969)~後冷泉(在位1045-1068)の八代、藤原氏による外戚専権の定着。
 四変……後三条天皇(在位1068-1073)の政治(親政)。
 五変……白河上皇の政治(院政)。
 六変……武家(鎌倉殿)による兵馬権の分掌。
 七変……北条氏の政治。
 八変……後醍醐天皇の政治(親政)[建武の新政]。
 九変……南北朝、分立の時代。
《五変》
 一変……源頼朝の鎌倉開府。
 二変……北条義時の執権政治。
 三変……足利尊氏の室町開府。
 四変……織田信長・豊臣秀吉の治世。
 五変……当代=徳川家康の江戸開府。
 本朝の六変と武家の一変、本朝七変と武家二変、本朝九変と武家三変が対応。 
 光孝天皇(在位884-887)以前の上古は、天皇が文武を兼ねる理想の時代として解されている。上古聖代観。
 
●天皇名の変化(p43)
 宇多天皇以下、醍醐、村上といった京都の地名や御所名を冠する天皇が続く。諡号から追号へ。50代桓武天皇までが大枠では漢風諡号、51代の平城は、縁の深い場所が天皇名に付された。52代嵯峨および53代淳和も別邸や後院に由来。54代仁明〈にんみょう〉および55代文徳は漢風諡号、56代清和および57代陽成の幼帝が追号、となっている。
 当該期の律令システム(中国的グローバリズム)から王朝システム(日本的ローカリズム)への推移と対応。摂政・関白の登場とも関係している。
 三変の冷泉院の号に示されるように、天皇に対しても「~院」の表現が一般化する。
 
●健全なる野党(p164)
〔 そもそも武家とは武力を職能とした権門の呼称で、武士の個々を統括する役割を担っていた。その点では武家の使命の一つは、京都王朝と対峙しつつ、武家に結集する個々の武士たちの権益を保護することだった。武家が朝家との関係で公的に認知された幕府は、その限りでは武士たちの剝き出しの暴力的欲望を統御する役割も担った。武家とは個々の武士にとって、敵とも味方ともなり得る存在だった。そこに“健全なる野党”としての武家の存在意義があった。武家はかくして自己の存在意義をかけて闘うことになった。道理主義と対峙する、綸旨主義に対してである。〕
 
(2024/1/4)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

図説日本人の源流をたどる! 伊勢神宮と出雲大社
 [歴史・地理・民俗]

図説 日本人の源流をたどる!伊勢神宮と出雲大社 (青春新書)
 
滝音能之/監修
出版社名:青春出版社(青春新書 Intelligence PI-267)
出版年月:2010年3月
ISBNコード:978-4-413-04267-3
税込価格:1,210円
頁数・縦:220p・18cm
 
 日本の「二大神宮」とも言うべき伊勢神宮と出雲大社について、図説を豊富に用いて紹介する(記・紀では両神社と石上神宮にのみ「神宮」の文字を使っているという《P.220 》)。
 著者が「島根県古代文化センター客員教授」だけあって、比重は出雲大社に置かれている。「全国区」「天孫」である伊勢神宮に対して、「地方区」「国津神」出雲大社の意義を強調する狙いがあるか?
 
【目次】
序章 伊勢と出雲
1章 伊勢神宮と出雲大社の原像
2章 日本の創世と祭祀
3章 ヤマト政権と出雲の興亡
4章 日本神話と出雲神話
5章 大和と出雲の文化の伝播
6章 信仰を育んだその風土
7章 ヤマト政権から見た伊勢神宮と出雲大社
 
【著者】
瀧音 能之 (タキオト ヨシユキ)
 1953年生まれ。現在、駒澤大学教授、島根県古代文化センター客員研究員。日本古代史、特に『風土記』を基本史料とした地域史の研究を進めている。
 
【抜書】
●国津神(p40)
〔 本来の国譲り神話は、各地の王がヤマト政権に服従し、屯倉を差し出す。その代わりに自治権を認めるという国造体制を投影したものだった。つまり国土は高天原の神に献上するが、自分たちが政治と国津神の奉斎をするという形だったのだろう。
 ところが中央集権体制への移行に伴い、地方の政務も祭祀も国家が統括することになった。つまり、国津神はお隠れになり、代わって天孫である大王が国を治めていくのである。それゆえ国津神に隠れて(鎮まって)もらう場所として設けられたのが出雲大社だったのだ。これまで信仰を集めてきた国津神の象徴オオクニヌシが自らの宮殿建築を条件に国譲りを承認したという神話に反映され、出雲大社は国津神すべての祭祀の象徴となった。〕
  ↓
 10月に全国の神が集まるのはそのためか。
 
