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マスクをするサル
 [哲学・心理・宗教]

マスクをするサル (新潮新書)
 
正高信男/著
出版社名:新潮社(新潮新書 904)
出版年月:2021年4月
ISBNコード:978-4-10-610904-1
税込価格:792円
頁数・縦:188p・18cm
 
 マスクがパンツの代わりになる?
 
【目次】
1 マスクをするサル―ポスト・コロナの新しい感性
2 マスクと女らしさ―陰部を隠すという歴史的決断
3 マスクは異性を誘引するか?―口唇部とコミュニケーション
4 マスクと男らしさ―顔面装飾・形質置換、髭の進化史
5 乱婚から一夫一婦制への人類史―サルとヒトの性行動
6 性の解放と人類の動物化―社会的交換・抑圧・不倫
7 デファクト化するマスク―新たな共同体の感性
 
【著者】
正高 信男 (マサタカ ノブオ)
 1954(昭和29)年大阪府生まれ。霊長類学・発達心理学者。大阪大学大学院人間科学研究科博士課程修了。京都大学霊長類研究所教授を務めた。著書多数。
 
【抜書】
●子宮内膜(p32)
 月経現象がある動物は、ヒト近縁のサルと、数種のコウモリと齧歯類のみ。メスの子宮に子宮内膜という組織があり、それが定期的出血に関与している。
 受精しなかった卵子を体外に排出する際に、子宮の一番内側の膜組織が子宮壁から剝がれて、一緒にそっくり体外へ出てくる。
 剝げ落ちた子宮壁は、出血を止めるなかで新たな子宮内膜の形成を行う。
 これらの哺乳類は、体全体のうち脳の占める割合が異常なまでに肥大したから?
 胎児期に脳が最も成長する。子宮の中で脳が体の半分以上を占める。子宮壁に食い込んでいる。子宮内膜がないと、胎児とともに子宮壁が壊れてしまう。
 
●原猿(p73)
 真猿=monkey。
 原猿=prosimian。
 原猿類は、一種を除いて夜行性。しかし、食虫類や齧歯類と異なり、指が長く、手先が器用。親指が他の4本と対向しており、モノを持ったり摑んだりすることができる。
 原猿類が地球上に登場したのは、現在の北米に当たる地域であったろうと推測される。そのころアメリカ大陸とユーラシア大陸は地続きだった(=ローラシア大陸)。
 真猿類の誕生の地はアフリカ。進化して間もない時期に南アメリカに進出した。浮島が南アメリカに漂着し、そこにサルがいた?
 
●咀嚼筋(p82)
 ヒトの頭蓋で男女の差が大きいのは顎のサイズ。男性のほうが大きく、咀嚼筋(側頭筋)が発達している。
 顎は男らしさの象徴。そこに髭が生えるべく進化した?
 
●マスクの効用(p170)
 性の解放が唱えられだして以降、人類男女は身体を覆っていたものを捨て去る方向でやってきた。
〔 ところが今日に至って、それに逆行するトレンドが外圧の形で出現したのだ。それが、新型コロナウイルスの流行によるマスクの着用である。
 好むと好まざるとにかかわらず、世界中で人々が顔の下半分を覆って外出するようになったことは、人類が失いかけている生活の二面性を取り戻す、あるいは人類の動物化を食い止める稀有の機会だろういうのが私の意見である。
 覆うことは、当人にとって負担、すなわち抑圧であるに違いない。しかし覆うことによって初めて、覆いを取ることの喜びや覆いを取られることの羞恥という性的感情が喚起されることを失念してはならないだろう。〕
 
●マスクによる発信(p181)
〔 実のところ、マスクを着けていると相手が誰だかわからなくて苦労することがある。マスクが着け手のアイデンティティの認識に、何ら貢献していない証拠である。それどころか認識の足を引っ張ているのだ。
 そうではなく大坂なおみ選手のように、マスクを自分がメッセージを発する媒体として利用するような、そういう自分らしさの発信源として活用する、発想の転換が求められている。その上で、マスクに隠蔽された身体部位に、想像力を飛翔させる感性を持つことができたなら、そこから新たな人と人とのコミュニケーションが生まれるのではないか。今までになかった形式の共同体がそこから発達する基盤が、形成されるのではと想像する次第である。〕
 
(2021/11/11)NM
 
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ひきこもりはなぜ「治る」のか? 精神分析的アプローチ
 [哲学・心理・宗教]

ひきこもりはなぜ「治る」のか?―精神分析的アプローチ (ちくま文庫)
 
斎藤環/著
出版社名:中央法規出版(シリーズCura)
出版年月:2007年10月
ISBNコード:978-4-8058-3006-2
税込価格:1,430円
頁数・縦:214p・19cm
 
 精神分析理論と臨床を通して「ひきこもり」治療に取り組む医師の実践の書。
 2006年9月~11月に行われた、(社)青少年健康センター主宰の理論講座「不登校・ひきこもり援助論」の全6回の講義記録を基に大幅加筆修正。
 
【目次】
第1章 「ひきこもり」の考え方―対人関係があればニート、なければひきこもり
第2章 ラカンとひきこもり―なぜ他者とのかかわりが必要なのか
第3章 コフート理論とひきこもり―人間は一生をかけて成熟する
第4章 クライン、ビオンとひきこもり―攻撃すると攻撃が、良い対応をすると良い反応が返ってくる
第5章 家族の対応方針―安心してひきこもれる環境を作ることから
第6章 ひきこもりの個人精神療法―「治る」ということは、「自由」になるということ
 
【著者】
斎藤 環 (サイトウ タマキ)
 爽風会佐々木病院診療部長。1961年岩手県生まれ。筑波大学医学専門群(環境生態学)卒業。思春期・青年期の精神病理、病跡学を専門とする。
 
【抜書】
●議論を控える(p17)
〔 引きこもりに対しては、人間関係そのものが治療的な意味をもちます。治療者が本人と安定した関係をもつこと自体に治療効果があるのです。だから、本人の言い分を頭ごなしに否定したり、叱ったり批判したりすべきではありません。議論や説得もできるだけ控えて、とりあえず言い分をちゃんと聞くという姿勢を示すこと。そうすることによって信頼関係を築かなければなりません。〕
 
●感情のコミュニケーション能力(p21)
 成熟の定義……自分の行為に自分で責任がとれる状態。
 精神医学的には、①コミュニケーション能力、②欲求不満耐性。
 コミュニケーション能力とは、単なる情報伝達能力だけではない。情報よりも感情のほうが重要。相手の感情を適切に理解し、相手に自分の感情を十分に伝達する能力のこと。
 〔感情のコミュニケーション能力というのは一つの成熟度の指標となります。〕
 
●他者と出会うこと(p68)
〔 身近に他者がいると、義務と欲望の区別をつけやすくなります。それに気づくことができれば、行動することも可能になります。最初は義務感よりも、欲望から動くことを優先するほうが現実的でしょう。こんなふうに、自分の欲望のありようをしっかりと認識するためにも、他者の存在が必要なのです。
 ひきこもっている人が自分の欲望をしっかりと認識し、それを行動に移したければ、家から出て他者と交わっていくしかありません。ですから私の考えでは、ひきこもりの人が現状から抜け出そうと思うなら、最初の課題は「仕事」ではありません。まず他者に出会うことからです。〕
〔 例えば、もし本人にもっと他者と付き合ってほしいと思うなら、まず両親が、人付き合いに積極的に取り組むべきなのです。もっと外出したり旅行に行ったりしてほしいと願うなら、両親が頻繁に出かけるようにすることです。こんなふうに、親がまず「欲望する他者」として振る舞うことが、本人にもさまざまに、好ましい影響をもたらすことでしょう。〕
 
●投影性同一視(p116)
 Projective Identification。自分の一部を対象に投影した結果、生まれる感覚。対象が自己から投影された部分のもつさまざまな特徴を獲得したと知覚される。
 例えば、自分が怒っているときに、まるで相手が怒っているように感ずる場合など。「下衆の勘繰り」等にも通ずる感覚。
 投影性同一視も、ひきこもりでは非常に起こりやすい。同じ空間で一緒に暮らしているのに、会話がない状態こそが、投影性同一視、すなわち勘繰りの温床となる。
 普段から活発に会話をしていれば、投影性同一性はかなり予防できる。
 
●基底的想定グループ(p124)
 グループ(集団)には、個人の心理過程と同様に、意識的な過程と無意識的過程が共存している。
 意識に当たるものが「作業グループ」。
 無意識に当たるものが「基底的想定グループ」。
〔 われわれが普通、グループと考えるときは、このグループは何を目的として、どういった期間、どのような活動をするのだろうか、ということをまず考えるわけですが、この部分に該当するのが作業グループというわけです。
 ところが、この作業グループが作られていくと、同時に並行してその根本的な部分、まさに基底的な部分において、無意識な過程が出てきます。〕
 集団も退行する。原始的で病的な状態に変わり得る。
 集団が退行すると、集団が持っている象徴化や言語的コミュニケーションの能力が損なわれてしまう。こうなると、その集団は「基底的想定レベル」に退行しているということができる。
 基底的想定のレベルでは、言語を用いたコミュニケーションが減っていって、代わりに非言語的交流が活用される。無意識のほうが優位になる。
 集団の無意識的過程で用いられるのが、投影、取り入れ、否認、分裂、投影性同一視などのメカニズム。
 以上、ウィルフレッド・ビオンの理論。
 
●安心⇒自立(p136)
〔 まずは本人との信頼関係を作るなかで、安心できる環境を整え、そのうえで少しずつ、受け入れ可能な範囲で自立への働きかけを試みる。これは、私の治療相談における基本的な考え方でもあります。〕
 
