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古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで
 [歴史・地理・民俗]

古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで (中公新書)
 
小林登志子/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2613)
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-12-102613-2
税込価格:1,100円
頁数・縦:304p・18cm
 
 メソポタミア文明約3000年間の通史。BC3500の都市文明の始まりから、BC539年の新バビロニア王国の滅亡まで。
 なお、終章では新バビロニア王国滅亡からイスラームの支配までの1100年間をざっと概観する。
 
【目次】
序章 ユーフラテス河の畔、ティグリス河の畔―メソポタミアの風土
第1章 シュメル人とアッカド人の時代―前三五〇〇年‐前二〇〇四年
第2章 シャムシ・アダド一世とハンムラビ王の時代―前二〇〇〇年紀前半
第3章 バビロニア対アッシリアの覇権争い―前二〇〇〇年紀後半
第4章 世界帝国の興亡―前一〇〇〇年‐前五三九年
終章 メソポタミアからイラクへ―前五三九年‐後六五一年
 
【著者】
小林 登志子 (コバヤシ トシコ)
 1949年、千葉県生まれ。中央大学文学部史学科卒業、同大学大学院修士課程修了。古代オリエント博物館非常勤研究員、立正大学文学部講師、中近東文化センター評議員等を歴任。日本オリエント学会奨励賞受賞。専攻・シュメル学。
 
【抜書】
●ニップル(p8)
 メソポタミア南部のバビロニアは、ニップル市(現代名ヌファル)を境に、北部をアッカド、南部をシュメルと呼んだ。
 バグダードより北方は、アッシリア。「アッシュルの地」を意味するギリシャ語。
 アッシリアは、バビロニアと異なり、石灰岩、砂岩、雪花石膏(大理石の一種)のような石材を産出した。
 
●シュメル王朝表(p26)
 ウル第三王朝時代に編纂され、その後にイシン第一王朝(BC2017-1794)第14代シン・マギル王(BC1827-1817)までが追加された。
 古バビロニア時代(BC2004-1595)のいくつかの写本が出土している。
 
●楔形文字(p29)
 楔形文字は、ウルク古拙文字から発展し、シュメル語に始まり、アッカド語、ウガリト語、ウラルトゥ語、エブラ語、エラム語、古代ペルシャ語、ヒッタイト語、フリ語などの表記に使われた。
 BC2400年頃に、古拙文字が整理され、文字数が600に。また同時期に、1本で線、円形あるいは半円形、逆三角形を表記できる葦のペンが考案され、楔形文字が誕生した。
 ウルク古拙文字……絵文字。湿った粘土板にペンでひっかいて書かれた。ドイツ隊がウルクのエアンナ聖域を発掘し、BC3200年頃の世界最古の文書を発見した。約1000の古拙文字が使用されている。
 
●シュメル人(p38)
 1877年、ラガシュ市の発掘により、メソポタミア南部に非セム語を話すシュメル人が実在したことが証明された。楔形文字を考案したのはシュメル人。原郷はどこなのか不明。
 
●アッカド人(p51)
 アッカド王朝のサルゴンはアッカド人。東方セム語族に分類される、歴史に最初に登場したセム語族。
 アラブ人もイスラエル人も、ともにセム語族。
●捨て子伝説(p53)
 アッカドのサルゴン王(BC2334-2279)の伝説によると、サルゴンの母は子供を産んではいけない女神官だった。ひそかにサルゴンを産み、籠に入れてユーフラテスに流した。庭師に拾われ、その後キシュのウルザババ王の近侍の役職である酌人となり、やがて王となった。
 捨て子伝説の最古の例。その後、アケメネス朝ペルシャ初代キュロス2世(BC559-530)、モーセ、初代ローマ王ロムルス、など。
 
●エンヘドゥアンナ王女(p56)
 サルゴン王の娘。シュメル語の読み書きができ、『シュメル神殿讃歌集』を編纂し、『イナンナ女神讃歌』を作った、歴史上最古の才媛。
 
●アッカド語(p63)
 政治力や経済力によって、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、英語が世界の共通語となった。
 アッカド語は、世界で最初に多民族間の共通語となった言語。シュメル人が発明した楔形文字を借用した。楔形文字をそのまま音節文字として使用した。
 
●四方世界の王(p74)
 アッカド王朝のナラム・シン王およびウル第三王朝のシュルギ王の称号。
 地上世界すなわち人間世界をあまねく支配する王の称号。理念上では神々の世界の末端に位置付けられ、現実には軍事的拡大に打って出た証。
 
●アムル人(p86)
 ユーフラテス川上流のビシュリ山(バシャル山)周辺の遊牧民。シュルギ王は、アムル人の侵攻を阻止するために、バクダードの北方80kmの地に、チグリス川からユーフラテス川にいたる城壁を作っていた。
 アムル人はバビロニアに定住すると、アッカド語の名前を名乗る例が多かった。アムル語の記録は残さず、アッカド語を使用。両者の違いは方言程度。
 「ハンムラビ」は、「ハンム神は偉大である」を意味するアムル語の名前。
 
●アッシリア王名表(p100)
 シャムシ・アダド1世(BC1813-1776)は、『シュメル王朝表』を手本に、『アッシリア王名表』を編纂した。初代シャムシ・アダドから109代シャルマネセル5世(BC726-722)まで、1000年にわたって書き継がれていった。
 
