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出版と権力 講談社と野間家の一一〇年
 [ 読書・出版・書店]

出版と権力 講談社と野間家の一一〇年  
魚住昭/著
出版社名:講談社
出版年月:2021年2月
ISBNコード:978-4-06-512938-8
税込価格:3,850円
頁数・縦:669p・20cm
 
 講談社と野間家の歴史かと思っていたが、最初のほうは出版業界全体の話が多い。岩波茂雄、大橋佐平などにけっこう紙幅を割いている。いわば出版史と近代史であり、明治大正期の世情も描かれている。
 しかしながら、講談社という一本の筋を通してみる明治・大正全体の出版史は、個々のエピソードを中心に構成された歴史書より、すんなりと頭に入ってくる。
  
【目次】
本郷界隈に交錯する夢
問題児、世にはばかる
『雄弁』創刊前夜
大逆事件から『講談倶楽部』へ
団子坂の奇跡
少年たちの王国
雑誌王の蹉跌
紙の戦争
戦時利得と戦争責任と
総合出版社への道
ふたたび歴史の海へ
 
【著者】
魚住 昭 (ウオズミ アキラ)
 1951年熊本県生まれ。一橋大学法学部卒業後、共同通信社入社。司法記者として、主に東京地検特捜部の取材にあたる。在職中、大本営参謀・瀬島龍三を描いた『沈黙のファイル』(共同通信社社会部編、共同通信社、のち新潮文庫)を著す。1996年退職後、フリージャーナリストとして活躍。2004年、『野中広務 差別と権力』(講談社)により講談社ノンフィクション賞受賞。「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」選考委員。
 
【抜書】
●岩波茂雄(p14)
 明治14年(1881年)、諏訪湖のほとりの、わりと裕福な農家の長男に生まれた。
 15歳で父親をなくし、地元の中学を卒業したあと東京に遊学し、20歳で一校に入学した。
 知り合いだった藤村操の自殺に衝撃を受けたりして、2回落第、一高除籍。東京帝国大学文科大学の哲学科の選科生となる。
 安倍能成『岩波茂雄伝』岩波書店。
 
●大橋佐平(p59)
 博文館の創業者。越後長岡出身。明治19年(1886年)11月、52歳で上京。
 明治20年6月、『日本大家論集』を創刊。1冊10銭、破格の安さだった。当時の新聞・学術誌に掲載された諸大家の論説や記事を無断掲載。長男の新太郎のアドバイスによる。著作権の確立していない時代だからこそできたダイジェスト版雑誌。合わせて1万あまり売れた。
 『日本之教学』(仏教雑誌)、『日本之女学』(婦人教育雑誌)、『日本之商人』、『日本之法律』、『日本之少年』などのダイジェスト版を矢継ぎ早に創刊、いずれもヒットさせた。
 全国各地の有力書店(売りさばき店:大手書店と地方取次を兼ねたような業者)と特約店契約を結び、雑誌を中心とした全国販売流通網をまたたく間に作り上げた。博文館の構築した雑誌の出版販売流通システムは、書籍と雑誌の地位を逆転させた。書店にとって、母屋の書籍と庇の雑誌の比重が逆になっていった。
 坪谷善四郎『大橋左平翁伝』栗田出版会。
 
●東京堂(p63)
 明治23年、大橋佐平の次男省吾の義父高橋新一郎が上京、博文館の傍系会社の東京堂を創立。
 翌年、新一郎が越後に帰るのと入れ替わりに省吾が経営を引き継ぎ、雑誌・書籍の販売に加えて出版取次業を始めた。やがて元取次と呼ばれるようになり、日本の出版界の動向を左右する存在に成長する。
 