●友達のお子さん(p160)
 適切に気持ちを伝えるには、本人との適切な距離感を保たなくてはならない。
 ある家族会の親が言っていた言葉。「友達のお子さんを一人預かっている」と考えるのがいい。
 邪険には扱えないし、むやみに叱るわけにもいかないし、遠慮も生ずるし、ほどほどの距離間で接することができる。
 
●2~3年(p168)
 ひきこもりの治療は、どんなに順調でも2年から3年はかかる。人間は促成栽培できない。
 
●○○能力(p177)
 患者の中には、一見「欠点」と思われるような部分にすら、立ち直りのヒントが隠されている。「患者が立ち直っていく力の主要部分は、病状を際立たせている部分、例えば厄介さを作っている要素にしかない」。
 病気に「○○能力」という言葉を付けてみようと提案。
 人を責めてばかりいる人は「批判能力が高い」、拒食症の患者に対しては「断食能力が高い」、ひきこもりの人は「ひきこもり能力」が高い。
 神田橋條治氏の発想。
 
●精神療法(p181)
〔 人間の精神に一番影響を及ぼすことをできるのは精神療法で、その次が薬物です。その分精神療法の「破壊力」は薬物療法の比ではありません。マインドコントロールの一部は精神療法の応用であることを思い出しておきましょう。〕
 
(2021/11/9)NM
 
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※書影はちくま文庫版(2012年10月発行)。

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暗殺教団 「アサシン」の伝説と実像
 [哲学・心理・宗教]

暗殺教団 「アサシン」の伝説と実像 (講談社学術文庫)
 
バーナード・ルイス/〔著〕 加藤和秀/訳
出版社名:講談社(講談社学術文庫 2649)
出版年月:2021年3月
ISBNコード:978-4-06-522778-7
税込価格:1,221円
頁数・縦:277p・15cm
 
 「暗殺教団」と言われたイスラム教シーア派の少数派、イスマーイール派についてその成り立ちと、13世紀までの歴史を詳述する。1973年の訳書の復刊。原本は、『暗殺教団ーーイスラームの過激派』(新泉社)。英語原著は1967年出版。
 
【目次】
第1章 アサシンの発見
第2章 イスマーイール派
第3章 新教説
第4章 ペルシアにおける布教
第5章 山の老人
第6章 手段と目的
 
【著者】
ルイス,バーナード (Lewis, Bernard)
 1916-2018年。ロンドン大学東洋アフリカ研究学院卒業。イギリス外務省勤務ののち、ロンドン大学教授、プリンストン大学教授。同大学名誉教授。専攻はイスラーム・中東史。
 
加藤 和秀 (カトウ カズヒデ)
 1941-2006年。北海道大学大学院文学研究科博士課程単位取得中退。
 
【抜書】
●ハサン・イ・サッバーフ(p62)
 ペルシアのゴム市で生まれた。ペルシアにおけるアラブ人居住の最初の中心地。十二イマーム派シーア主義の根拠地。
 父は、イラクのクーファ出身で、十二イマーム信徒。その祖先はイエメン人。
 子供の頃、現在のテヘラン市の近くのレイに移り住んだ。レイは、9世紀以来、ダーイー(召喚者)の活動の中心地だった。
 
●アラムート(p68)
 新教説(イスマーイール派ニザール派)のハサン・イ・サッバーフ(-1124)は、エルブルズ山脈の中心部にある高い岩山の頂上、アラムート城を基地とした。
 アラムート城は、ダイラム地方の王の一人によって建てられたと言われている。
 
●テンプル騎士団(p198)
 〔山の老人はテンプル騎士団とホスピタル騎士団に貢物を支払っていた。それは彼らがアサシンを全く恐れなかったからである。何故ならば、たとえその老人がテンプル騎士団あるいはホスピタル騎士団の頭領を殺させたとしても、何ら得ることができなかったから、つまり、彼がもしそのひとりを殺したとしても、別の適当な人物がそれにとって代るの常であることを彼はひじょうに良く知っており、そのため、彼は何も得ることができないところでアサシンたちを失いたくはなかったからである。〕
 
●イスマーイール派の敵(p204)
 イスマーイール派にとって、敵はスンニ派の政治的・軍事的、そして官僚的・宗教的な体制であった。彼らの殺人はそれを脅かし弱め、最終的に打倒するために計画されたものであった。
 
●アズハル大学(p254、解説、青木健)
 909年にチュニジアでファーティマ朝を興したイスマーイール派国家は、968年にエジプト攻略に成功し、新たに建設したカイロ市に王朝首都を移した。
 970年に、イスマーイール派の教義研究機関としてアズハル大学を開学した。現在はスンナ派イスラームの最高学府とされている。
 
(2021/8/2)NM
 
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江戸問答
 [哲学・心理・宗教]

江戸問答 (岩波新書 新赤版 1863)
 
田中優子/著 松岡正剛/著
出版社名:岩波書店(岩波新書 赤版 1863)
出版年月:2021年1月
ISBNコード:978-4-00-431863-7
税込価格:1,100円
頁数・縦:376p・18cm
 
 『日本問答』(2017年)に次ぐ、両氏による対談。江戸時代の社会、政治、経済、文化について「問答」する。
 
【目次】
1 面影問答
 コロナの令和
 改元はチャンスだった
  ほか
2 浮世問答
 学問のオタク化と多様化
 競争はないが評判はある
  ほか
3 サムライ問答
 内村、新渡戸、天心が書かなかったこと
 近代日本人の宗教観
  ほか
4 いき問答
 日本のエロス
 現実ばなれする色っぽさ
  ほか
 
【著者】
 田中 優子 (タナカ ユウコ)
 法政大学社会学部教授などを経て法政大学総長。専門は日本近世文化・アジア比較文化。『江戸の想像力』で芸術選奨文部大臣新人賞、『江戸百夢』で芸術選奨文部科学大臣賞・サントリー学芸賞。著書多数。2005年度紫綬褒章。江戸時代の価値観、視点、持続可能社会のシステムから、現代の問題に言及することも多い。
 
松岡 正剛 (マツオカ セイゴウ)
 工作舎、東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授などを経て、現在、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。著書多数。2000年よりインターネット上でブックナビゲーションサイト「千夜千冊」を連載中。
 
【抜書】
●カール・ポランニー(p175、松岡)
〔 カール・ポランニー型の経済人類学の見方では、土地を所有しない経済というのはすばらしい、土地の不動産価格をつけてから世界の経済はおかしくなった、資本主義が強くなりすぎたというふうに言っています。そういう土地所有に頼らない経済社会を江戸がつくったということは、世界的にももう少し評価されてもいいでしょう。〕
 
●絵暦の会(p177、田中)
〔 暦のような実用的なものをとことん遊んでしまうほど、関心が高かったんでしょう。絵暦(えごよみ)というものがあって、一年の大の月(三〇日まである月)、小の月(二九日まである月)を、干支の動物を使って文字ではなく絵によって表現する暦です。最初は個々人が好きで作って、それを他の人と交換して楽しんでいました。そのうちに複数の人と交換するために、印刷するようになるんですね。いまで言うと、自分の家のプリンターで印刷する年賀状のようなものです。先ほどふれた絵暦の交換会が「絵暦の会」となり、やがては絵師と刷りと彫りの職人を巻き込んで多色刷り浮世絵を完成させるわけです。江戸時代のイノベーションでは、やっぱりつねに「遊び」がきわめて重要な要素だった。〕
 
●江戸城の構造(p179、田中)
 大広間……将軍宣下などの儀式で大名たちが将軍に謁見する場。一般の大名たちはここまでしか入れない。
 松之廊下……大広間と白書院をつなぐ。廊下から見える松の障壁画の内側に部屋があり、その部屋に徳川御三家の部屋と、加賀前田家、福井松平家の座敷があった。
 白書院……中国の帝鑑図(模範となるべき唐の帝王の図)を描いた襖がしつらえてある。中国様式の「華」のしつらい。重要な式日の時に、徳川御三家、加賀前田家、福井松平家の諸侯の対面に使われた。
 竹之廊下……黒書院に通じている。
 黒書院……山水画が描いてある。和風のしつらい。将軍のプライベートな空間。
 
●80%(p185、田中)
 当初、オランダ船が運んでくるものは80%が中国のものだった。残りがインド、東南アジア諸国。ヨーロッパ製品はほんのわずか。ヨーロッパは「ものづくり」ができないから。アジア各国を回っていろいろなものを購入し、日本で売れそうなものを積んでくる。
 そのうち、中国製品は日本での需要がなくなり、インドの木綿を持ってくるようになる。さらに、高値で売れるレンズ製品と博物学書をアムステルダムから運んでくる。
 
●参勤交代(p250、田中)
 戦国時代を本当に終わらせたのは参勤交代制度。参勤交代がないと内戦状態は終わらなかった。
〔 幕府と諸藩という関係をはっきりさせただけでなく、参勤交代をさせることによって経済力を浪費させる、しかもそれによって江戸が経済センター化して、街道筋もどんどん潤って、ものすごい経済活性化につながった。たいした制度ですね。〕(松岡)
 
●「私って何?」(p270、田中)
〔 結局、サムライという人たちは、ひょっとすると「自分はなぜここにいるのかがわからないと」いう、その感覚をかかえたまま生きていた人たちといえるんじゃないかしら。
 たとえば、生産はしなくても出仕をしているから給料はもらえる。でも、このお給料は親がもらっていたものを自分ももらっているだけだし、それをまた自分の息子に渡していくだけ。自分が何の役に立っているのかというと、政治に参加させてもらえないし、生活は苦しいし、にもかかわらず対面をちゃんと保てと言われる。これでは自分は何のためにここにいるのかと思わずにいられないですよ。抽象的な「サムライって何?」という疑問ではなく、実は「私って何?」みたいなことをかかえていたのではないか。〕
 
