SSブログ

三好一族 戦国最初の「天下人」
 [歴史・地理・民俗]

三好一族―戦国最初の「天下人」 (中公新書)
 
天野忠幸/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2665)
出版年月:2021年10月
ISBNコード:978-4-12-102665-1
税込価格:902円
頁数・縦:210p・18cm
 
 戦国時代、織田信長以前に「天下人」になっていたのかもしれない、三好一族(特に長慶)に焦点を当て、戦国時代を詳述する。
 教科書ではあまり触れられることのない三好一族の業績。戦国時代に新たな視点をもたらしてくれる。
 
【目次】
第1章 四国からの飛躍―三好之長と細川一族
 1 阿波守護細川家と室町幕府
 2 細川政元の権勢と死
 3 細川家の分裂
第2章 「堺公方」の柱石―三好元長と足利義維
 1 将軍家の分裂
 2 細川晴元・氏之兄弟
 3 堺公方と晴元の対立
第3章 静謐を担う―三好長慶と足利義輝
 1 阿波から摂津への移転
 2 細川晴元への下剋上
 3 足利将軍家を擁立しない政権へ
第4章 将軍権威との闘い―三好長慶・義興と足利義輝
 1 将軍権威の相対化
 2 義輝との「冷戦」
 3長慶の周辺
第5章 栄光と挫折―三好義継・長治と足利義昭
 1 三好本宗家の分裂
 2 阿波三好家の足利義栄擁立
 3 織田信長との戦い
 4 三好本宗家の名跡争い
第6章 名族への道―三好康長・義堅と織田信長・羽柴秀吉
 1 信長と義昭の抗争
 2 秀吉の統一戦争
 3 三好一族と江戸幕府
終章 先駆者としての三好一族
 
【著者】
天野 忠幸 (アマノ タダユキ)
 1976年(昭和51年)、兵庫県に生まれる。大阪市立大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科に進み、博士(文学)を取得。現在、天理大学文学部准教授。専門分野は日本中世史。
 
【抜書】
●小笠原氏(p4)
 三好氏はもともと阿波の国人(在地の有力武士)であったが、成長して阿波北西部の郡代となるに従い、ふさわしい由緒を求めて、一宮氏など多くの阿波国人と同様に、先祖を小笠原氏に定めたと考えられる。
 
●才覚(p54)
 松永久秀、野間長久、鳥養貞長、松山重治は、独自の領地や家臣団を持つ存在ではなかった。三好長慶が家格にこだわらず、その才覚を認めて登用した者たち。彼らの権力基盤は長慶の信頼のみであった。
 長慶は、自らに絶対的な忠誠を尽くす家臣団を作り上げようとした。
 長慶は、三好姓を与えたり、譜代被官の名跡を継がせたりすることなく、彼らに腕を振るわせたところに、他家にない特徴がある。
 
●天下人(p75)
 〔長慶は、破約を繰り返す義輝を信用せず、義輝の弟の鹿苑院周暠(ろくおんいんしゅうこう)や足利義昭も擁立しようとしなかった。つまり、足利将軍家の誰も擁立せずに、自らの力だけで首都京都の支配に乗り出す。これは戦国時代でも初めてのことであった。初めての「天下人」、すなわち、単なる京都や畿内の支配者、また日本全国を統一した人ではなく、室町幕府に拠らない中央政権の主催者が誕生したのである。〕
 
●日本国王(p89)
 足利義輝の父義晴は、大永7年(1527年)に京都を追われて近江に在国していても、琉球に返書を送り、明には勘合符を求めて国書を発給した。足利将軍家こそが外交権を独占する日本国王であると自負していたから。
 しかし、義輝にそのような自覚はなかったので、日本国王としての役割を放棄してしまった。
 長慶は、そうした将軍に代わり、新たな武家の代表として、後奈良天皇を補佐し明との外交に当たったのである。
 