●白表紙(p201)
 『講談倶楽部』大正2年9月号は、「新講談」に衣替えした。初版が売り切れ、多色刷りの表紙は殺到する注文に応じきれず、赤と黒の二色刷りで重版した。5版に至ってはそれも間に合わず、白表紙に題号だけを印刷して出した。
 大正初期は浪花節の全盛時代。明治末、大阪で活躍していた浪曲師の桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が東京に進出、歌舞伎座を借り切って独演会を開き、大反響を呼ぶ。講談・落語は落ち目になって講談師たちは浪花節を目の敵にした。
 大正2年6月、『講談倶楽部』は臨時増刊『浪花節十八番』を出し、増刊記念に浪花節大会を企画した。そのため、講談師との関係がこじれ、講談落語の速記者今村次郎から次のような提案が会った。
 ① 今後、『講談倶楽部』に浪花節を掲載しないようにしてもらいたい。
 ② 講談落語供給の独占権を得たい。
 今村がライバル誌の『講談世界』に持つ特権と同じものを『講談倶楽部』に要求してきた。野間清治の答えは「ノー」。
 9月発行の『講談世界』は、有名講談師48名の連名による「緊急弘告」を掲載。「『講談倶楽部』は我が講談師の意思に反するものなるが故に我々は爾今該雑誌の為に講演せざることを誓約す」。
 『講談倶楽部』は、編集方針を大刷新、「新講談」を掲載することにする。
 新講談……「文学に堪能な小説家や伝記作家」が書いた、「講談の様式と題材を具合よく採り入れて、講談と同様な興味あるおもしろい物語」(野間清治『私の半生』)。
 まだ名を成していない文士や新聞記者で、筆も早く、器用にまとめる能力のある者たちに執筆を依頼。都新聞(東京新聞の前身)の編集室がこれに応じ、中里介山、長谷川伸、伊藤みはる、遅塚麗水(ちづかれいすい)、平山芦江(ひらやまろこう)などが執筆した。
〔 彼らの「新講談」は、寄席で“語られる言葉”を速記で写し取ったものではなく、はじめから書き言葉で表現された。そのため従来の講談につきまとう冗漫さが消え、心理描写や情景描写が細やかになって読者に清新なインパクトを与えた。〕
 
●定価販売、返品自由制の確立(p208)
 大野孫平……大橋佐平の妻・松子の妹ヨセの子。明治44年、42歳で逝去した従兄の大橋省吾から東京堂の経営を引き継ぐ。
 大正3年3月、大野の説得により東京雑誌組合(日本雑誌協会の前身)が誕生。雑誌発行所と取次業者の計81社が加盟。最大の眼目は、小売店に雑誌の定価販売を守らせること。違反した小売店は取引を停止される。
 同年4月、大野の働きかけで取次と小売店による東京雑誌販売組合が結成される。
 以後、雑誌の定価販売は段階的に定着。完全実施は大正8年から。
 増田義一(ぎいち)……元読売新聞経済主任記者。実業之日本社を創立。
 明治42年新年号から、実業之日本社は『婦人世界』の返品自由方式を採用。これが成功し、『日本少年』『少女の友』など、全雑誌の返品自由制の採用にいたる。博文館の各種雑誌を凌駕する「実業之日本社時代」の到来。
〔 大野が主導した定価販売制と、増田がはじめた返品自由制は、大正期日本に雑誌時代をもたらした。乱売競争が収まり、売れ残りの返品が可能になったことにより、地方書店も雑誌販売に力を入れだした。雑誌販売店(当時は書籍だけを売る店と、書籍・雑誌の両方を売る店、書籍を扱わない雑誌販売店の三種があった)も全国的に増加し、販売網の拡大は売れ行き増進に拍車をかけた。〕
 
●滝田樗陰(p236)
 30円の本給のほかに、『中央公論』1部につき2銭の歩合給をもらっていた。
 大正8年、『中央公論』の発行部数は12万部を記録。滝田の月収は2千円を超えた。当時の市電の車掌の月給は40円。
 
●関東大震災(p256)
 東京の新聞17紙のうち、関東大震災で社屋焼失を免れたのは、東京日日(大阪毎日系)、報知、都の3社のみ。3社は、比較的早く平常通りの新聞発行をすることができた。
 東京朝日も、大阪朝日の応援でいち早く復旧に取りかかった。
 震災を境に、東京新聞界の勢力地図は一変した。震災以前は、東京朝日、東京日日、報知、時事、国民が五大紙と呼ばれていた。時事、国民がその地位から脱落。やまと、萬朝報、中央などの伝統ある新聞も衰退の一途をたどり、やがて姿を消した。
 震災後は、東京系新聞社の復興は大きく遅れ、資本力のある朝日、毎日の関西系二大紙が勢力を伸ばし、寡占体制を築いていく。
 読売は、1カ月前に完成した新社屋を焼失し、経営に行き詰って大正12年に正力松太郎に身売りする。
 