●浮気な結婚(p182、田中)
 「浮気」という言葉は、現実を重視しない間柄のこと。かつては恋愛結婚のことを「浮気な結婚」と呼んでいた。
 
(2021/5/18)NM
 
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サピエンスの未来 伝説の東大講義
 [哲学・心理・宗教]

サピエンスの未来 伝説の東大講義 (講談社現代新書) 
立花隆/著
出版社名:講談社(講談社現代新書 2605)
出版年月:2021年2月
ISBNコード:978-4-06-522530-1
税込価格:1,430円
頁数・縦:397p:18cm
 
 立花隆が東京大学教養学部で1996年夏学期に行った「人間の現在」という講義をもとに、月刊『新潮』に掲載された連載の第13回(1998年7月)から第24回(1999年7月)までを1冊にまとめたものであるといいう(奥付による。解説には、第13回から第25回とある)。ちなみに、第1回から第12回までは『脳を鍛える 東大講義 人間の現在①』として新潮社から刊行され(2000年)、後に文庫化(2004年)され、現在は絶版(p6、解説)。
 さて、書籍化されていない第25回(もしくは第26回)から第57回までの連載は、今後、書籍化されるのや否や。
 
【目次】
すべてを進化の相の下に見る
進化の複数のメカニズム
全体の眺望を得る
人間の位置をつかむ
人類進化の歴史
複雑化の果てに意識は生まれる
人類の共同思考の始まり
進化論とキリスト教の「調和」
「超人間」とは誰か
「ホモ・プログレッシヴス」が未来を拓く
終末の切迫と人類の大分岐
全人類の共同事業
 
【著者】
立花 隆 (タチバナ タカシ)
 1940年生まれ。東京大学文学部仏文科卒業後、文藝春秋入社。66年退社し、東京大学文学部哲学科に学士入学。その後ジャーナリストとして活躍。74年、『文藝春秋』誌に「田中角栄研究 その金脈と人脈」を発表。79年、『日本共産党の研究』で第一回講談社ノンフィクション賞受賞。83年、第三一回菊池寛賞、98年、第一回司馬遼太郎賞を受賞。著書多数。
 
【抜書】
●人生は短い(p45)
 ビッグバン以前、宇宙はどうなっていたか。〔プラクティカルな理由で、あまりこの問題に深入りしないことをすすめます。〕
〔 プラクティカルな理由というのは、人生は短いということです。世の中には、いくら考えてもわからないというたぐいの問題があります。自分の頭が悪いからわからないのではなく(もちろん、頭が悪くてわからない場合も多いのですが)、そもそも問題の性質として、わかるはずがないという問題があります。わかるかもしれないけど、ものすごい時間がかかることが必定で、それだけの時間をかけて考えることに意味があるとは思えない問題もあります。たとえば、人は死んだらどうなるかなんてことは、いくら考えてもわかるはずがないけど、考えずにはいられない問題ですよね。しかし、そればかり考えているうちに死んでしまったら、それを考えつづけた意味がありませんよね。〕
 
●精神圏(p215)
 精神圏(noosphère:ヌースフィア)は、ヒトの誕生とともに生まれた。
 世界を進化論的に見ると、世界が生成(ジェネシス《英》、ジェネーズ《仏》)の過程であると捉えることができる。世界はすでに出来上がったものとしてここにあるわけではない。
 世界は宇宙生成(コスモジェネーズ)の過程にあり、生命は生命生成(ビオジェネーズ)の過程にある。
 物質が複雑性の臨界点を突破したときに生命が生まれ、物質圏の上に生命圏が広がる。
 生命が複雑性を増し、ある臨界点を突破したときにヒトが誕生する。それとともに精神圏が生まれ、生命圏の上に広がっていく。
 以上、テイヤール・ド・シャルダン(Pièrre Teilhard de Chardin)の進化論。
 
●小体複合化(p220)
 corpusculisation。テイヤール・ド・シャルダン独特の用語。『自然における人間の位置』では「小体化」と翻訳されているが、「小体複合化」のほうがふさわしい。
 どのようなものでも複雑性が増していくと、そこにはより微小なエレメントの間の相互作用が生まれる。それによって要素間の組み合わせの数が増していき、やがてそれは一つの閉じた一定の大きさの全体を作り上げる。それがより高次なかたちの集団を形成すると、一定の自律性が獲得されるという現象が起きる。
 進化の過程で起きる、複雑化という現象の正体は、この「小体複合化」である。
 高次の集団が獲得する自律性の延長の上に意識が生まれてくる。
 
●社会化(p227)
 精神圏は、にんげんのあらゆる精神活動が綜合されて形成される全体。社会化という現象と分かちがたく結びついている。
 動物も多数の個体が共生的に結びついたグループを作り、超個体的な複合体として生活していくということがある。
 しかし、人間が作る社会と大きく異なるのは、社会化の半径の大きさ。人間以外は、家庭的グループ以上に達することはない。
 「人間の出現とともに、動物学にとって一つの新しい章が開けたのである。すなわち、生命の歴史においてはじめて、それは何枚かの孤立した葉ではなく、一つの系列、偏在する一つの系列全体が、一挙にそして一丸となって、全体化していゆく様子を見せるのである。人間は単に一つの種として出現した。けれど、人種的-社会的合一のはたらきによってこの地球の特異的に新しい被覆の地位に高められていった。それは一つの門以上、いや界以上のものにすらなった。それはまさに一つの《圏》(sphère)ー―生物圏と同じ広がりをもってその上をおおう(しかし、それよりはるかによく結合し、かつ均一であることか!)『精神圏』(あるいは思考する圏)に他ならないのだ。」(「精神圏の形成」『人間の未来』〈テイヤール・ド・シャルダン著作集第七巻〉)
 
●全体化、超人間、オメガ点(p336)
 精神園において、複雑化=意識のプロセスがさらに続くと、内面化とともに、全体化、超人間化という方向に行く。
 全体化とは、個々の人間が思考する意識の粒になり、それが複合体を作ることによって、意識をより収斂させていくという方向で実現されていく。個人の行動半径が増大し、意識の相互浸透力が増すと、精神圏には過剰圧縮という現象が起きる。それが社会の過剰組織化をもたらし、それがさらなる意識の過剰圧縮をもたらすという連鎖反応が起き、経済的にも、社会的にも、技術的にも、これからの社会は接近エネルギーの増大から逃れることができなくなる。物理的接近と精神的接近(思考と思考の間にも引力が働く)はどちらも接近すればするほど相互作用が強まり、さらにこの二つの接近が互いに他を強めあうという作用によって、「人類はあたかも歯車の噛みあいの中にあるように、自己の全体化というたえず加速されてゆく《渦》のまっただ中におかれている(『自然における人間の位置』日高敏隆訳、〈著作集第二巻〉)。
 その結果、人間社会は精神的な加熱を受け続ける。その中にあって、現代人は「何かわけのわからない不安と希望」(同前)が交錯した精神状態に置かれた感じになるが、これは、宇宙の精神的曲率がそれまでの放散を基調とするものから、収斂を基調とするものに変わったことによって、思考と行動の全体が一挙にパターンを変えたため。そして、この収斂の向かう先にはより高次の生命体が生まれるはずで、それが「超人間」である。
 その過程で、脳細胞が新しい配列を獲得したり、これまで使われないで予備的にとっておかれたニューロンが動員されるようになったりして、大脳はより高次化する。その脳を使って、人間はあらゆる方向に探究活動と創造活動を繰り広げてゆく。感性も知識もより高度の発展を遂げてゆく。個と個の間の思考の相互作用がより一層緊密なものになり、高度の集団的思考という方向に進んでゆく。それが何百年も続いていくと、「いずれ人類は、ついにすべてを『包括』し、全体的そして最終的な思考によって、すべてを自己の中で一つの共通な観念(idée)と一つの共通な情熱(passion)とに還元するところまでゆくであろう」(同前)。
 つまり、人間社会全体の精神的な結合による一体化、中心化が起こり、それは全体的な「人格化(personnalisation)」に向かうことになる。
 人間化は分散し孤立した人間の集団を生み出しただけだったが、新しい超人間化は、思考し、合一する多数の人間の内面的一致の方向に向かう。その内面化の焦点が「オメガ点」。
 
●地球の単一な精神(p339)
 「宇宙の進化を成立させている全般的収斂は人間化だけで完成するわけではない。地球上にはたんに諸精神が存在するだけではないのである。世界は進行を続け、地球の単一な精神が現れるであろう」(『人間のエネルギー』高橋三義訳、〈著作集第二巻〉)。
 地球の単一な精神=超人間。
 複雑化の法則によって世界が進行を続けた結果、ヒトが誕生し、さらに世界が進行を続けて超人間を生む。
 
●至高の総合、超-進化(p344)
 「人類が自己を中心とする収縮と全体化の極限で、成熟の臨界点に達し、その果てに、地球や星が原初のエネルギーの消滅していくかたまりとなってゆっくりと回転するのを後方に残して、心的にこのプラネットから離脱し、諸物の唯一の不可逆の本質であるオメガ点に到達するということも、考えられてくるのではなかろうか? おそらく外的に死と似た現象であろう。しかし実際には、単に変貌にすぎず、至高の総合への到達なのである」(「生命と遊星」『人間の未来』伊藤晃・渡辺義愛訳〈著作集第七巻〉)。
 「このように考えると、人類の歴史はとうぜん二つの臨界点のあいだにすっかり含まれることになろう。すなわち、第一の点は、もっとも低い、原初的な省察の点、第二の点は、もっとも高い、精神圏的な省察の点」(「精神圏の形成」『人間の未来』)。
 第一の点と第二の点の間が人間の時代。第二の点の向こう側が超人間の時代になる。
 「第二の段階では、(個人および集団としての)人間の超-進化がすすめられる。そこでは、精神圏のなかで科学的な手段を用いて手に入れられ適用される精錬された形のエネルギーが用いられる。この超-進化は、自分自身について省察しながら一致協力してはたらくすべての人間の努力に俟つところが大である。といっても、原子、ホルモン、細胞、および遺伝法則についての知識の組み合わせをわれわれ自身の組織の上にふりむけた場合、それがわれわれをどこに導いていくか、だれにいえよう。(中略)生命はかつて人類を創ったが、それをスプリングボードにして、第二の冒険への道を踏み出そうとしている」(同前)。
 
