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長州ファイブ サムライたちの倫敦
 [歴史・地理・民俗]

長州ファイブ サムライたちの倫敦 (集英社新書)  
桜井俊彰/著
出版社名:集英社(集英社新書 1039)
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-08-721139-9
税込価格:924円
頁数・縦:238p・18cm
 
 幕末にイギリスに密航した5人の長州人留学生の足跡と功績をたどる。5人のなかでも、日本の「鉄道の父」、井上勝を中心とした物語となっている。
 
【目次】
プロローグ 英国大使が爆笑した試写会での、ある発言
第1章 洋学を求め、南へ北へ
第2章 メンバー、確定!
第3章 さらば、攘夷
第4章 「ナビゲーション!」で、とんだ苦労
第5章 UCLとはロンドン大学
第6章 スタートした留学の日々
第7章 散々な長州藩
休題 アーネスト・サトウ
第8章 ロンドンの、一足早い薩長同盟
第9章 「鉄道の父」へ
エピローグ 幕末・明治を駆けた長州ファイブ
 
【著者】
桜井 俊彰 (サクライ トシアキ)
 1952年、東京都生まれ。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。1997年、ロンドン大学、ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A. in Medieval Studies)修了。
 
【抜書】
●密航時の年齢(p28)
 井上馨29歳、遠藤謹助28歳、山尾庸三27歳、伊藤博文23歳、井上勝21歳。
 数え年。以下同様。
 
●井上勝(p29)
 1848年(天保14年)8月1日、長州萩城下町土原(ひじはら)に三男として生まれる。
 父の勝行は藩の上級武士で、長崎藩邸に努める傍ら、オランダ人から西洋の兵学(具体的には銃で武装した兵による陣形)を学んだ。その後、長州に戻り、藩校明倫館の頭人(とうにん。責任者)を務める。
 勝は、6歳の時、養子となり、野村弥吉と名乗ることになる。
 1855年(安政2年)、13歳の時に、勝行に連れられて相模に。長州藩が相州の沿岸警護を命じられていたため。そこで勝は伊藤利助(後の博文)と出会う。
 
●武田斐三郎(p34)
 1827-80年。伊予大洲藩士。適塾で学んだ後、江戸に出て伊東玄朴の下で蘭学を、佐久間象山の下で西洋兵学を学ぶ。ペリー来航時には、吉田松陰とともに象山に率いられて浦賀で黒船を見る。
 語学に明るく、ロシアのプチャーチンが来航した際には幕府に命じられた蘭学者に随行して長崎に赴き、ロシア御用取調掛として対応に当たった。
 1854年(安政元年)、幕臣の堀利煕、村垣範正とともに蝦夷地調査に赴き、そのまま箱館に残って幕臣となる。箱館に奉行所が置かれ、10年間、箱館に留まる。
 箱館港に停泊中のイギリス船でストーブをスケッチし、鋳物職人に日本初のストーブを造らせた。
 箱館に来航したフランス船の軍人から教えられた方法を基に7年をかけて五稜郭を建築する。斐三郎が箱館を離れた後に完成。
 幕府が箱館に開設した洋式学問所「諸術調所」の塾頭(教授)となる。教育内容は、航海術、砲術、造船、測量、化学など多彩。士族と平民とを区別せず、志のある者は誰でも入学させた。前島密、吉原重俊(日本銀行初代総裁)など。
 1861年(文久元年)、洋式帆船の亀田丸を操って、塾生を乗せてアムール川河口を遡ってロシア沿海州のニコライエフスクまで航海。
 維新後は明治政府に出仕し、日本の近代兵制の整備に努め、1874年(明治7年)からは陸軍大佐(砲兵)兼兵学大教授、士官学校教官などを務めた。
 
●山尾庸三(p36)
 1837年(天保8年)生まれ。父忠次郎は、繁沢石見の給領地を管理する庄屋(給庄屋)だった。繁沢は、優秀な庸三を萩の自分の家の奉公人として抱えるようになる。
 20歳の時、江戸へ出て、斎藤弥九郎の指導する練兵館(神道無念流)に入門。練兵館で、桂小五郎と知り合い、その弟分のように親しくなる。
 江川太郎左衛門(英敏)の私塾で西洋砲術や航海術を学ぶ。
 亀田丸に乗ってニコライエフスクまで行く。
 明治元年、井上勝と同じ船でイギリスから帰国。工部省設立、工学寮設立など、日本の工業技術発展に努める。
 
●人の器械(p42)
 周布政之助は、「大攘夷」を実現させるため、できる藩士を外国へ派遣し、「人の器械」となって戻ってこさせるという考えを持っていた。
 人の器械……西洋の文化と技術を完全に理解し身につけた人間。
 
●井上馨(p44)
 1836年1月16日生まれ。17歳で藩校明倫館に入り、21歳に250石取りの中級藩士志道慎平の養子になる。
 参勤交代と共に江戸に出て、長州藩江戸屋敷内の藩校有備館で学ぶ。さらに練兵館に通って剣術修行をし、肥前藩の学者岩谷玄蔵から蘭学を学び、江川坦庵の下で洋式砲術も学んだ。また、藩の海軍力強化策に沿って、英語の習得にも努めていた。
 26歳の時に、藩主毛利敬親の小姓役、28歳で世子定広(毛利元徳)の小姓役となる。聞多という名は、小姓時に敬親からもらったもの。
 ジャーディン・マセソン商会から買ったばかりの壬戌丸に遠藤謹助とともに船員として乗り込み、世子定広の江戸湾一周巡りの供をしている。
 