●ミタンニ王国(p142)
 ミタンニ王国がBC16-14世紀のメソポタミア北部を支配した。
 フリ人の国。フリ語は膠着語で、BC9世紀中期〜BC6世紀前期、アナトリア東部及びアルメニアを支配したウラルトゥ王国の言語、ウラルトゥ語と類縁関係にある。
 ミタンニは、新しい軍事技術を導入して優位にたった。木、動物の骨あるいは金属を張り合わせた強い弓(複合弓)、馬に引かせた戦車(車輪にスポークを採用)をもっていた。さらに、馬の調教に長けていた。
 ヒッタイトに滅ぼされた。
 
●アマルナ文書(p153)
 アマルナ文書……エジプトのアマルナで、アッカド語で書かれた手紙が多数発見された。多くは「文書庫」と見られるアマルナ中心部の建物から出土した。350点が手紙、32点は学校で使用された文学文書や語彙集など。エジプト王にあてられた手紙がほとんど。
 アマルナ……古代エジプトの都アケト・アテン。アケト・アテンは、「アテン神の地平線」を意味する。カイロ市からナイル河を280kmさかのぼった位置にある。第18王朝のアメンヘテプ4世(アクエンアテン、BC1351-1334)が、治世6年に国家神アメンを厚く祀っているテーベから遷都して造営した。アケト・アテンに都があった約20年間を「アマルナ時代」という。
 
●前12世紀の危機(p189)
 BC12世紀頃、西アジア及び東地中海世界は大きな民族移動の波に襲われた。原因は気候変動であった可能性が高い。
 ギリシア共和国のペロポネソス半島にはドーリア人(ギリシア人の一派)が侵入し、東地中海を海の民が荒らし回り、アラム人がシリア砂漠からメソポタミア方面に移動した。
 エジプトの記録によれば、BC1200年頃に、約500年続いたヒッタイトが海の民の襲撃によって滅ぼされた。これを機に、ヒッタイトが国家機密にしていた鋼(はがね)の製法が近隣に伝播していく。鉄器時代の始まり。
 
●騎兵(p196)
 新アッシリア帝国では、ラクダを荷役獣として使用するようになった。BC1100年頃にフタコブラクダをメディアからの山岳交通用に、BC700 年頃にヒトコブラクダを砂漠での輸送用に導入した。
 さらに騎兵を本格的に導入した。アッシリアは、「馬の背で帝国を作った」と言われている。
 
●アラブ人(p204)
 BC853年、カルカル市(シリアのオロンテス河畔の都市。現代名テル・カルクル)にて、シャルマネセル率いるアッシリア軍を、反アッシリア同盟軍が迎え撃った。アラブ人ギンディブが1000頭のラクダを連れて同盟軍に加わった。
 アッシリアの資料における「アラブ」の初出。
 
●新アッシリア帝国(p193)
 新アッシリア帝国、BC1000-609。
 サルゴン2世(BC721-705、第110代)ーセンナケリブ(BC704-681、第111代)ーエサルハドン(BC680-669、第112代)ーアッシュル・バニパル(BC668-627、第113代)。父子相続。
 センナケリブ……BC689年にバビロン制服、徹底的に破壊した。バビロニアの最高神マルドゥク神像がアッシリアへ捕囚された。
 
●文字の神聖化(p234)
 楔形文字を考案したシュメル人は、文字を実用的なものと考えていた。
 時代が下るにつれて、文字は神聖化されていった。BC2000年紀後半以降のメソポタミアでは、「文字には過去の英知が宿っている」といった神秘的な考え方が生まれた。武力で切り取った帝国を守るためにも、王たちはいわば護符のような役割を期待して粘土板文書を集めることに執着した。
 
●カルデア人(p244)
 アラム人と同じ西方セム語族といわれるが、特定できない。原郷不明。アラム人と並んで、BC1000~900年ごろに、バビロニアに侵入。
 しだいにバビロニア化、バビロニアの独立を主導していく。新バビロニア王国は、カルデア王朝とも言われている。初代ナボポラッサル王(BC625-605)は、カルデア人と言われるが、実際の出自は不明。
 
●騎馬民族(p257)
 アケメネス朝ペルシア帝国(BC550-330)は、ナイル河からインダス河までの広大なオリエント世界のほぼ全域を支配。
 イラン系のペルシア人は、BC1000年頃にイラン高原に入り、BC7世紀にはイラン高原南西部パールサ地方(現代ペルシア語ファールスの語源)に定着した。出自は騎馬民族。騎馬弓兵の突撃隊の組織化に成功し、BC559年にキュロス2世(BC559-530、初代)が「アンシャンとパールサの王」と称し、パールサ地方を中心にペルシア人勢力を結集した。
 BC539年、キュロス2世がバビロン市に侵攻、新バビロニア王国は滅びた。
 
●アルサケス朝パルティア(p268)
 アルサケス朝パルティア(BC247-AD224)が、イラン北西部からトルクメニスタンにかけて建国された。中国の史書に安息(あんそく)として登場。
 BC141年に、バビロニアを支配。
 アルサケス朝の支配以降、バビロニアでは楔形文字が使われなくなった。
 
(2021/6/24)NM
 
〈この本の詳細〉


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