●ヴェルナツキー(p366)
 ウラジミール・ヴェルナツキー(1863-1945)、ロシア・コスミズムの代表的人物。
 地質学、生化学、生物学など、関連するあらゆる学問をマスターし、一人でアカデミーを作ることができるといわれたほど博識の学者。
 1922~26年、フランスに招かれ、ソルボンヌ大学で地球化学の講義を行う。この時、テイヤール・ド・シャルダンなどとの交流が始まった。
 1929年、世界で最初の生物地球化学研究所をロシアに設立、所長になる。
 
●独立栄養生物(p377)
 独立栄養生物=植物。光合成、炭酸同化作用ができて、太陽エネルギーと無機物さえあれば生きていける生物。
 人間が独立栄養能力を獲得できれば、飢えからの解放が可能になる。生きるために他の生命を奪わなければならないという殺生の宿命から逃れられる。
 有機化学を発達させ、食物を無機物から直接合成できるようにすればいい。
 ヴェルナツキー「人類の独立栄養性」『ロシアの宇宙精神』西中村浩訳、せりか書房。
 
●フョードロフ(p386)
 ニコライ・フョードロフ、1829-1903。ロシア最大の図書館ルミャンツェフ図書館(革命後のレーニン図書館。現在のロシア国立図書館)の伝説的司書。図書館の本を全部読んだに違いないと言われるほど博識で、聞かれると、誰にでも惜しみなく自分の知識を与えた。
 「モスクワのソクラテス」と呼ばれた。
 図書館が閉館になる午後3時以降や日曜日になると、モスクワの有名人がたくさん集まってきて、彼のいる図書館の目録室が文化人の談話クラブのようになった。
 ツィオルコフスキーは、少年時代に耳が聞こえなくなり、独学で学んだ。ルミャンツェフ図書館に通い、フョードロフが薦める本を次々に読むことで宇宙科学を学び、宇宙哲学を作っていった。
 トルストイ、ドストエフスキー、ゴーリキー、マヤコフスキーなどにもきわめて強い影響を及ぼした。
 スヴェトラーナ・セミョーノヴァ『フョードルフ伝』。 
 
【ツッコミ処】
・ハイパー人間(p348)
 超人間とは、バイオ技術を使って「ハイパー人間」を改作ることを示唆している?
 「ハイパー人間」とは、ユヴァル・ノア・ハラリのいう「ホモ・デウス」か?
 
(2021/5/6)KG
 
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新宗教を問う 近代日本人と救いの信仰
 [哲学・心理・宗教]

新宗教を問う: 近代日本人と救いの信仰 (ちくま新書)  
島薗進/著
出版社名:筑摩書房(ちくま新書 1527)
出版年月:2020年11月
ISBNコード:978-4-480-07351-8
税込価格:1,034円
頁数・縦:317p・18cm
 
 幕末維新期から現在まで、隆盛する「新宗教」について論じる。
 
【目次】
序章 新宗教とは何か
第1章 新宗教としての創価学会
第2章 創価学会―弾圧と戦後の変容
第3章 法華系宗教―霊友会系の新宗教教団
第4章 大本の誕生と背景
第5章 二度の大本事件
第6章 新宗教発展の社会背景
第7章 新宗教の思想と信仰
第8章 江戸時代に形づくられた発生基盤
第9章 明治維新期の新宗教の展開
第10章 救済宗教としての新宗教
第11章 現代日本人の宗教意識の変容
第12章 新宗教の後退とオウム真理教
第13章 新宗教と新宗教以後のスピリチュアリティ
終章 「救い」にかわるものを求めて
 
【著者】
島薗 進 (シマゾノ ススム)
 1948年生まれ。宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長。専門は日本宗教史。日本宗教学会元会長。
 
【抜書】
●神々のラッシュアワー(p9)
 1945年から60年代にかけて、「神々のラッシュアワー」と呼ばれるような、数多くの新宗教教団の発展がみられた。大教団になったものの多くは、1930年代にすでに基盤が作られたものが多い。
 1920年代から60年代までが新宗教の最盛期。
 
●創価学会(p15)
 1930年、牧口常三郎(1871-1944)が『創価教育学体系』第1巻を発行。最終巻の第4巻は1934年に刊行。弟子の戸田城聖(1900-58)が大きな役割を果たした。発行所として「創価教育学会」という名を付けた。
 「社会的な特権から疎外された人間でも努力をして主体的に生き方を深めれば良い人生が送れる」ということを教えるのが、学校教育の目標。算数、国語、理科、社会を統合し、そのような学び方を身につける科目として、「郷土科」を位置付けようとした。当時、ドイツなどで始められていた新しい科目。
 本書の考え方を学びながら、教育実践を改善していこうとする教員たちが集い、牧口を囲み、座談会が行われるようになる。
 牧口が50代の頃、日蓮正宗に入信。同時期に戸田も入信。協力して『創価教育学体系』を出版する。
 
●人間革命(p27)
 創価学会において、「南無妙法蓮華経」と唱え、本尊に「唱題」することで生命力を充実させ、利他の実践を通して最高の状態に近づいていくこと。
 本尊とは、日蓮宗の富士門流(明治時代になると日蓮正宗と改称)の板曼荼羅。日蓮の没後に身延山の池の中から見つかったとされる、板に書かれた曼荼羅本尊(「大御本尊」と呼ばれる)。日蓮正宗では、その板曼荼羅こそが日蓮が後世に残した唯一の本尊であり、その曼荼羅を安置する大石寺こそが、日蓮が説いた仏法の本流であると主張。(p23)
 
●霊友会(p60)
 久保角太郎(1892-1944。九十九里の漁師の四男)と小谷喜美(こたにきみ、1901-71。角太郎の義姉)が創設。法華経系の教団。西田無学の「在家による先祖供養」を重視。
 霊友会から派生した教団……孝道教団、立正佼成会、妙智會教団、霊法会、思親会、佛所護念会、妙道會、大慧会、正義会、など。多くが男女のリーダーがペアを組んでいる。男性の指導者と、女性の霊能者。
 
●新日本宗教団体連合会(p73)
 1951年、立正佼成会は、さまざまな新宗教の指導者たちと協力して、新日本宗教団体連合会(新宗連)を設立した。庭野日敬(1906-99)は、PL教団の御木徳近とともに、リーダー的役割を担う。
 立正佼成会は、1938年に霊友会から独立した教団。庭野が開祖。霊能を持った女性の長沼妙佼(みょうこう、1889-1957)が脇祖と呼ばれる。
 
●読売菩薩(p78)
 1956年、読売新聞が立正佼成会を攻撃するキャンペーンを開始。同会が杉並区和田本町の教団用地の買収と宅地転用にあたって不正を行ったと主張。これまでの研究では、根拠の薄い攻撃だったと捉えられている。
 教団は、告訴などの対抗手段を取らなかった。その批判をむしろ自分たちが反省するための良き助言であるというように捉えて、攻撃者を「読売菩薩」と呼び、感謝の気持ちを持つようにメンバーに働きかけた。
 立正佼成会は、他者に対して攻撃的ではなく、融和的な態度を求めるという特徴が顕著。
 
●社会参加仏教(p82)
 人類共通の普遍的な社会問題に積極的に取り組む仏教の姿勢を、20世紀の末頃から「社会参加仏教」(Engaged Buddhism)と捉える見方が国際的に広がっている。菩薩行・利他行を強調する法華経に縁が深い新宗教教団のなかに社会参加仏教の傾向が目立つ。立正佼成会や孝道教団、妙智會教団、など。
 
●大本(p91)
 大本は、1892年、出口なお(1837-1918)が神がかったことにより始まる。のちに出口王仁三郎(1871-1948)によって書き直された神がかりの言葉は、「初発の神諭(しょっぱつのしんゆ)」と呼ばれるようになる。「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神(こんじん)の世に成りたるぞよ。……」
 発祥の地は、京都北部の綾部。
 〔金光教による「誤解され隠されていたよき神が現れる」という「艮の金神」のメッセージ、天理教による「これまでは道にはずれた人たちが支配していた世界だったが、これからは正しい世の中に変わっていくのだ」というメッセージの両方を引き継ぎながら、なおの独自の世直しの予言が発せられていったのだ。〕
 鎮魂帰神の行……男女を問わず信徒に神がかりを体験させ、霊界の実在を強く信じさせる。
 世直し……〔大本は日本の新宗教の中でも世直し的な要素をもっとも濃厚にはらんだ団体として位置づけることができる。〕(p115)
 
●生長の家(p120)
 大本から派生した宗教団体。
 谷口雅春(1893-1985)が、米国で広まっていたニューソートの思想に惹かれて影響を受け、「神想観」という実践を編み出す。
 1930年、『生長の家』を創刊。教団の設立年。
 日本教文社という出版社を運営するようになる。
 強度の天皇崇敬を鼓吹するようになる。
 1964年、生長の家政治連合を結成し、全国の大学に学生組織を作る。
 生長の家の青年組織に所属した者たちが、日本会議(1997年設立)や、日本を守る会(1974年設立)という組織を支えた。
 谷口雅春が没すると、90年代以降、孫の雅宣(まさのぶ)が方向転換し、右派政治色を脱し、天皇信仰の側面も弱まる。生長の家政治連合も活動を停止。
 