●遠藤謹助(p52)
 天保7年(1836年)2月15日、萩城下町で生まれる。504石取り。長州ファイブの中で最も家禄が高い家の出身。
 1866年1月、肺の病を理由に帰国。
 維新後は、造幣寮、造幣局にて、日本人の手による造幣に力を尽くす。明治22年(1889年)1月以降、日本の貨幣はすべて日本人の手で製造できるようになった。
 「桜の通り抜け」を提案し、完成させる。(p209)
 
●ナビゲーション(p80)
 5人は、欧州行きの帆船の中で、こき使われた。その原因は、誤解だった。
 ジャーディン・マセソン商会の上海支店の支配人ケズウィックにロンドンに行く目的を聞かれたとき、「海軍(Navy)の研究をしに行く」というべきところを、「ナビゲーション(Navigation=航海術)」と言ってしまった。そのため、ケズウィックは航海中も実際の航海術の訓練ができるよう、5人が分乗した二つの船の船長に申し送りしていた。
 「ナビゲーション」と言ったのは、井上勝か、井上馨か、二つの説がある。
 
●オートアイコン(p105)
 UCL(University College of London:ロンドン大学)のメイン・ビルディング南回廊のコーナーに逗子のような木製の特別キャビネットが置かれており、その中には往時の服を着て椅子に腰かけるジェレミー・ベンサムがいる。
 19世紀当時の最先端の医療・解剖学技術を駆使し、防腐処置が施された、本物の遺体。頭部だけは処置に失敗したので、蝋製レプリカの首が胴体の上に載っている。
 ジェレミー・ベンサム……Jeremy Bentham、UCL建学の精神的父。「最大多数の最大幸福」を唱えた法学者、哲学者。オックスフォードとケンブリッジの両大学を「二つの社会的大迷惑物」「政治的腐敗の宝庫かつ温床」とこき下ろした。
〔 ベンサムは、教育というものは人々に広く享受されるべきものでなければならず、富のある者たちやアングリカンだけのものでもなければ、既存の二つの伝統校だけのものでもないとの強い信念を抱いていた。そしてベンサムは、「自由主義者たちの組織」(an association of liberals)として、一つの大学を創らなければならないと説いた。このベンサムの考えを具現化したのがUCLである。イギリスで初めて人種、宗教、政治的信条を問わずあらゆる人々に門戸を開いた、学問の自由を存立理念とする大学の登場だった。〕(p97)
 
●ウィリアムソン教授(p110)
 ロンドンで長州ファイブの面倒を見たのは、アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授。UCLの化学教授。
 1824年、ロンドン南西部のワンズワースに生まれた。医学を学ぶため、ドイツのハイデルベルク大学に入学。化学に魅せられ、ギーセン大学に移る。1849年、UCLの化学教授に。
 1850年、「ウィリアムソン・エーテル合成」を発表。イギリスを代表する著名な学者であり、ロンドン化学協会会長に2度就任している。
 井上勝と伊藤俊輔、遠藤謹助の3人を自宅に下宿させる。
 井上馨と山尾庸三は、画家だったアレキサンダー・M・クーパーのフラットに住む。
 
●アーネスト・サトウ(p152)
 1843年6月30日、ロンドンの北東部、クラプトンで生まれる。父親は、リガ(ラトビアの首都?)からロンドンに移り、イギリス国籍を取得した19世紀の典型的な新興中産階級の人間。
 Satowは、東部ドイツ近辺にしばしば確認される苗字。
 アーネストは、16歳でUCLに入学。『エルギン卿の中国と日本への使節記』(1857、58、59年発行)を読んで、日本に興味を持つ。
 
●武田久吉(p157)
 アーネスト・サトウと事実上の妻だった兼との間に生まれた次男。1883-1972年。
 東京外国語学校を卒業後、札幌農学校、東北帝国大学予科の講師を務めながら、植物採集のための登山の記録・研究を盛んに発表。1905年には、登山家の小島烏水らと日本山岳会を創立する。
 1910年4月、勉学のためロンドンに行き、王立キュウ植物園で植物学の研究に従事するとともに、10月からインペリアル・カレッジ(UCLと同じロンドン大学を構成するカレッジの一つ)の植物科に入学。修了すると、2年間、同大学の講師として教鞭をとる。その後、バーミンガム大学に赴き、淡水藻の研究に従事する。
 1916年、帰国。東京帝国大学にて理学博士号を受け、京都帝国大学、北海道帝国大学、九州帝国大学などで植物学を教える。
 日本山岳会会長、日本植物学会名誉会員、日本自然保護協会理事などを歴任。
 水力発電所を作ろうという計画に反対し、尾瀬の自然保護に尽力した。
 
●盲唖学校(p175)
 庸三は、ネピア造船所で職工の中に指を使って巧みにコミュニケーションをとり、見事な作業をする聾唖の人たちに出会い、心を揺さぶられた。
 言葉が話せず、聞くことができなくても、手話を使えば意思の疎通ができ、高い技術を持った職工になれるし、生活者として自立できる。庸三は、聾唖の人たちの能力を引き出す適切な教育の重要性を痛切に感じた。
 明治13年、日本で最初の盲唖学校「楽善会訓盲院」を作った。
 
●蛍の光(p205)
 庸三は、日本人の技術者・専門家を育てることが急務と考え、最初の工学校である工学寮を明治6年(1873年)10月に開校した。のちの工部大学、現在の東京大学工学部。
 工部大学の学長を務めたのは、庸三と同じスコットランドのアンダーソンズ・カレッジ出身のヘンリー・ダイアーだった。ここで教鞭をとった外国人教師たちが帰国する際に歌っていたのが、スコットランド民謡の「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」。「蛍の光」である。
 
(2021/2/24)KG
 
〈この本の詳細〉


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