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人物から読む幕末史の最前線
 [歴史・地理・民俗]

人物から読む幕末史の最前線(インターナショナル新書) (集英社インターナショナル)
 
町田明広/著
出版社名:集英社インターナショナル(インターナショナル新書 132)
出版年月:2023年12月
ISBNコード:978-4-7976-8132-1
税込価格:1,012円
頁数・縦:253p・18cm
 
 幕末の偉人11名について、通説とはやや異なる面からその人物と功績を語る。
 幕府側、倒幕側と多士済々で、同じ事件が複数の人物評の中に登場するので、多面的に幕末を理解するための参考書ともなっている。
 
【目次】
第1章 井伊直弼―植民地化から救った英雄か?
第2章 吉田松陰―長州藩の帰趨を左右した対外思想
第3章 マシュー・ペリー―日本開国というレガシーを求めて
第4章 徳川慶喜―真の姿が見えにくい「強情公」
第5章 平岡円四郎―慶喜の政治活動を支えた周旋家
第6章 島津久光―政治の舞台を京都へ移した剛腕政治家
第7章 渋沢栄一―農民から幕臣、そしてパリへ
第8章 松平容保―京都守護職の苦悩と元治期の政局
第9章 佐久間象山―暗殺の真相と元治元年夏の流言
第10章 坂本龍馬―活躍の裏には“薩摩藩士”としての身分があった!?
第11章 五代友厚―幕府を出し抜いたパリ万博への権謀術数
 
【著者】
町田 明広 (マチダ アキヒロ)
 歴史学者。1962年、長野県生まれ。神田外語大学教授・日本研究所所長。明治維新史学会理事。上智大学文学部・慶應義塾大学文学部卒業、佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。
 
【抜書】
●吉田松陰、遠島(p51)
 吉田松陰は、下田渡海事件後、長州藩に戻され、野山獄に入牢。出獄を許されて杉家に幽閉の処分となり、安政4年(1857年)、玉木文之進の塾を引き継ぎ、松下村塾を開塾。
 「大原重徳西下策」「岡部詮勝要撃策」などを画策。憂慮した周布政之助は、藩主に進言して松陰を再び野山獄に収監。
 幕府から嫌疑を受け、安政6年6月、江戸に護送される。嫌疑は、「小浜藩士梅田雲浜と萩で会って政治的謀議を行ったのではないか」「京都御所内で幕政批判の落とし文が見つかり、その筆跡が松陰のものではないか」という2点。
 〔松陰は、罪状認否にあたり、理路整然と反論したため、あっけなく疑惑が晴れた。しかし、幕吏から今の世の中をどう思うかと問われた際、それに気軽に応じて、老中間部詮勝要撃策を白状したことから、一気に重罪人に仕立てられてしまった。松陰は、この計画を幕府は当然つかんでいると思っていたのだ。松陰の軽率な面が招いたことではあるが、幕吏も正論で説得できると信じていた松陰の、至誠に満ちた性格が裏目に出てしまったと言えよう。〕
 評定所の審判は遠島であった。しかし、大老井伊直弼が最終的に死刑に変更したとされる。
 
●望厦条約(p56)
 ペリー来航の理由のひとつは、1844年に米国が中国(清)と望厦〈ぼうか〉条約を締結したこと。アヘン戦争によって英国が結んだ南京条約(1842年)に便乗。
 産業革命の進む米国は、綿製品の輸出先として中国への進出をもくろんでいた。条約締結の結果、中継基地として日本の港が必要不可欠となった。
 
●日米和親条約(p64)
 嘉永7年(1854年)3月3日、日米和親条約締結。
 日本にとって、通商を回避して和親にとどめたことが最大のポイント。米国とは国交を樹立したものの、物資の供給(施し)を認めたにすぎず、鎖国政策を遵守したことになる。
 天保13年(1842年)7月には、幕府が「薪水供給令」を発令している。外国船が薪水・食料の欠乏を訴える場合、事情を聞いて望みの品を与えて帰帆させる。東洋的な撫恤政策。
●島津久光、京都守護職(p180)
 文久2年(1862年)4月、島津久光の挙兵上京を機に、京都が一躍政局の中心となり、京都の治安維持が大きな課題となった。そのための京都守護職設置の際、白羽の矢が立ったのは会津藩主松平容保だった。
 当初は、久光にも京都守護職就任の打診があった。しかし、生麦事件の勃発によって、英国艦隊の鹿児島への来襲に備え、しぶしぶ辞退している。
 
(2024/4/4)NM
 
〈この本の詳細〉


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