●甲子年(p110)
 中国の讖緯説とは、辛酉の年に王朝交代が起こり、甲子の年に徳を備えた人に天命が下されるという革命思想である。
 日本では、王朝交代を防ぐため、十世紀以降、必ず改元が行われてきた。
 しかし、義輝は、辛酉にあたる永禄4年や、甲子にあたる永禄7年(1564年)に改元を執奏しなかった。
 これをみた三好方が、正親町天皇に甲子の改元を執奏した。義輝に代わって、将軍の専権事項を行おうとした。
 改元した場合、長慶は事実上の将軍と認められることになり、改元しなかった場合、義輝が将軍としての職務を怠り、天皇を侮っているということが明らかになる。
 天皇は、再び京都で戦争が起こることを恐れ、改元しなかった。
 明治時代になって一世一元制が採用されるまで、甲子年に改元しなかったのはこの時だけである。
 
●御小袖(p129)
 足利将軍家重代の家宝である御小袖(おんこそで)の唐櫃(からびつ)が、義輝の死後、朝廷に預けられていた。
 足利将軍家は、御小袖を源義家以来相伝の鎧と喧伝し、自らを源氏の嫡流と主張してきた。そして、室町幕府が朝敵を追討する際、天皇による治罰(じばつ)の綸旨の発給と錦の御旗の付与、将軍の御小袖の着用という一定の様式が整えられることで、御小袖は幕府軍を北朝の軍隊と位置付ける象徴としての役割を果たす。足利将軍家の家督を象徴する存在。
 永禄8年10月26日、松永久秀と広橋国光が申請して、三好義継に御小袖の唐櫃が下賜された。
 
●幕府滅亡(p192)
〔 長慶は義輝と同じ従四位下に叙せられ、義輝を討った義継は源氏嫡流にして足利将軍家の象徴である御小袖の唐櫃を授けられた。一方、そうした役割を放棄した足利義輝は、武家唯一の公卿という地位を剝奪された。京都をいたずらに戦禍に巻き込んだ将軍は、「御天罰」を蒙り、三好氏に「御謀反」を起こす存在に成り下がる。極端な言い方をすれば、長慶が将軍義輝を近江に追放していた五年間と、義継が義輝を討ち果たしてから義昭が上洛するまでの三年間の二回、幕府は事実上滅亡し、そのたびに再興されたのである。
 その後の戦いにおいても、三好義継や三好長逸(ながやす)が足利将軍家を擁さず戦う一方、織田信長が義昭や義尋の親子を推戴して戦おうとする姿を見る時、三好一族は日本の武家でいち早く足利将軍家の軛を断ち切っていたと言えよう。〕
 
●天正13年(p194)
 天正13年(1585年)、羽柴秀吉が、武家で初めて関白に就任。足利将軍家の代行者ではなく、全く新たな形で正当性を確保し、武家の統合の秩序を示した。
 天正13年こそが、室町幕府が完全に滅亡した年。
 
●山城(p197)
 三好一族は、芥川城や飯盛城といった山城を居城とし、城下町を設けなかった。
 かつては、山城は戦時のみに使用するもので、山城から平山城、平城へという城郭の発展過程において最も遅れた段階とされ、経済支配を無視するものとして、マイナス評価であった。
 しかし、芥川城や飯盛城には数百人規模の被官やその家族が山上に常時居住し、恒常的に政治的・文化的機能を果たしていた。自治都市の堺や平野には代官を設置しており、経済的機能を軽視していたわけでもない。
〔 三好一族にとって、自治都市の堺や平野、門前町であり陸・海の要所でもある西宮、港町の兵庫津、浄土真宗寺内町の大坂・富田・枚方・久宝寺・富田林・貝塚、法華宗寺内町が主導権を握った尼崎、キリスト教の教会という新たな核を得た三箇や岡山、国人の城下町の池田と伊丹、広域支配の政治拠点である越水・高屋・岸和田といった大阪平野の多様性を発展させることにこそ意味があった。〕
 多様な都市を睥睨するためには、山城のほうが効果的であった。
 
(2022/2/11)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。