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印刷博物館とわたし
 [ 読書・出版・書店]

印刷博物館とわたし  
樺山紘一/著
出版社名:千倉書房
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-8051-1220-5
税込価格:3,080円
頁数・縦:291p・20cm
 
 著者は、2020年10月に創立20周年を迎えた印刷博物館の第2代館長である。ちなみに初代はグラフィック・デザイナーの粟津潔。
 中世西洋史の専門家である館長が、企画展の図録に執筆した文章によって構成されているのが本書の第2部である。ちなみに第1部は印刷博物館小史、といったところか。
 いずれの文章も、単に展覧会の紹介とPRにとどまらず、西洋史家の視点で書かれた歴史エッセーとして読みどころ十分である。
 
【目次】
第1部 わたしと印刷博物館の二〇年
 長い助走、短い序章
 博物館プロジェクトへ
 新設のミュージアム
 館長のスタート台
 印刷文化学のシステム化を
  ほか
第2部 印刷文化学をめざして
 大印刷時代の到来
 天文学と印刷
 ルネサンス教皇の夢
 スタンホープ、ふたつの革命の体現者
 活字人間「徳川家康」の謎
  ほか
 
【著者】
樺山 紘一 (カバヤマ コウイチ)
 印刷博物館館長、渋沢栄一記念財団理事長、東京大学名誉教授。1941年、東京生まれ。主著に『歴史の歴史』(千倉書房、2014年、毎日出版文化賞受賞)などがある。
 
【抜書】
●印刷文化学(p19)
 〔本来であれば印刷博物館が成立するためには、印刷にかかわる広範な研究体制が先行して成立しているべきである。けれども、わが国にあっては印刷産業にかかわる学術分野は、きわめて狭小である。わずかな国立大学内の研究室が存在するばかりであり、他方では企業内にある研究所は、もっぱら最先端の技術開発が課題となっているから。こうして、博物館は、学術分野からの支援を受けることなく、独力で出発した。〕
 
●COMIC(p21)
 COMIC=産業文化博物館コンソーシアム。2008年3月に発足。
 出入り自由、会員制度なし、会費なし。
 参加館は大小合わせて数十施設。
 
●本木昌造(p38)
 1824-75年。長崎で公式のオランダ語通詞をやっていた。
 1853年秋、安政大地震によってロシアのプチャーチンの旗艦が大破した。その修理・新造のため、伊豆・戸田に逗留していたロシア人のもとに通訳として動員された。数か月に及ぶ交友にあって、本木は日本で初めて洋式造船術を目撃した。
 長崎に帰還した本木は、洋式造船所を創設。明治初年までには長崎造船所として大成。
 アメリカ人宣教師・印刷事業者ガンブルの助言のもと、1869年(明治2年)までに、日本初の本格的日本語活字の製作に成功。
 
●ニコラウス・クザヌス(p56)
 1401年、ドイツのライン川の支流モーゼル川流域の町、クースで生まれる。1464年没。
 ハイデルベルク、ケルンの大学で哲学と神学を学ぶ。
 1440年バーゼル公会議に参加。「和解」や「合一」を合理的に説明するニコラウスの柔軟さは、広く注目された。教皇庁にも重用され、司教職に任用され、また枢機卿にも任命された。
 天体観測にも特別の関心を寄せ、「無限宇宙論」と呼ばれる宇宙観念を唱える。宇宙は際限を持たず、それゆえ中心点も存在しない。地球はほかの天体と同じく、その宇宙の中にあって中心を外れた位置にある。しかも静止しているわけではなく、円形軌道ともいえぬ、固有の規則に従って運動している。
 現行の太陽暦が、天体現象でずれていることを確信(11~12世紀から言われていた)。このため、復活祭をはじめとするキリスト教上の重要な祭儀日の特定が誤りを犯している。暦の修正に関する短期的な暫定措置を、そして長期的には閏日の再設定を提案する。1573年のグレゴリオ暦の先駆け。
 1460年、マインツで開かれたベネディクト修道会の総会に、教皇代理として出席する。マインツで開発されたばかりの活版印刷術とその成果(『四二行聖書』など?)を直接目撃。この技術を「神の業(わざ)」と命名。
 マインツ市内の政争の混乱で、印刷技術者が流出した際、シュヴァンハイムとパンナルツというドイツ人職人をローマに受け入れ、スビアコの地に印刷工房を作る。1965年には、キケロ『弁論家について』を印刷。
 
●印紙法(p100)
〔 1765年、イギリス政府は財政難を回避するために、アメリカ植民地に印紙法を公布した。文書や書物の発行に税金を課すことによって増収をはかるばかりでなく、無用な政府批判を事前に防止することができる、一挙両得の政策であった。しかし、この手段は植民地住民の怒りに火をつけた。みずからは、母国の議会に代表をおくっていないにもかかわらず、一方的な課税をひきうけよという不条理に、我慢がならなくなったのである。印紙法は、こうして植民地に自由を保障せよという政治スローガンを生みおとすことになる。〕
 