●世界救世教(p125)
 岡田茂吉(もきち、1882-1955)のもと、大本の第一弾圧(1921年)以後に大本から分かれ、熱海と箱根を本拠に独自の信仰集団を形成。
 手かざしによる癒しの信仰。神霊が宿る御守り(「お光さま」)を首にかけ、他者に向かって手をかざして「浄霊」を行う。それによって、他者の体内の罪穢れや薬毒を清め、神霊の生命力が付与される。
 美の重視、芸術活動の重視。熱海のMOA美術館。
 1950年代以降、崇教真光(すうきょうまひかり)・世界真光文明教団、神慈秀明会、救世神教、大日本光明協会、世界浄霊会、天聖真美会、救世主教、など多くの教団に分派した。
 
●PL教団(p133)
 御木徳近(1900-83)……1937年に弾圧を受けた「ひとのみち教団」の創始者御木徳一の息子。PL(パーフェクト・リバティー)教団を形成し、1954年から大阪府羽曳野市に本部を置く。
 「PL処世訓」二十一ヶ条を掲げる。第一ヶ条には、「人生は芸術である」とある。本部施設には、ゴルフ場や遊園地や病院とともに大平和祈念塔を持つ。毎夏、大きな花火大会が行われた。
 
●伝統仏教との共存(p154)
 新宗教の現世中心主義は、〔多くの教団が伝統仏教と対立関係をもとうとしなかったこととも関わりがある。信者に伝統仏教との二重帰属を認め、新宗教に入信しても伝統仏教の檀家をやめるようには勧めず、信者は人が死ぬと伝統仏教にのっとって儀礼を行える。これには親族や近隣の人たちとのトラブルを避ける面もあったと思われる。死に対処する状況では、伝統仏教に任せる。つまり、ふだんの信仰生活が死に向かっていない、死を強調する方向ではなかったことも大きく影響している。この時期の新宗教は、死についての儀礼を伝統仏教に委ね、葬式仏教との分業関係にあったとも捉えられる。〕
 
●日本会議(p162)
 日本会議には、念法眞教(ねんぽうしんきょう)、佛所護念会教団、解脱会、霊友会、キリストの幕屋(まくや)など、右派の新宗教団体も多くメンバーとなっている。これらの教団は、平和主義的な考え方や共同行動に向かうことなく、国防や天皇崇敬につながるようなテーマに強い関心を示してきている。
 「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」(1981年設立)が合同して1997年に設立。日本を守る会は、右派の宗教団体が主なメンバーだった。
 
●新宗教、セクト(p170)
 新宗教の登場は、19世紀の初めくらいから。近世から近代にかけて、民衆が自律性を強め、エリート層から独立して政治的・経済的・文化的な営みを行う傾向が強まっていく。
 セクト……宗派、教派。欧米では、近世・近代の民衆的な信仰集団はほぼキリスト教の枠内にとどまった。
 新宗教……日本の場合、既存の仏教や神道、儒教やキリスト教の枠組みにはまらないものが多かった。
 
●教派神道(p171)
 19世紀の初めから明治維新期の初めに登場してきた新宗教団体群。
 独立した宗教教団……天理教、金光教、黒住教。
 独立した教派にはならなかったが、宗教団体として自律性を持っていた教団……丸山教(神道色が濃い)、如来教(仏教色が濃い)。
 
●修験道(p177)
 山岳信仰の修験道は、役小角(伝634-701)を開祖とする。神仏習合の代表的な信仰集団。
 江戸時代になると修験者(山伏)の中には半分農民という人もかなりて(里山伏)、結婚もできるので、俗人と僧侶の間くらいの人が宗教活動を行った。
 本山派……天台宗に属する。聖護院が総本山。
 当山派……真言宗に属する。醍醐寺三宝院が総本山。
 
●食行身禄(p178)
 食行身禄(じきぎょうみろく、1671-1733)、伊勢の商人で、本名は伊藤伊兵衛。江戸に出てきて油売りなどをしていた。
 富士講を熱心に行うようになり、インスピレーションを受けて独自の教えを説くようになった。
 富士山で入定。世を救う行為だと信じ、烏帽子岩(現在の八合目)で瞑想をし、言葉を唱えながら死んでいった。世直しを祈願してなされる犠牲死の行。
 
●金光教(p190)
 教祖は赤沢文治(1814-83)。岡山県大谷村出身。のちに金光大神(こんこうだいじん)という神名で呼ばれるようになる。
 1859年、46歳の時に神の「お知らせ」を受け、農業をやめて神前での取次に専念するようになる。
 取次……「広前(ひろまえ)」と呼ばれる屋内の神前の空間の「結界」右手に教祖が坐し、左の耳の側から信徒の悩みや願いを聞き、それを目の前の机で書き写し、右の耳の側に祀られている神の応答と答えを聞いて信徒に「ご理解」を伝えるというやりとり。この「結界取次」が金光教の救いの信仰の活動の核となる。
 弟子たちにも、「出社(でやしろ)」を開いて結界取次を行うことを認めるようになる。
 55歳の時、自らの神名を「生神(いきがみ)金光大神」とするようになる。
 
●天理教(p194)
 教祖は中山みき(1798-1887)。大和盆地の大庄屋、前川家という農家に生まれた。
 ひとり息子が足の病にかかり、修験道に関わるようになる。内山永久寺という大寺の市兵衛という山伏に祈禱をしてもらうようになる。
 1838年(天保9年)、代役で加持台(かじだい)になった時、天下った神が「我は元の神、実の神である。この世を救うために天下った」と言った。山伏の統御できる信仰領域から外れてしまった中山みきは、長期にわたる苦難の生活と神との対話の時期を経て、「天の将軍、普通の神とは違う偉大な神であり、人々を救う」と語り始める。
 やがて中山みきは、「みかぐらうた(御神楽歌)」という、踊りの付いた祈りの歌を作る。これが天理教のもっとも重要な儀式である「おつとめ」になった。すべての信徒が朝晩に行ったり、記念日の祭典に行ったりする祈り。八つある心のほこり(惜しい、欲しい、憎い、かわいい、恨み、腹立ち、欲、高慢)をはらう。
 加持台……「憑(よ)り祈禱(ぎとう)」(寄加持《よせかじ》)では、男の修験者が女性の修験者に神を降ろす。その降ろされる側のことを加持台という。
 おふでさき……中山みき自身が、神の言葉をすべてひらがなで書いたもの。天理教の主要な経典。「元始(もとはじ)まり」という、『古事記』に似た人間創造の神話もある。人類の始まりの場所は、中山家のあった場所。「ぢば」と呼ばれる。
 
●現世救済(p219)
〔 現世否定的ということと対応するものに独身聖職者の存在がある。仏教やカトリック教会の聖職者は職業生活をせず、家族をもたない。この世の快楽や生命増殖に関わらない。経済活動や性行為に関わらず、生命を保ち次代へ継承することに携わらない。生涯独身を貫くことが規範とされる。だが、イスラームはその制度がなく、ヒンドゥーもそうだ。ユダヤ教も日本の浄土真宗でも独身制は求められていない。だが、キリスト教や仏教のような救済宗教における独身を保つ聖職者の存在は、現世否定的な価値観に通じている。永遠のものがこの世を超えた所にあるという考え方に対応している。
 ここに日本の新宗教の発生が関わってくる。日本の新宗教は救済を解く。けれどもその救済はこの世で実現する。この世こそが真の実在であり、その中でこそ救いが実現する。現世救済こそが目標なのだ。それはまた、現世に対して否定的な姿勢をとらない、あるいは否定が弱いということでもある。そのような救済宗教は世界宗教史の中にないわけではないが、この側面がとても明確に発展したのは日本の新宗教の際立った特徴といえる。〕
 
●新新宗教(p232)
 1970年以降の「新新宗教」は、新宗教の時代区分では第4期になる。真如苑、幸福の科学、オウム真理教、など。現世肯定的ではない教団が増えてくる。現代まで続いている。
 第1期……天理教、金光教、本門佛立講、など
 第2期……大本、など
 第3期……霊友会、生長の家、創価学会、立正佼成会、など
 
●真如苑(p236)
 山梨県出身の伊藤真乗(しんじょう。開祖。1906-89)と友司(ともじ。摂受心院。1912-67)の夫婦(またいとこでもある)によって創始された。
 1936年、真乗が勤務先の石川島飛行機製作所を退職し、不動明王を祀る立川の立照閣で宗教活動を始めた。成田山新勝寺に属する立川立照講として届け出。友司の霊能が原動力となった。真乗は、修験道の本拠である真言宗醍醐寺の三宝院で得度。
 1938年、真言宗醍醐派「立川不動尊教会」とし、翌年には、真澄寺に移る。
 戦後は、真言宗から離脱し、「まこと教団」として活動を進める。
 1951年、教団名を「真如苑」に。
 
●統一教会(p240)
 世界キリスト教統一神霊協会の略称。
 現在では、世界平和統一家庭連合と称している。韓国では1994年より、日本では2015年に改称。
 
●阿含宗(p256)
 1954年、桐山靖雄(せいゆう、1921-2016)によって横浜市で創設。
 当初は、現世利益の追求や心なおしが大きな位置を占めていた。
 1970年ごろからは、『変身の原理――密教の神秘』(1971年)、『密教・超能力の秘密』(1972年)において、瞑想による密教的=ヨーガ的な修行を行うことによって、記憶力をはじめとする知的能力を拡大し、超能力を得て自らを普通人より進化した超人的存在に変身させることができると説くようになる。脳生理学への言及が大きな部分を占める。
 平河出版社にて、精神世界と東洋思想の領域で出版活動を行っている。(p276)
 
