戦後日本の宗教史 天皇制・祖先崇拝・新宗教
[哲学・心理・宗教]
出版社名 :筑摩書房(筑摩選書 0116)
出版年月 :2015年7月
ISBNコード :978-4-480-01623-2
税込価格 :1,836円
頁数・縦 :328p・19cm
戦後日本の宗教を、天皇制、祖先崇拝、新宗教という3つのキーワードで読み解く。
天皇制の変容で国家神道が否定され、戦後の社会の変化によって数々の新宗教が生まれてきた背景を解説する。
【目次】
Ⅰ 敗戦と混乱期
第1章 敗戦によって国家神道体制はどう変容したのか
第2章 『先祖の話』のもつ意味
第3章 敗戦が生んだ新宗教
第4章 宗教をめぐる法的な環境の転換
Ⅱ 高度経済成長と変化する戦後の宗教
第5章 戦後の天皇家が失ったものとその象徴としての役割
第6章 創価学会の急成長という戦後最大の宗教事件
第7章 創価学会の政治進出と宗教政党・公明党の結成
第8章 靖国神社の国家護持をめぐる問題
第9章 戦後における既成仏教の継承と変容
Ⅲ 高度経済成長の終焉と宗教世界の決定的な変容
第10章 政教分離への圧力 その創価学会と靖国問題への影響
第11章 オイル・ショックを契機とした新新宗教概念の登場
第12章 靖国神社に参拝しなくなった昭和天皇の崩御
第13章 創価学会の在家主義の徹底と一般社会の葬儀の変容
第14章 オウム真理教の地下鉄サリン事件
【著者】
島田 裕巳 (シマダ ヒロミ)
1953年、東京に生まれる。宗教学者・作家・東京女子大学非常勤講師。東京大学文学部宗教学科卒業。同大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学助教授、東京大学先端科学技術センター特任研究員などを歴任。
【抜書】
●PL教団(p68)
正式名称は、「パーフェクト・リバティー教団」。宗教法人の認証を受ける際、アルファベットを使うことが認められていない。
戦前の名称は、「ひとのみち教団」。教祖は、御木徳一(みきとくはる)。黄檗宗で得度したが、貧乏寺の住職にしかなれず、生活が困窮、僧籍を離れる。教派神道の一派、御嶽教(おんたけきょう)に属していた徳光教会の開祖、金田徳光と出会い、その元で活動。徳光は、山伏として修行した民間宗教家。神仏混交。
1919年、徳光の死後、そのあとを継ぎ、25年に御嶽教徳光大教会本部を設立。
1928年、御嶽教から扶桑教(富士山信仰)に移る。どちらも山岳宗教。
1931年、扶桑教ひとのみち教団を設立。天照大神を至高の神とする。出勤や登校の前、早朝に集まって説教や礼拝、体験告白を行う「朝参り」が活動の中心に。早起きの徳を強調。
1934年、大阪の布施市(現在の東大阪市)に大本殿を建設。高さ27m、約2300坪、1008畳敷きで収容人数2万人。
1937年、「ひとのみち教団事件」が起こり、弾圧を受ける。不敬罪。治安警察法により、結社禁止処分。徳一は厳しい取調べを受け、保釈中に死亡。息子の徳近(とくちか)も、懲役4年。
1945年10月、徳近は出所後、教団の名称をパーフェクト・リバティー教団に改称。
1947年、「二十一か条の処世訓(みおしえ)」(現在はPL処世訓)を発表。第1条は、「人生は芸術である」。自由、世界平和などを謳い、自己表現を志向するなど、戦後の価値観に沿う内容。
PL教団広島診療所、宝生会病院(富田林市。現・PL病院)、PL東京健康管理センター(人間ドック)など、近代医学を取り入れた病院を多数開設。
●認証(p89)
現行の宗教法人法(1951年施行)では、宗教法人を設立する際に、所轄庁から「認証」を受けなければならない。
所轄庁……単位団体の場合は都道府県、複数の都道府県にわたる単位団体を包括する団体(本社、本山、本部)の場合は文部省。
認証……一定の条件を課し、それを満たしていれば所轄庁が宗教法人として認めるという制度。礼拝施設などの財産を所有し、信者がいて、実際に宗教活動を実践していることなど。脱税逃れのための設立を防止。