●駿河版(p120)
 徳川家康は、「関ヶ原」直前から木活字による出版を励行していた。伏見版。江戸に移ったのち、伏見版はさらに盛況をみた。
 駿府に隠棲したのち、鋳造活字による印刷出版「駿河版」を始めた。『群書治要』などが印刷された。
 キリシタンの印刷術によってか、もしくは朝鮮出兵の結果として朝鮮の印刷技術者によってもたらされた。
 1616年の家康の死後、しだいに金属活字による活版印刷の熱は冷めていった。わずか20年余りの短いピークだった。
 
●法服貴族(p138)
 絶対王政以降、国務を遂行するにあたって、軍事上の執行者である伝統貴族(帯剣貴族)と並んで、王政の実務を管掌する身分、とりわけ司法上の重要実務を志向する高等法院の司法官が高位の場を占めるようになる。下級判事から評定官、法院長にいたる法実務者。相当の処理能力を保有し、またその職務に由来する巨額の定期収入をも保障されて、確実に閉鎖的な身分団体を構成した。法服貴族。
 特定の条件を満たすことで獲得できる受爵身分であるとともに、官職売買が可能な流動性のある身分だった。主に、土地や動産の蓄積によって社会的実力を養った新興ブルジョワがこの身分に参入した。最盛期の18世紀には数千家系に配当されるほどの身分として、フランス国内に普遍化していった。
 法服貴族は、財務官僚も合わせ、多様な職階の上昇ルートが存在した。〔この身分の獲得の容易さ、あるいはいったん受爵したのちの世襲継承の安定など、制度的な硬直化をまねきがちであったため、ありかたをめぐって議論をよんだとはいえ、またこの新身分によって清新なエネルギーが注入されたことも事実である。「帯剣貴族」の対極にあって、軍事と絶縁した法服貴族は、まさしく「文治」の象徴ともいえるが、この新身分のなかから、フランス社会の新規の担い手が選抜されていくことににもなった。〕
 パスカル、デカルト、モンテスキュー、など。
 
●ヨーロッパの漢字活字(p167)
 19世紀前半、ヨーロッパでは中国漢字の活字化が進み、知識人たちが中国事情を紹介するにあたって部分的に利用するようになった。
 イギリスの東インド会社は、帯同するキリスト教ミッション団と協同して、本格的な漢字活字の製作に取りかかった。1815年のリチャード・モリソン『華英・英華辞典』など。モリソンによる最初の中国語聖書は1845年に広東で刊行された。
 ミッション系印刷所である英華書院は、1860年代から積極的な事業を展開した。
 
●百学連環(p181)
 西周(1829-97)、日本における最初の哲学者。石見国津和野藩の藩医の家系に生まれた。森鴎外の縁戚にあたる。
 儒学を学んだ後、24歳にして江戸に勉学の旅に出る。英語の学習を選択し、1857年、蕃書取調所教授手伝並に就任。1862年、幕府派遣留学生としてオランダに。
 ライデン大学で法学から哲学に及ぶ諸学について広範に学習。イギリス、フランス、ドイツなどにおける哲学思考を体得。
 1865年に帰国、開成所教授として洋学を講義。維新後も新政府の中軸にあって高等教育体制の新設に献身する。
 1868年、『万国公法』を翻訳・刊行。
 公務の傍ら、私塾・秀英塾を開設。中心となったのは、「百学連環」という講義。Encyclopediaの和訳。「其の辞義は、童生を周輪の中に入れて教育なすの意なり」。一定の分野の知識を整理したうえで、百般にわたる学科を記述・口授するもの。
 
●100万部(p225)
 大正14年(1925年)、大日本雄弁会講談社が総合雑誌『キング』を創刊。政論や評論より、世事一般に広く目を向け、適度の娯楽性を持たせる。
 昭和2年(1927年)、日本で初めて発行部数が100万部を突破する。
 『キング』と同じ年に発行された『家の光』も昭和10年代に100万部を超える。
 
●婦人参政権(p264)
 第一次世界大戦時、銃後の社会では、女性たちの力が求められた。連合国側、同盟国側両陣営とも女性による愛国運動や救援活動が活発になった。
 終戦後、こうした事態は婦人参政権運動にとって強い追い風となった。ドイツでは1919年のワイマール憲法において、イギリスや米国でも数年のうちに婦人参政権が実現する。
 
【ツッコミ処】
・350年(p33)
 〔グーテンベルクが開発した最初の手動印刷機は、その時点から三五〇年も経過した一九世紀末にあっても、寸分たがわぬ仕様で再生産・使用されていた。〕
  ↓
 グーテンベルクの発明は1445年頃とされいるから、350年後とは1800年。つまり、18世紀末となるはずだが……。
 おお、p169には〔「グーテンベルク・パラダイム」とも称される体系は、根本において不変である。むろん、印刷物にたいする需要の増大によって、刊行物の数量の増加はあったにせよ、一八世紀末にいたるまで、本質的には同一の作業システムが維持されてきた。〕とある。
 やはり18世紀末が正しいのだろう。
 
(2021/3/10)KG
 
〈この本の詳細〉


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