●幸福の科学(p266)
 東大法学部を卒業し、商社に勤めていた大川隆法が1986年に創始した教団。1987年に、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』を刊行、基本的な信仰が語られている。
 霊界と霊的存在の実在性を強く主張。霊界は何次元にも分かれており、四次元の霊界までは普通の人が帰っていく世界。五次元が善人界、六次元が光明界、七次元が菩薩界、八次元が如来界。九次元が宇宙界で、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)、イエス・キリスト、モーゼ、ゼウス、マヌ、ニュートン、ゾロアスター、孔子、エンリル、マイトレーヤの十の存在がいる。
 釈迦の本体意識が「エル・カンターレ」で「最高大霊」とされる。この意識はさまざまに転生してきており、いま、大川隆法として地球―日本に下生(げしょう)している。
 
(2021/2/17)KG
 
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一億三千万人のための『論語』教室
 [哲学・心理・宗教]

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)
 
高橋源一郎/著
出版社名:河出書房新社(河出新書 012)
出版年月:2019年10月
ISBNコード:978-4-309-63112-7
税込価格:1,320円
頁数・縦:533p・18cm
 
 髙橋源一郎流論語解釈、ってとこか。
 20年ほど前、ある編集部から『論語』の翻訳の依頼があった。「世界の大古典」というような企画だったらしいが、その企画はなくなってしまったものの、それがきっかけで『論語』を読み始め、ほそぼそと『文藝』に連載を続けてきたものを書籍化した、ということらしい。
 
【目次】
レッスン1 学而
レッスン2 為政
レッスン3 八佾(いつ)
レッスン4 里仁
レッスン5 公冶長
レッスン6 雍也
レッスン7 述而
レッスン8 泰伯
レッスン9 子罕
レッスン10 郷党
折り返し地点で
レッスン11 先進
レッスン12 顔淵
レッスン13 子路
レッスン14 憲問
レッスン15 衛霊公
レッスン16 季氏
レッスン17 陽貨
レッスン18 微子
レッスン19 子張
レッスン20 堯曰
 
【著者】
高橋 源一郎 (タカハシ ゲンイチロウ)
 1951年生まれ。81年、『さようなら、ギャングたち』で群像新人賞長編小説賞を受賞しデビュー。2002年『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。著書多数。
 
【抜書】
●関雎(p74)
 60 子曰く、関雎(かんしょ)は楽しんで淫せず、哀しんで傷(やぶ)らず。
 関雎……「(詩経の第一篇の名。その詩の冒頭の「関関雎鳩」の句の略。「関関」は鳴く声の和らぐさま。「雎鳩(しょきゅう)」はみさごで、夫婦仲がよいとされる水鳥。詩は五章で、君子と淑女の愛情をうたっている) 夫婦の道のこと。また、夫婦が和合してかつ礼儀正しいこと。」
 "かん‐しょ[クヮン‥]【関雎】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-02-06)
 
●音楽の四要素(p80)
 63 子、魯の大師(たいし)に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきない。始め作(おこ)すや翕如(きゅうじょ)たり。之に従うこと純如たり。皦如(きょうじょ)たり。繹如(えきじょ)たり、以て成る。
 音楽の四要素を語っているが、その中身は?
 〔儒家が、というか、センセイが「礼楽」一致を説いていたことはよく知られている。音楽の論理と、「礼」の論理が一致することを、センセイは知っていたわけだ。「翕如」、「純如」、「皦如」、「繹如」と、センセイは、音楽の四要素について語っているが、その中身はわからない……と宮崎先生もお手上げだとしてる。〕
 宮崎先生=宮崎市定。
 
●法の支配(p256)
 「折り返し地点で」にて。
〔 そうやって比較していくと、先生のいっている「仁」とか「礼」というものの正体が、なんだかわかってくる(気がする)。政治というものを、王様の恣意に委ねない。もっと、きちんとしたものに基礎をおかなきゃならない。それが、現代では、憲法であったり民主主義だったりするわけですね。ひとことでいえば「法の支配」です。だとするなら、センセイのいっているのも同じことかもしれない。堯や舜はすごい王様だった(実在してないかもしれないけど)。あの統治を再現すれば、みんなが幸せになる。でも、不幸なことに、誰もが堯や舜になれるわけでない。だから、民主主義にしよう、ということになると、ペリクレスです。でも、センセイは、少しちがった考えだった。堯や舜のようになれる「考え方」を定めたのです。〕
 
【ツッコミ処】
・たくさんありすぎて割愛。
 
(2021/2/6)KG
 
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科学化する仏教 瞑想と心身の近現代
 [哲学・心理・宗教]

科学化する仏教 瞑想と心身の近現代 (角川選書)
 
碧海寿広/著
出版社名:KADOKAWA(角川選書 640)
出版年月:2020年7月
ISBNコード:978-4-04-703674-1
税込価格:1,870円
頁数・縦:287p・19cm
 
 仏教と科学の関わりに関する日本近現代史。
 
【目次】
序章 仏教と科学
第1章 心理学と仏教
第2章 催眠術と仏教
第3章 密教の科学
第4章 禅の科学
第5章 ニューサイエンスと仏教
終章 心身の新世紀
 
【著者】
碧海 寿広 (オオミ トシヒロ)
 1981年、東京生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業、同大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。国際宗教研究所宗教情報リサーチセンター研究員、龍谷大学アジア仏教文化研究センター博士研究員などを経て、武蔵野大学文学部准教授。
 
【抜書】
●元良勇次郎(p46)
 日本初のアカデミック心理学者、1858-1912年。
 米国に留学、ジョンズ・ホプキンズ大学で心理学者のスタンレー・ホールと共同研究を行う。1888年に同大で博士号を取得して帰国。
 1893年、帝国大学(東京)に開設された心理学講座の担当教授となる。
 「宗教と云ふものは悲哀の情に基づひて起つて来たものである」「宗教を無くそうとしたならば、其悲哀の情に陥つた時分に之を慰むると云ふ術を一つ拵へなければならぬ」(「政治と宗教と教育」『日本大家論集』第六巻第九号、1894年)。
 科学が宗教に代わって、人間の悲しみの感情に適切に対処できる技術を作り上げるべきである。
 
●ウィリアム・ジェームズ(p61)
 心理学者、1842-1910年。『宗教的経験の諸相』(1901-02年)を刊行。宗教体験を科学的に分析した最初期の書。「宗教は、合理的あるいは論理的に他の何ものからも演繹できない魅力を人生にそえるものである」。
 宗教体験の心理現象を解明するために、膨大な量の宗教体験の語りをデータに用い、その内実を多角的に考察。
 
●福来友吉(p87)
 1869-1952年。元良勇次郎の弟子。東京帝国大学助教授までいったが、催眠術の研究にのめり込み、透視・念写の実験などを行い、東大から追放された。被験者の御船千鶴子が自殺(1911年1月)、長尾郁子が病死(同年2月)。1913年『透視と念写』刊行。1915年11月、2年間の休職後、退職。
 1916年『心霊の現象』刊行。
 真言密教に興味を持つようになる。透視や念写の能力を身につけるべく、修行にも励む。
 1921年、真言宗が経営する私立宣真高等女学校の初代校長。
 1926年、高野山大学教授。
 1930年、京都市外の嵯峨公会堂で「弘法大師の御霊影」を念写する実験を行う。空海49歳の「弘仁13年7月15日から百ケ日間御修法の時の御姿」が写真に現れた、とされる。
 1932年、『心霊と神秘世界』刊行。真言密教を理論的なバックボーンとした、心霊現象と神秘主義の体系的な解説書。
 
●超合理的(p117)
 京都帝国大学理工科教授の青柳栄司(あおやぎえいじ、1873-1944)は、1928年、『科学上より見たる弘法大師』(六大新報社)を刊行。弘法大師の生涯と業績を紹介しながら、「科学と宗教との重要なる関係」について見解を述べる。「今日、科学者の中には往々にして宗教を無視し或は排斥する者があり、又宗教家の中には科学を尊重せず却つて之と抵触する見解を抱く者がありはしないかと予は虞(おそ)れる」。
 宗教は、科学的に見て不合理なのではなく、むしろ「超合理」なものである。
  第一式 1+2=3  (合理的)
  第二式 1+2+宗教=3+a (超合理的)
  第三式 1+2+無宗教=3-a (不合理的)
 
●内観(p135)
 自身の心や人間関係に問題を抱えた者が、一定期間にわたり隔離された環境で、自己内省をひたすら深める心理療法。浄土真宗の吉本伊信(よしもといしん、1916-88)が昭和初期に開発した。
 内観者は、自己と改めて向き合うための手法として、過去から現在までの対人関係を徹底して見直す。自分の母親をはじめとする具体的な他者を念頭に、自分が相手に「してもらったこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」の三項目について、ひたすら想起する。
 内観が順調に進んだ場合、内観者は、自分に多くの恩恵を与えてくれた相手への感謝の念を強め、心の歪みが治療される。また、安定した自己認識や、他者との良好な関係を築けるようになる。
 肯定的な効能は心理学者らによって確かめられており、1954年以降、少年院や刑務所などの矯正施設にも導入された。
 
●賽銭箱(p186)
 近世以降、共同体のための祈願から個人本位の祈願への移り変わりが顕著になる。それを象徴するのが「賽銭箱」。
 社寺に賽銭箱が設置されると、人々は個々の願望の成就を神仏に祈るようになる。それまでは、村の人々は社寺や祭礼の場などに集まり、ともに祈りをささげた。
 次第に多くの日本人が、自分の願いをかなえてくれるかどうか「神を試みる」ようになり、そこから「信仰の個人化」が生じ始めた。
 阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書、1996年)より。
 