宗教団体法(1939年)では「認可」、宗教法人令(1945年)では「届出」だった。
●アメリカと天皇制(p101)
〔 アメリカは新興国で、一八世紀に建国されたこともあり、ヨーロッパの諸国とは異なり、王や貴族という特権階級が存在しない。それは、民主国家を標榜するアメリカにとって誇りでもあるわけだが、同時に、王や貴族といった存在に対する強い憧れを生むことにもつながっている。そうしたアメリカの人間からしてみれば、天皇という存在、あるいは天皇制という政治制度は、どう扱っていいかが難しいものに映った可能性がある。
そうしたことから、天皇制は温存され、天皇退位も行われなかった。そして、国家と国家神道の分離を推し進めることで、天皇制が軍国主義の復活に結びつかない体制が作られていったのだが、やはり天皇制のあり方は戦前と戦後では大きく変わらざるを得なかった。
それは、第一章で述べた現人神の否定ということには留まらない。一般に、それほど注目が集まることもなく、重視されることも少ないが、戦後に大きく変わったのは、いわゆる「天皇財閥」の解体と、「天皇の藩屏」、つまりは皇室を守護するものとその役割が規定された「華族制度」の解体であった。〕
●御料地(p102)
御料地……戦前の天皇家は、林業経営によって資産を形成。1881年(明治14):634町歩(約634ha)→1890年:365万4,000町歩。民有林が838万5,000町歩だった。
御料地から莫大な収益を得て、株式や国債などの有価証券にも投資。日本銀行、横浜正金銀行、日本興業銀行、台湾銀行、王子製紙会社、南満州鉄道会社、など。
戦後、財産税法に従って、皇室の所有する約37億円の9割にあたる約33億円の財産税が課され、物納された。残りの財産も、憲法88条によって国家に帰属することになった。皇室の私的な財産は、身の回りの品と預貯金、有価証券が約1,500万円のみとなった。
●創価教育学会(p125)
1930年、牧口常三郎が「創価教育学会」を創立。当初は教育者の団体としての性格が強かった。
牧口は地理学者で、尋常小学校の校長を歴任。柳田國男とも親交あり。日蓮正宗に入信。
牧口、伊勢神宮が配布する神宮大麻を拝むことを拒否、札を焼却させたことから、治安維持法に違反したとされ、1943年7月に逮捕。東京拘置所で病死。戸田城聖も逮捕されたが、最後まで信仰を捨てず。
《牧口の宗教思想》
価値論……西欧の「真善美」に対抗し、「美利善」を強調。「利」=現世利益。
法罰論……日蓮仏法には、悪人を罰する力がともなっている。
生活革新実験証明座談会(座談会)……信仰でどういった功徳があったか、あるいはそれに反したことでどういった法罰が下ったのかを報告しあう。
●日本小学館(p130)
戸田城聖、戦前に日本小学館という出版社を経営していた。戦後、日本正学館と改称。中学生向けの数学と物理の通信教育を始める。
●創価学会(p130)
戸田城聖、 西神田の日本正学館の事務所で法華経の講義を始める。創価教育学会の元会員たちが集まってくる。機関誌『価値創造』を復刊。
1945年11月に創価学会として初の総会を開く。約500人が集まる。戸田、戦前と同様、理事長に就任。
1951年3月、戸田が第二代会長に就任。1,500人の会員を前に、「折伏大行進」の開始を宣言。「生きている間に75万世帯を折伏」。
●葬式仏教(p201)
「葬式仏教」が普及するのに、江戸時代の「寺請制」が大きな役割を果たした。
日本に仏教が伝来した当初は、葬儀にかかわっていなかった。薬師寺など、古代に創建された寺院には墓地がなく、檀家もない。
やがて浄土教信仰が盛んになり、死者を西方極楽浄土に成仏させる役割が期待されるようになる。
さらに、禅宗の寺院で修行中の雲水の生活を支えるために、在家の信徒に対する葬儀の方法が編み出され、それが他の宗派にも受容されていった。
(2015/11/25)KG
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