●2000年以上(p60)
 伊勢神宮の神嘗祭の一年の流れ。
〔 四月上旬には神嘗祭などの神事にお供えするお米の稲をまく「神田下種祭〈しんでんげしゅさい〉」が行なわれる。神田は伊勢市楠部〈くすべ〉町と志摩市磯部町恵利原〈いそべちょうえりはら〉の二箇所にあり、主となる楠部の「おみた」は三万平方メートルの作付面積を誇る。由来は倭姫がこの地でアマテラスにお供えする米を作るよう定めた「大御刀代〈おおみとしろ〉」であり、二〇〇〇年以上前から作られてきた。〕
 
●アワビ真珠(p189)
 出雲のアワビは、御埼(現・日御碕)の海人が獲るものが一番だとされた。古代は貢上品、神饌として珍重された。
 アワビの体内で作られる真珠を海人が採取して貢納していたことが知られる。
 
(2023/12/28)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:

桓武天皇 決断する君主
 [歴史・地理・民俗]

桓武天皇 決断する君主 (岩波新書 新赤版 1983)
 
瀧浪貞子/著
出版社名:岩波書店(岩波新書 新赤版 1983)
出版年月:2023年8月
ISBNコード:978-4-00-431983-2
税込価格:1,166円
頁数・縦:286, 4p・18cm
 
 桓武天皇の事績をたどりながら、平安京遷都前後の日本の歴史を綴る。
 
【目次】
第1章 ルーツ――白壁王の長男
第2章 皇位への道――「奇計」によって誕生した皇太子
第3章 桓武天皇の登場――「聖武系」の皇統意識
第4章 平安朝の“壬申の乱”――早良親王との確執
第5章 神になった光仁天皇――長岡京から平安京へ
第6章 帝王の都――平安新京の誕生
第7章 政治に励み、文華を好まず――計算された治政
終章 桓武天皇の原点――聖武天皇への回帰
  
【著者】
瀧浪 貞子 (タキナミ サダコ)
 1947年大阪府生まれ。京都女子大学大学院修士課程修了。京都女子大学文学部講師等を経て、1994年同大学教授。現在、京都女子大学名誉教授。文学博士(筑波大学)。専攻は日本古代史(飛鳥・奈良・平安時代)。
 
【抜書】
●親王禅師(p67)
 早良親王は、幼いころから仏道を志し、東大寺の等定〈とうじょう〉を師として11歳で出家、21歳(もしくは22歳)で受戒し、その年に東大寺から大安寺〈だいあんじ〉に移住した。東大寺では法華宗を極め、大安寺に移住後は華厳宗を広めることに尽力した。東大寺の開山・良弁〈ろうべん〉は、臨終に際して早良に華厳宗を伝授。
 宝亀元年(770年)、父の光仁の即位に伴い、「親王禅師〈しんのうぜんじ〉」と呼ばれることになる。僧籍を持ったまま親王号を称したため。正倉院文書に「親王禅師」「禅師親王」と見える。
 桓武天皇の即位とともに皇太子に立てられ、還俗した。
 
●宮内遷宮(p85)
 きゅうないせんぐう。
 飛鳥時代には、天皇ごとに宮殿が遷された。歴代遷宮。
 藤原京以後も、宮城内(大内裏内)に殿舎〈でんしゃ〉を建て替える「宮内遷宮(遷都)」という縮小形態で継承されてきた。
 桓武を継いだ平城天皇は、遷都せず、旧宮にとどまることを決定した。平安京造営や兵役のために民が疲弊していたため。
 
●不改常典(p127)
 天智天皇が定めたとする皇位継承法。それまでの慣例だった兄弟継承をやめ、直系(嫡系)への継承を原則とする。大海人皇子への皇位継承を反故にする手段として、直系(嫡系)への継承、すなわち大友即位の正当性を定めた。口勅〈こうちょく〉の類で、成文化されていない。
 慶雲4年(707年)、元明天皇即位の詔に出てくる、「天地と共に長く、日月と共に遠く、改まるまじき常の典〈のり〉と立て賜い、敷〈しき〉賜える法」。略して「不改常典」と称する。
 それ以前、持統女帝が、草壁皇太子の子の珂瑠皇子の即位を実現するために援用、依拠したのが最初。
 
●刪定(p230)
 さんてい。文章や語句を改正すること。
 延暦10年(791年)3月に『刪定律令』24条が施行されたが、これは『養老律令』を修正・補訂したもの。
 神護景雲3年(769年)、称徳天皇時代に吉備真備・大和長岡らが時代にそぐわない条文や不必要な語句を削り修正し、まとめていた。しかし、頒下〈はんか〉されず放置されたままになっていた。桓武がその施行を命じた。
 延暦16年6月には、大納言神王〈みわおう〉らが奏上した『刪定令格〈さんていりょうきゃく〉』45条を諸司に下し、遵用を命じている。
 格……律令の不備を補うための法令。
 
(2023/10/22)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:
前の10件 | - 歴史・地理・民俗 ブログトップ