●心理利益(p187)
 「問題が客観的に改善しなくても、主観的な心の状態が良くなり、前向きになること、問題を肯定的に受容し、積極的に取り組めるようになること、やがて願望を実現するのにふさわしい強い思いを持てるようになること」。
 心理利益を期待して、社寺や「パワースポット」を訪れる人々が増加している。
 堀江宗正(のりちか)「パワースポット体験の現象学―現世利益から心理利益へ」『ポップ・スピリチュアリティ―メディア化された宗教性』(岩波書店、2019年)より。
 
●テオーリア(p213)
 湯浅泰雄(1925-2005)、『身体―東洋的心身論』(創文社、1977年)、『宗教と科学の間―共時性・超心理学・気の科学』(名著刊行会、1993年)。
 ギリシャ時代の昔から、西洋では、神のような特権的な立場から世界を観察する「テオーリア(観察)の知」が高い地位にあった。軍人や労働者や奴隷のように実践活動=プラクシスに従事する人々は、低い地位にあると考えられた。
 20世紀に入り、この関係が逆転する。巨大加速器がなければ物理学の研究ができなくなり、最先端の計測器がなければバイオテクノロジーも医学の分野も進歩しなくなった。
 「今や、科学が逆に技術に従属する時代になった」。「プラクシスの知」の優越。
 東洋における知の伝統は、テオーリアとプラクシスを分離しない知、あるいは、実践を通じて自分の心そのものを変容させる体験知としての一種の技術を示している。いわば、プラクシスを通じて得られる高次のテオーリアの知を目指すものである。
 
(2020/11/10)KG
 
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仁義なき聖書美術 旧約篇
 [哲学・心理・宗教]

仁義なき聖書美術【旧約篇】  
架神恭介/著 池上英洋/著
出版社名:筑摩書房
出版年月:2020年3月
ISBNコード:978-4-480-87405-4
税込価格:1,760円
頁数・縦:162p・19cm
 
 旧約聖書に書かれた物語をやくざの話としてパロディ風に広島弁で語り、その物語を題材にした美術作品を普通に紹介する、新手の美術解説書。
 聖書は理不尽で残虐な暴力に満ち溢れている。だから、ヤハウェもダビデもそのほかの登場人物たちも、やくざに仕立てたのか? まさに「仁義なき」ヤハウェの親分、悪逆の限りを尽くす「神」なのである。
 そう考えると、一神教とは、ユダヤ教徒とは、恐ろしい宗教なのである。
 
【目次】
第1部 仁義なき旧約物語
 天地創造
 アダムとエバ
 カインとアベル
 ノアの箱舟
 バベルの塔
  ほか
第2部 仁義なき旧約聖書の美術
 楽園追放
 最初の殺人
 バベルの塔
 大洪水
 ソドムと同性愛
  ほか
 
【著者】
架神 恭介 (カガミ キョウスケ)
 1980年生まれ。広島県出身。作家。早稲田大学卒業。
 
池上 英洋 (イケガミ ヒデヒロ)
 1967年生まれ。広島県出身。東京造形大学教授。東京藝術大学卒業、同大学院修士課程修了。
 
【抜書】
●ルネッサンス絵画(池上)
 ルネッサンス絵画を規定する三要素。
  空間表現
  人体理解
  感情表現
 「最初のルネッサンス絵画」と呼ばれているのは、マザッチョ「エデンの園からの追放」(1426-27)。人物たちの足元に影があり(奥行きを表現)、正確なアダムの人体構造と、嘆き悲しむ二人のしぐさと表情が表現されている。
 
●イヴ(池上)
 エヴァ(イヴ)は最初、単にイシャー(女)と呼ばれていた。アダムが、それまでイシャー(女)と呼ばれていたパートナーに、エヴァ(イヴ)という名を与える。
 楽園追放は、女であるイヴが蛇にそそのかされ、知恵の実をアダムに与えたのが原因。男は悪くない、悪いのは女だ。 ⇒ ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の文化圏における男尊女卑の根拠
 
●我々(池上)
 バベルの塔に関する記述(『創世記』第11章)。
〔 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。(……)彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう(……)」と言った。主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。「彼らは一つ民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。(……)我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」〕
 一神教のはずの旧約の神が、「我々」と複数形で呼んでいる。神は、天使たちに向かって話しているのだ、とする解釈もできる。しかし、多神教を信じていた民族の逸話が、そのまま旧約聖書に採り入れられた可能性もある。
 「バベル」の名の由来について、聖書には「混ぜる(≒バラバラにする)」を意味するヘブライ語「バーラル」から来たと書かれている。しかし、アッカド語で「神の門」を意味する「バブ・イル(=バビロン)」のほうが音的に近い。
 
●洪水伝説(池上)
 ノアの洪水と同種の物語は、『ギルガメシュ叙事詩』(BC1800年頃)にもある。旧約聖書が編纂される千年以上前。
 さらに、『ジウスドラの洪水伝説』という、さらに古いテキストがある。現存する粘土板写本はBC1600年頃のものだが、成立自体はさらに千年ほどさかのぼると考えられている。
 ギルガメシュもジウスドラも、多神教の神話。どちらの洪水伝説でも、ユーフラテス川沿いのシュルッパクという街を滅ぼそうとする。この街は、現在のイラク南部のアル・ブダイルからやや南にあるテル・ファラ遺跡にあたると考えられている。今から五千年前頃に都市が誕生し、地質学的調査によるとBC2800年頃に洪水が襲った。
 
(2020/9/30)EB
 
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哲学の技法 世界の見方を変える思想の歴史
 [哲学・心理・宗教]

哲学の技法: 世界の見方を変える思想の歴史  
ジュリアン・バジーニ/著 黒輪篤嗣/訳
出版社名:河出書房新社
出版年月:2020年2月
ISBNコード:978-4-309-24948-3
税込価格:3,080円
頁数・縦:446p・19cm
 
 50人の専門家にインタビューを行い(p.383)、ジャーナリストして(p.17)世界の哲学を論じた、哲学入門書。
 日本語の「入門」について言及されている(p.15)。「入門」とは「入り口の門」の意味で、「境界を定める役割」と「来訪者を招き入れる役割」の二つの役割があると。英語ではIntroductionになってしまうのだが、著者も言うように、本書のタイトルは、『技法』ではなく、『入門』のほうがふさわしかったのではないだろうかと思う。他の哲学者との対話を通じて、哲学を感じ取れる好書である。
 
【目次】
プロローグ 枢軸時代から情報時代までの歴史を振り返る
 
第1部 どのように知識を得るか
 第1章 洞察「鋭敏な観察者によって見られるもの」
 第2章 言葉にできないこと「言葉が引き返してくる場所」
 第3章 神学か哲学か「啓示を知の根拠に」
 第4章 論理「あるものとそれと反対のもののあいだに第三の道はない」
 第5章 世俗的な理性「科学と進歩が全人類の幸せにつながる世界」
 第6章 プラグマティズム「人間の問題に対処するための方法」
 第7章 伝統「新しい説を立てているわけではなく、昔からの説を伝えているにすぎない。私は古人の道を信じ、こよなく愛している」
 第8章 結論「哲学はすべて技術」
 
第2部 世界はどのようにあるか
 第9章 時間「昼と夜は車輪のように回転する」
 第10章 カルマ「悪い考えを抱いて、何かを話したり、何かを行ったりすれば、必ず、悲しみがあとから訪れる。あたかも車を引く牛の足跡に、その車輪がついていくように」
 第11章 空「空間の全体が一枚一枚の葉のうちにある」
 第12章 自然主義「生きている人間に仕えることもできないのに、どうして霊魂に仕えることができようか」
 第13章 すべては一つ「私の教えはすべて一つのことで貫かれている」
 第14章 還元主義「あることを解明しても、それによって必ずしも別の説明が否定されるわけではない」
 第15章 結論「この世界から形而上学が消え去ることはないだろう」
 
第3部 私とは何者か
 第16章 無我「私は存在しない。私の所有物は何もない。私は何でもない」
 第17章 関係的な自己「すべてはそのあいだで生じている」
 第18章 原子化した自己「自己とは単一で完全なもの」
 第19章 結論「インティマシーとインテグリティー」
 
第4部 いかに生きるか
 第20章 調和「最高に麗しい調和は違いから生まれる」
 第21章 徳「務めを果たすことで、人格は磨かれる」
 第22章 道徳的な模範「内面は賢者、外面は王」
 第23章 解脱「どうか私を救い出してください。こんな輪廻の中にいる私は、涸れた井戸の中にいる蛙のようです」
 第24章 無常「人生というこの思うに任せぬものの中で、何かを成し遂げようとするけなげな企てである」
 第25章 公平さ「どんな人間もみんな一人として数えること。二人以上として数えてはならない」
 第26章 結論「思想は伝えられるが、そっくりそのままではない」
 
第5部 世界の旅を終えて
 第27章 いかに考えるか
 第28章 場所の意識
 
【著者】
バジーニ,ジュリアン (Baggini, Julian)
 1968年生まれ。イギリスの哲学者。「ガーディアン」紙、「フィナンシャル・タイムズ」紙などの新聞や雑誌への寄稿、テレビ出演などを通して、哲学をわかりやすく解説している。
 
黒輪 篤嗣 (クロワ アツシ)
 翻訳家。1973年生まれ。上智大学文学部哲学科卒業。ノンフィクション、ビジネス書の翻訳を幅広く手がける。
 
【抜書】
●ジャーナリスト(p17)
 〔私はいわば「哲学ジャーナリスト」として今回の課題に取り組んだ。ジャーナリストの仕事とは、最も信頼できる専門家が誰であるかがわかる程度にその分野について知り、専門家に適切な質問をし、その答えを一般の人に向けて書くことだといえる。〕
 
