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浮浪児1945- 戦争が生んだ子供たち
 [社会・政治・時事]

浮浪児1945‐: 戦争が生んだ子供たち

石井光太/著
出版社名 : 新潮社
出版年月 : 2014年8月
ISBNコード : 978-4-10-305455-9 
税込価格 : 1,620円
頁数・縦 : 286p・20cm


 東京大空襲後の上野の浮浪児たちの実態を調査したルポルタージュ。あの頃の空気が伝わってくる。

【目次】
序章 遺書
第1章 上野と飢餓
第2章 弱肉強食
第3章 上野の浄化作戦
第4章 孤児院
第5章 六十余年の後

【著者】
石井 光太 (イシイ コウタ)
 1977(昭和52)年、東京生まれ。国内外の貧困、医療、戦争、災害、事件など幅広いテーマで執筆。アジアの障害者や物乞いを追った『物乞う仏陀』でデビュー。

【抜書】
●終戦直後の食糧不足(p33)
 (1)農夫たちが徴兵されたための作付不足。
 (2)アジア諸国からの米の輸入の停止。
 (3)超大型台風の到来。
 1945年9月、枕崎台風。昭和の三大台風のひとつ。日本列島を縦断、原爆被害後の広島を直撃、全国で死者2,473人、行方不明1,283人。農作物にも被害をもたらす。
 米の生産量、1939年1035万トン → 1945年587万トン。大正・昭和を通じて最大の凶作。

●アメ横(p43)
 現在のアメ横は、戦前、「しょうべん横丁」と呼ばれていた。小さな店や民家が密集した土地。近くに変電所があり、空襲の際に巻き込まれると電気の供給が止まるので、戦争開始直後、立退き、住宅の取り壊しを始める。空き地となる。
 「朝鮮人」と呼ばれた人たちが集まり、闇市をつくる。日本国民には、「禁制品」は配給のみとし、自由取引を禁止していたが、在日外国人(開放国民)は取り締まりを受けなかった。

●傷痍軍人(p72)
 傷痍軍人は、五体満足な偽物が多かった。
 本物の傷痍軍人は、目が見えなかったり、手足がなかったりするから稼げるところに行けない。地下の人通りがほとんどない通路で、壁に向かって一人で歌い続けていたりする。
 浮浪児たちは、一日の仕事が終わると彼らのもとに食べ物を持っていった。彼らは、お礼に読み書きや英語を教えた。

●東京露店商同業組合(p82)
 アメ横の「朝鮮人」ヤクザが、日本人露店商から土地を脅し取ったり、日本人のみに高いショバ代を要求したりした。「朝鮮人」たちの支配権が急速に強まっていた。
 警察は、テキヤを集めて「東京露店商同業組合」を組織し、「朝鮮人」に対抗。初代理事長は、新宿の現在伊勢丹のあるあたりに「新宿(尾津)マーケット」と呼ばれる巨大な闇市をつくっていた、関東尾津組組長の尾津喜之助。本部を港区芝田村町に置き、上野、池袋、新橋などのテキヤ組織に呼びかけて支部をつくる。
 闇市の露店商たちに呼びかけ、出店許可を取り、組合費を支払うという仕組みを作った。さらに、「ゴミ銭」と呼ぶ管理費や、それ以外の名目で小銭を巻き上げた。

●愚連隊(p89)
 愚連隊……十代から二十代が中心の反社会的集団。親分の下に血気盛んな不良たちが集まって形成された。上野では、「血桜団」「破れ傘一家」「桜会」などがあった。
 テキヤやヤクザのようなはっきりした生業をもたない。
 地下道を根城にして、窃盗、恐喝、詐欺、たかりなどを行っていた。

●スリの親分(p100)
 不良たちにスリの技能を教える場所があった。スリの親分が大きな邸宅を建て、そこに不良少年たちを集めてご馳走し、風呂に入れ、布団で寝かせる。「スリの学校」。親分は「校長」と呼ばれていた。
 子供たちにスリを強要しないが、豪勢な暮らしを見せ、体験させることで、スリになりたいと思わせ、手ほどきをする。少年たちがスリで稼いだ金の上前をはねる。
 チャリンコ……スリをする子ども。
 ナタ切り……カミソリでバッグを上から真っ二つに裂いて中身を取る。
 てっぽう……通行人の右腕にぶつかり、神経がそちらに行っている隙に右胸のポケットに入っている財布を抜き取る。
 カマナデ……洋服のポケットをカミソリで横に切って財布を抜く。

●RAA:特殊慰安施設協会(p106)
 1946年に、上野のパンパンが増加。
 1月のRAA(特殊慰安施設協会)の廃止が影響。
 RAA……内務省が作った進駐軍のための慰安所。「進駐軍の兵士たちが日本人女性を片っ端からレイプする」という噂がたち、一般の女性の被害を最低限に抑えるために、売春婦を公募。1945年8月27日、大森に第一号店「小町園」を設置。最盛期には、全国で約7万人の女性が進駐軍専門の娼婦に。
 しかし、GHQが突然RAAの解散を要求。ルーズベルト前大統領の夫人がRAAに反対、RAAの娼婦の9割が性病に侵されているという調査結果、などが理由。

●オカマ(p114)
 上野の山の正岡子規記念球場のあたりから東照宮にかけての林、あるいは東京国立博物館あたりの人気のない場所に、「オカマ」たちが住んでいた。鬱蒼とした森。
 和服姿の女装。わずか4~5畳のバラックで雑魚寝をして過ごし、夜になると木陰から通りかかる男に黙って手招き。テクニックの上手な者もいて、中には、行為の後も相手がオカマだと気づかない客もいた。
 江戸時代から、隣接する湯島の天神下に「陰間茶屋」と呼ばれた男娼専門の売春宿が集まっていた。
 陰間茶屋で働けなくなった男娼たちが不忍池あたりに立つこともあり、このへんは知る人ぞ知る男色のメッカだった。

●近藤マーケット(p144)
 上野の闇市で、テキヤとヤクザや愚連隊との抗争が続発。禁制品や偽造品などの違法行為も横行。
 1946年5月、警察は、闇市の中心部に位置する通称「三角地帯」に「近藤産業マーケット」(通称:近藤マーケット)をつくる。設立には、自動車修理工場を経営していた事業家の近藤広吉に話をもちかけた。
 警察によって認められた合法的な店だけが営業できる。5平米ほどで区切ったスペースを25コマ設置し、1コマ18,000円で貸し出す。
 瞬く間に「完売」、12月には2号店、80コマを貸し出す。
 飴ブーム……戦後、禁制品の砂糖を使わず、サッカリンや芋を原料とした甘い菓子を大量生産して近藤マーケットで販売、ヒットする。「アメヤ」横丁の名前の由来。

●愛児の家(p172)
 西武新宿線の都立家政駅の改札口を抜けた踏切の向こうに商店街があり、路地を一歩入った住宅街に「愛児の家」がある。コンクリート造りの大きい白い建物。
 木造の一軒家だった当時、石綿さたよ(終戦時48歳)が三人の娘とともに孤児院を始める。
 現在も、三女の裕が経営。

(2014/11/30)KG

〈この本の詳細〉


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