●『大正大震災大火災』(p257)
 講談社は、国民雑誌『キング』の創刊を1年先延ばしし、『大正大震災大火災』の発行を計画。横山大観が表紙絵を描き、口絵写真80頁、本文300頁、発行予定50万部。9月14日に原稿依頼を済ませ、19日までに原稿ができ、24日に校了。
 写真版用アート紙を実業之日本社に譲ってもらい、東京堂に働きかけて、雑誌販売ルートで初版20万部を配本した。
 当時、書籍は木箱に詰めて縄をかけ、荷札を付け、目方をはかって1個ごとに料金を計算し、預かりの伝票を付けて汽車で送る規則だった。雑誌は、新聞紙に包むだけ。鉄道省の総務課長鶴見祐輔(かつての緑会雄弁部の花形で、『雄弁』の創刊メンバーの一人)と交渉し、「荷造りは雑誌並み、料金は書籍」の許可を取り付ける。
 注文は、講談社の少年社員たちが都内全部の書店を回り、社員らが全国を回って集めた。
 広告宣伝は、新聞広告、ポスター作製、60万枚のDMはがき、など。
 こうして、書籍を雑誌ルートに乗せて流通させる道を開いた。雑誌販売店でも書籍が扱えるようになった。
 最終的に40万部の大ヒットとなる。(p641)
 
●雑誌時代(p261)
 「大正時代は概して雑誌時代で、雑誌小売店十に対し書籍小売店三の割合だった。その三の十分の三程度が書棚と平台を備えた書籍と雑誌の小売店」だった(松本昇平『業務日誌余白――わが出版販売の五十年』新文化通信社)。
 
●修養主義(p272)
 大正デモクラシーの後、時代の空気を最も敏感に反映した思想はマルクス主義と修養主義。
 修養主義……修身養心。身を修め、心を養うこと。克己や勤勉による人格の完成を道徳の中核とする精神主義的人間形成。明治30年代に台頭し、40年代に大きな潮流となった。
 明治大正は新渡戸稲造、昭和では野間清治(講談社?)の修養本がよく売れた。
 
●内覧(p409)
 雑誌などの発行前、原稿や校閲刷りの段階で行われる検閲。昭和12年8月(盧溝橋事件の翌月)から、発禁によるダメージを恐れる出版業者の要請で始まった。
 
●鈴木庫三(p510)
 萱原宏一『私の大衆文壇史』より。
 昭和21年12月8日、熊本から鈴木庫三(敗戦時は鹿児島の輜重兵連隊の連隊長で大佐だった)が訪ねてきた。世田谷の私宅を、講談社の高木前専務に買ってもらう斡旋の依頼だった。帰り際、次のように言った。
 「僕に何か頼みたい原稿があったら、いくらでも書くよ。だいたい民主主義だなんて言ったって、僕はそのほうの専門家だからねえ」。
 
●野間省一の思想(p616)
〔 世界の国々、各民族は、それぞれ固有の文化を有している。私は、各国、各民族が互いに他国の文化に接し、それによって自国の文化の向上をはかれば、人類の生活は更に豊かになるはずであると常に考えています。また、世界の国々がそれぞれの文化と社会を互いに理解し合えば、平和的に共存し、戦争を防ぐことができるという信念を持っています。他国、他民族に対する理解不足や誤解が数々の悲劇を生んできたことは歴史が私たちに示している。従って、あらゆる国が文化交流を行うべきであると思います。それは一方交通ではなく、相互交流でなくてはならないし、相互の理解なくして真の理解はあり得ないともいえます。
 そこで、真の理解を得るための、最も有効で、しかも現実的なものは何か。それは図書であると私は確信しているんです。一つの出版物は、その時代、その民族の文化の水準を示すバロメータであるが、これは国境を超え、古今を通じての人類の共有財産ともなるものです。地味であるかも知れませんが、出版文化の交流は各国の人々の相互理解、人間的共感を培い育てていく萌芽となること確信しています。〕
 「マスコミ文化」昭和51年(1976年)1月号のインタビュー。
 
●『昭和萬葉集』(p620)
 講談社学芸一部の副部長菅野匡夫が企画。
 小学館の役職者だった篠弘(早大国文科卒。『近代短歌史』という著書あり)に相談し、四人委員会(篠、上田三四二、岡井隆、島田修二)を結成し、ブレーンとする。
 一般からの公募も含め、一千万首の歌が集まった。
 昭和54年2月に第一回配本、全20巻。
 
●デジタル関連商品(p637)
 2011年に就任した7代目社長野間省伸は、国際化とデジタル化に舵を切った。
 2019年の売上高約1,300億円。製品売上と事業売り上げが半々。事業収入のほとんどはコミックを中心としたデジタル関連事業。
 野間省伸……1969年生まれ。野間惟道(第5代社長)、佐和子(第6代社長)の長男。
 
(2021/4/20)NM
 
〈この本の詳細〉


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