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お白洲から見る江戸時代 「身分の上下」はどう可視化されたか
 [歴史・地理・民俗]

お白洲から見る江戸時代: 「身分の上下」はどう可視化されたか (NHK出版新書 678)
 
尾脇秀和/著
出版社名:NHK出版(NHK出版新書 678)
出版年月:2022年6月
ISBNコード:978-4-14-088678-6
税込価格:1,078円
頁数・縦:326p・18cm
 
 お白洲を通して江戸時代の身分制度を紐解く。それは、社会安定のための方便でもあった。
 
【目次】
序章 法廷のようなもの
第1章 お裁きの舞台と形―どんな所でどう裁くのか?
第2章 変わり続ける舞台と人と…―御白洲はどこから来たか?
第3章 武士の世界を並べる―どこで線を引くのか?
第4章 並べる苦悩、滲む本質―釣り合いを考えよ!
第5章 出廷するのは何か?―士なのか?庶なのか?
第6章 今、その時を―身分が変わると座席は変わるか?
第7章 座席とともに背負うもの―縁側から砂利へ落ちるとき
第8章 最期の日々―明治の始まり、御白洲の終わり
終章 イメージの中に沈む実像
 
【著者】
尾脇 秀和 (オワキ ヒデカズ)
 1983年、京都府生まれ。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は日本近世史。現在、神戸大学経済経営研究所研究員、花園大学・佛教大学非常勤講師。
 
【抜書】
●差別による安定(p32)
〔 江戸時代の人々は、公儀の「御威光」のもと、それぞれが自らの「身分」の役割に徹して「分相応」に生きる――そこに自ら高い肯定的価値を見出していた(水本[二〇〇八][二〇一三])。そんな人々が「分相応」の生き方を貫徹できるよう「御慈悲」を施し、「仁政」を行うことが治者である公儀の責務とされた(深谷[一九九二]等)。
 治者と被治者には、それぞれに果たすべき異なる社会的役割があり、そのため両者には上下の別がある――。十八世紀以降の人々は、この正しい「差別」に社会を安定させる重要な要素があると捉え、それを大切にしようとする。それは江戸時代に治者が突如創り出した制度や仕組みではなく、古代から長い時間をかけ、人々が慣習として形成してきた価値観であった。現代人が幸福のために「平等」と「自由」の実現を追求するように、彼らは身分の上下という社会的役割の「差別」を追求したのである。〕
 水本邦彦『徳川の国家デザイン(全集 日本の歴史 第十巻)』(小学館、2008年)
 水本邦彦『徳川社会論の視座』(敬文舎、2013年)
 深谷克己『百姓成立』(塙書房、1992年)
 
●公事方御定書(p90)
 享保5年(1720年)、吉宗が作成を命じ、寛保2年(1742年)完成。
 上巻は民政上主要な過去の触書などを収録した法令集。
 下巻は訴訟手続きと各種犯罪に対応する刑罰を、過去の判例から箇条書きにした刑法典。「御定書百箇条」とも呼ばれている。
 これ以降、量刑判断は、必ず御定書と過去の判例に依拠するようになった。
 
●熨斗目(p106)
 のしめ。腰回りのみまたは腰と袖下とに、縞や格子の模様を織り出した絹の小袖のこと。熨斗目小袖。
 宝永3年(1706年)11月、与力・御徒とそれ以下の御家人、および城内で奉仕する坊主衆に対して熨斗目の着用を禁止した。
 宝永6年2月、「与力や御徒など、以前熨斗目を着ていた分は、今後着てよい」と緩和された。ただし、坊主衆や、与力・御徒のすぐ下に位置する同心や手代など、御家人のうち「軽き者」は引き続き熨斗目着用が禁止された。
 18世紀半ば以降、熨斗目が身分格式を表示する特別な役割を担うようになった。
 御徒……将軍の警衛を任務とする御家人。語源は徒歩の士を意味する「徒士〈かち〉」だが、陪臣のうち下級の士を指す「徒士」とは、格が全く異なる。
 麻上下〈あさがみしも〉……上は肩衣〈かたぎぬ〉、下は袴。上下とも同じ布地で誂えた。当時の礼装。武士から庶民に至るまで、礼装として着用した。
 継上下……肩衣と袴の模様が異なるもの。熨斗目着用の者の平服。通常の小袖を着用、熨斗目は着ない。
 羽織袴……熨斗目以下の士の通常勤務服。
 