●インド哲学正統派(p20)
 インド哲学の学派のうち、ヴェーダの権威を認める学派が正統派(アースティカ)、認めないのが非正統派(ナースティカ)。
 正統派六学派……ニヤーヤ学派、ヴァイシェーシカ学派、サーンキヤ学派、ヨーガ学派、ミーマーンサー学派、ヴェーダーンタ学派。
 非正統派……仏教、ジャイナ教、チャールヴァーカ学派、アージヴィカ学派。
 
●リシ(p38)
 真理を見通す者。
 インドで、ヴェーダの作者とされる詩人たちを「リシ」と呼ぶ。
 真理の理解に達するには、理性を使うより、見る能力(アーンヴィークシキー)を磨いて、現実のありのままの姿を直接認識する(サークシャートカーラ)必要がある。
 
●プラマーナ(p39)
 インド哲学では、正当な知識の源泉(プラマーナ)は、基本的に六つあるとされる。
 プラティヤクシャ(知覚)、アヌマーナ(推論)、ウパマーナ(類比)、アルターパティ(状況からの想定、結論)、アヌパラブディ(非知覚、否定的証明、認知的証明)、シャブダ(語、信頼できる専門家の証言)。
 
●注意深さ(p51)
 〔東洋思想を研究するカナダのロバート・E・カーターは、哲学を「純粋に知的な営み」と考える西洋と、「知識は経験的なものでもあり、理性だけではなく実践によっても獲得され、磨かれるもの」と考える日本を対比している。日本ではその証拠に、合理的な推論よりも注意深さによって、ものごとの理解を深めようとする武道や華道、弓道、書道、茶道が発達したという。科学技術が生活の隅々まで行き渡った現在の日本でも、そのような感性は息づいている。〕
 
●詩(p61)
〔 日本では、大事なことは言葉にできないという考えは、体系的な哲学を築く伝統が神道にあまりないことの一因になっている。十八世紀の国学者で歌人の賀茂真淵は、次のように指摘した。「一般的な言葉を使って、ものをあいまいに定義しようとすることは、ものを死んだ事物として扱おうとすることだ」。だから、言葉では正確に捉えられれないものをいくらかでも理解するため、詩が必要になるという。同じく十八~十九世紀の国学者で歌人の富士谷御杖(ふじたにみつえ)も、次のように書いている。「自分の考えを直接表せる言葉や喩えがなく、しかも黙ってはいられないとき、私は必要に迫られて、歌を詠む」〕
 
●世俗的理性(p111)
〔 世俗的な理性が頼りになることは、宗教的な信仰の有無にかかわらず、西洋世界では広く認められている。信仰心が篤い科学者であっても、証拠と実験を重んじる。宗教的な啓示によって科学上の大発見を成し遂げようとはしない。何をもって証明とするかや、どれほどの可能性があるかの基準は公にされており、誰でもその是非を論じられる。すべての人に現実を理解する知性が備わっている。世俗的な理性ではリシの出る幕はない。また人間の知性には限界があることも、東洋とは違って、問題にされない。例えば、中国思想もとても世俗的だが、基本的には生き方に関する問いだけを扱い、究極の実在については、人間には知りえないという立場を取っている。西洋の世俗的な理性が目標にしているのは、宇宙のすべてを描き出し、その仕組みを解き明かすことに他ならない。〕
 
●真理の探究者、道の探究者(p140)
 真理の探究者……西洋哲学。実在や論理、言語、心の基本構造を解き明かそうとする。科学のための科学が重んじられる。公平無私の学問を最上のものとする。
 道の探究者……東洋の哲学。釈迦と孔子は、形而上学の究極の問いには関心がない。中国の「道」は、「どこかに存在するものではなく、人間の行為を通じて生み出されるもの」。中国では「哲学はすべて技術(『術』)だとされる」。
 「真理の探究」では、哲学を科学とみる。「道の探究」では、哲学を技術とみる。
 
●西暦6世紀(p166)
 西ベンガル州カリヤニにある国立生物医学ゲノム研究所の発見。
 現在のインド人の大多数は、古代の五つの人口群のいずれかの末裔である。
 それらの人口群は、何千年にもわたって自由に混ざり合い、交配し合っていた。
 しかし、西暦6世紀に、突然、カースト間の婚姻が禁じられたことにより、交配が途絶え、現在まで続くカーストの壁が築かれた。
 
●仙厓義梵(p169)
 仙厓義梵(せんがいぎぼん)、禅僧。単純な形だけをあしらった絵を描いた。○△□図、円相図、など。
 
●他者尊重(p242)
 日本は、集団主義、順応主義と言われる。個性より集団のアイデンティティが優先され、個人の感情は規則や礼儀によって抑えつけられている、と。
〔 私は実際に日本へ行ってみて、そういうい印象は受けなかった。私が出会った人々は、みんなとても人情味にあふれていた。彼らは順応主義者というよりいわば「他者尊重」の精神の持ち主だった。日本人があれほど秩序正しく電車に乗り込むのは、みんなが他の人のことを気にかけているからであって、大勢に「合わせよう」としているからではない。そういう振る舞い方は、わずか数日の滞在中に私にも感化を及ぼした。私はそれまでの自分が街中を歩くとき、人を押しのけるわけではないが、無意識のうちに他人に通行を妨げられまいとして、いくらか肩を張って歩いていたことに気づかされた。そう気づいてからは、肩の力を抜いて、自分が他人の通行の妨げになっていないかどうかに注意を向けるようになった。〕
 
●ウブントゥ(p253)
 南アフリカの言葉、概念。「他者への思いやり」、「人類すべてを結びつける普遍的な絆」といった意味。人間は他者を通じて人間になる。
 アフリカでは、一人一人の人間を原子のように独立した個人とは考えていない。「人間は椰子の木ではない。ひとりでは生きていけない」という、アカン族の格言がある。
 
●キリスト教(p258)
 西洋では、精神史でも、政治史でも、社会史でも、いつも個人が中心におかれる。
 〔世界の主な宗教の中で、教祖個人の呼び名を名称にする宗教は唯一、キリスト教だけだ。〕
 仏陀は、ガウタマ・シッダールタの尊称として用いられることもあるが、もともとは「真理を悟った人」の意味。誰でも「ブッダ」と呼ばれうる。
 哲学の世界でも、プラトン主義、アリストテレス主義、カント主義、スピノザ主義などがある。
 
●インティマシー(p264)
 トマス・カスリスは、西洋文化と東洋文化の根本的な違いを、インテグリティー(一貫性)とインティマシー(親密性)で説明。
 西洋文化……インテグリティーに向かう。原子的な自己。明確な境界のある、独立した円の集合。
 東洋文化……インティマシーに向かう。関係的な自己。重なり合った円。
 
●批判(p289)
 〔比較哲学の研究で名高いチャールズ・ムーアは、「理解するというのは、承認するとか、同意するとかいうこととは違う。むしろ理解とは、それらとは正反対のことだ」と述べている。過度な敬意から対話は生まれない。米国の哲学者ブルース・ジャンズが指摘するように、そこから生まれるのは、是認と丁重なうなずきと微笑みを伴った単なるテキストの交換だけだ。ほんとうの対話のためには、相手の考えを注意深く聞くことに加え、互いに検証し、質問し合うことが欠かせない。どんな場合にも相手を批判しないのは、相手の哲学を自分の哲学よりも脆弱で、問いに堪えられないものとみなすことであり、かえって相手に失礼なことだと私は思う。批判したり、反論したりするのが失礼になるのは、傲慢と無知からそうするときだけだ。〕
 
●日本の哲学(p363)
〔 日本に独特の魅力を感じている西洋人は多い。日本は社会基盤の面では、きわめて現代的で、西洋的である一方、文化の面では、紛れもない異国であり、風変りに見える。しかし、そのように際立った異質さを備えたものでありながら、日本の哲学の伝統からはいろいろと学べる点が多く、またアイデアも借りてきやすい。日本の哲学は特定の宗教的な形而上学と結びついておらず、自然の内的な世界への関心やその理解に根ざしているからだ。思索的ではあっても、その思索は論理や分析を主とするものではない。他の哲学の伝統の本質的な部分をまったく犠牲にせずに、それぞれの体系を深め、豊かにできる可能性を日本の哲学は秘めている。〕
 
●道徳のミキシング(p378)
〔 異文化の価値観に学ぶこつは、ミキシングの作業に喩えるとわかりやすい。ミキシングでは、プロデューサーが楽器別に録音をして、それらのトラックを別々のチャンネルで再生する。ミキサーに並んだつまみを上げたり下げたりすることで、各トラックの音量が上げられたり、下げられたりする。
 道徳のミキシングも、それとだいたい同じだ。世界じゅうどこでも、チャンネルの種類はほぼ変わらない。公平さ、規則、結果、徳、神、社会、自律、行為、意図、調和、コミュニティー、帰属などだ。文化による違いは主に、それぞれのチャンネルの調整の仕方にある。ふつうは、どのチャンネルも完全に切られることはない。ただ場合によっては、まったくミキシングされないもの――例えば、「神」など――があることもある。異文化の思想を取り入れるには、よい倫理の耳を持つことが必要だ。そのためにできるだけ道徳的な概念の全域に通じていたほうがいい。また、すべてのチャンネルを最大に上がられないことに気づく知恵も必要だ。価値観の中には互いに対立するもの、少なくとも、同じ音量にできないものがある。同様に、過度な「調和」の強調のせいで、他の価値観が犠牲になる場合のように、音量を下げられすぎて、ほとんど聴き取れなくなっている価値観があることもある。〕
 
●複数の視点(p401)
 比較哲学を学ぶことによって、理解が三つの面で深まる。
 キュービズムの見方……複数の視点からの眺めを統合し、キャンパスに表現できる。
 分割的な見方……複数の視点を持つと、考えるべき問題が一つだけではないことに気づく。
 多元主義の見方……複数の視点から見ることには、正当な世界観や行動規範は一つではないことが分かる。
 
(2020/6/29)KG
 
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