●足軽・中間(p112)
 足軽……戦時なら前線に立つ雑兵。腰に大小を帯びる「帯刀人〈たいとうにん〉」だが、士には含まれない。平時は門番などの単純な守衛業務などに従事し、服装は青色や萌黄色の法被(羽織に似た形状)。その背中などに主家の印が入っている。
 中間……武家の雑用、主に行列や外出において、種々の荷物持ちに従事する者。草履取り、鑓持ち、挟箱持ち、六尺(駕籠かき)、など。勤務や行列で主家の印(合印〈あいじるし〉)や模様(所属する主家を識別する記号や模様)が染め抜かれた「看板」と呼ばれる半纏を着用する。腰には原則として木刀一本。士の範疇ではない。
 足軽以下は、お白洲では砂利に出された。
 
●幕臣・陪臣の出廷座席(p116)
 ① 御目見以上/以下……別室座敷か、御白洲の縁側か。
 ② 熨斗目着用以上/以下……上椽か、下椽か。
 ③ 徒士以上/以下……下椽以上か、砂利か。
 幕臣には①と②、陪臣には②と③が適用される。陪臣の徒士以下(足軽・中間)は砂利となる。
 
●諸社禰宜神主法度(p133)
 寛文5年(1665年)7月発布。
 神祇道を家職とする公家の吉田家に対して、全国神社・神職への統制権を認める。
 無位の社人〈しゃにん〉は白張〈しろはり〉(白布製の狩衣〈かりぎぬ〉のような装束)のみを着用し、格の高い装束を着る場合には、吉田家から「許状」(神道裁許状)を受けるよう規定した。
 宝暦前後座席指針は、許状のない社人は砂利だった。
 公家の白川家も神祇道を家職としていた。宝暦期(1751-1768年)頃から、専業の神職がいない地方の小さな神社に許状を発給し始め、配下の神職として組み込んでいった。対抗して吉田家も彼らに許状発給を開始し、結果として百姓の専業神職化や、百姓のまま許状を得て神職を兼ねる者などが増加した。そのため、18世紀半ば以降、神職が出廷する際の着服は麻上下帯刀が基本となる。
 安永7年(1778年)9月11日、評定所は評議の上で許状を与えられた神職は上椽、ない者は下椽という新たな方針を内規とした。
 
●山伏(p141)
 修験〈しゅげん〉とも。半僧半俗の者。
 聖護院の統括する本山派、醍醐寺三宝院の統括する当山派という二大勢力のほか、地方には羽黒山・英彦〈ひこ〉山などの一派がある。
出廷時は僧と同じく上椽に出すのを基本とした。天明8年(1788年)、聖護院門跡の申し入れによる。
 
●御用達町人(p180)
 特殊・重要性ゆえに、公儀がその職を世襲させた町人。町奉行ではなく勘定奉行などの支配に属していた。
 金座……金貨製造を担う後藤氏。
 銀座……銀貨製造を担う大黒氏。
 朱座……朱(原料は水銀)の製造・管理を担う義村氏。
 江戸秤座……東国の秤を製造・管理する守随氏。
 金座、銀座、朱座などは、毎年年始に江戸城に登城して将軍に「拝礼」する最高位の格式を許されていた。そのため、安永以前から上椽であり、熨斗目着用御免の者もいた。
 
●人宿(p215)
 ひとやど。江戸時代の、民間の人材派遣業。必要な時だけ侍や中間などとして雇われた、侍奉公。召抱〈めしかかえ〉ではなく、月雇や日雇の臨時採用。
 「人宿」に所属する「寄子〈よりこ〉」という身分であり、町人の身分のまま。
 短期雇用でも、「渡り者」「渡り用人」と呼ばれた「召抱」の場合は、雇用中は侍の身分であった。
 
【ツッコミ処】
・現代人の感覚(p190)
〔 公儀は御用達町人の手代について、主人の「御用」の代理として出廷するなら下椽、手代個人として出廷なら砂利とした。それは士・庶の「差別」を重視する公議にとって当然の方法だが、現代人からみると、どうしても一定しない対応にみえてしまう。〕
  ↓
 「現代人」にも違和感はないのではないか?
 例えば、「社長」といえばその会社の中では偉い存在が、飲み屋で一緒に飲んでいたり、一緒に釣りをしているときにはただの人である。
 
(2024/4/1)NM
 
〈この本の詳細〉


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