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戦国の忍び
 [歴史・地理・民俗]

戦国の忍び (角川新書)
 
平山優/〔著〕
出版社名:KADOKAWA(角川新書 K-333)
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-04-082359-1
税込価格:990円
頁数・縦:350p・18cm
 
 忍者は実際に存在したのか? そんな疑問に答えるため、人びとのイメージとはちょっと違う忍びの実情を戦国時代に求め、史料を丹念に渉猟して実態を描く。
 忍者研究は、今後、盛んになるのかもしれない。
 
【目次】
第1章 江戸時代における忍びの認識
 忍びとはどのような人々であったか―『武家名目抄』
 忍びのマニュアルと心構え―『軍法侍用集』
 武田の軍記物に描かれた忍び―『甲陽軍艦』
 忍びの別称
第2章 戦国の忍びの登場
 伊賀と甲賀
 武田の透波、北条の風魔、伊達の黒脛巾
 悪党と忍び
第3章 草、野臥、かまり
 草、草調儀
 伏兵、伏勢、伏調儀
 野臥、かまり
第4章 城の乗っ取り、放火、決死の諜報活動
 城乗っ取りと忍び
 忍びによる潜入と放火
 目付の活動
第5章 戦国大名と忍び
 中世の夜と忍びの世界
 忍びの運命
 足軽と忍び
おわりに―戦国の忍びとはどのような人々だったのか
 
【著者】
平山 優 (ヒラヤマ ユウ)
 1964年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。専攻は日本中世史。山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹を経て、山梨県立中央高等学校教諭。2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。
 
【抜書】
●すっぱ、らっぱ(p25)
 透波(すっぱ)……人を欺き、素行不良で、言語に一貫性や整合性がない者(嘘つき〈すっぱ〉)に由来する。江戸時代には、「すっぱ業(わざ)」とは虚偽ばかりであることをいい、「すっぱ抜き」とはむやみに刀剣を抜くことを指した。素破、水破、出抜、とも。
 乱波(らっぱ)……騒がしく動き回ることで、敵を翻弄するところに由来。
 『武家名目抄』による。
 関東ではおおかた「乱波」と呼ばれ、甲斐国以西の国々では「透波」と呼ぶ傾向がみられる。
 
●合形(p33)
 合形(あいぎょう)。味方ならば全員知っておかなければならない、掛け声とそれを合図に行われるべき身振りや動作。集合したときなどに用いられた、合詞のようなもの。
 
●忍者集団(p72)
 武田信玄「三ツ者」「歩き巫女(みこ)」。
 伊達政宗「黒脛巾(くろはばき)」。
 北条氏康「風魔一党」。
 上杉謙信「軒猿(のきざる)」。同時代史料や、上杉関連の軍記物には登場しない。『北条記』(『群書類従』巻三「高野台合戦之事」)に、北条氏照配下の忍びの呼称として登場する。
 
●骨皮道賢(p113)
 骨皮左衛門道源(道賢)(ほねかわさえもんどうげん)。
 応仁・文明の乱で活躍。足軽大将として、悪党・盗賊ばかり300人余りを自ら集め、伏見稲荷神社尾裏山に布陣し、東軍細川勝元に雇われ、下京焼き討ちや、西軍の後方攪乱などを行った。
 前歴は、室町幕府の侍所の目付。侍所所司代多賀高忠に見出された。多賀は、京都内外の浮浪人を組織化しており、その中核を担った一人が骨皮。
 骨皮自身、悪党・盗賊の出身だった。河原者か野伏あがりと推定する研究者もいる。
 〔悪党・盗賊から、目付(忍び)を経て、足軽大将へと変異する骨皮道賢は、アウトローから、戦国大名に雇用され、忍びとなり、やがてアウトローを束ねる人脈と組織力を買われ、忍びの足軽大将へと成長する、戦国の忍びの先駆といえる。〕
 
●一揆(p195)
 「一揆を催す」とは、村々に住む15歳から60(~70)歳までの男子を、戦場に動員すること。
 戦国大名が危機的状況に立たされた場合に限定されていた?
 
●天正壬午の乱(p266)
 天正10年(1582年)6月、本能寺の変後、織田大名が相次いで退去もしくは敗死した旧武田領国の甲斐・信濃・上野をめぐり、徳川家康、北条氏政、上杉景勝が激しい争奪戦を繰り広げた。
 
●半手(p295)
 敵味方にとって両属の村。
 半手の村は、対立する勢力の境目に位置する。双方に年貢・公事などを半分ずつ納入することで、どちらにも加担しないことを認められていた。
 
●夜の支配(p323)
〔 戦国大名にとって、悪党を忍びとして雇用し、足軽に編成したことで、外に向けての軍事力強化に、内には悪党の減少と、彼らを使った犯罪摘発とを、同時に可能にする意味があったといえるだろう。
 そして、戦国大名は、悪党を支配下に編成することで、「昼」の支配から、「夜」の支配に大きく手を伸ばした権力ということができるかも知れない。それまでの権力は、「夜」を支配するアウトローたちを、武士が追補するという形態を維持してきた。それゆえに、「夜」の世界に精通する彼らを、容易に捕捉できず、治安維持の成果もなかなか挙がらなかった。〕
 
●向崎甚内(p330)
 向崎甚内(こうざきじんない)。
 慶長のころ、諸国には盗人が横行し、とりわけ関東に多かった。江戸幕府では、あちこちで捕縛し、斬首、磔刑、火焙りなどに処して見せしめにしていたが、一向に減らなかった。
 下総国向崎(神崎〈こうざき〉、千葉県神崎町)に甚内という大盗人がいたが、訴人になった。関東を根城に、諸国で悪行をする盗賊は、その昔、名を馳せた風魔の一類など、透波の子孫たちで、その数は千人あるいは二千人にも及ぶと告げ知らせた。甚内は、自ら案内人を買って出て、盗人狩りの大将となり、奉行たちを先導して各地の村々や、野原、果ては山奥に住む盗賊たちを、次々に捕縛していった。かくして、風魔の残党らは、この世から消え去った。
 『慶長見聞集(けんもんしゅう)』「関八州盗人狩の事」による。
 風魔(風間)は、北条氏滅亡後、行方が分からず、徳川氏にも仕官していない。風魔をはじめとする多くの透波たちは、戦国の世が終わり、仕事がなくなると再び悪党の道へと回帰してしまった?
 甚内とその手下はその後、増長したために、慶長18年に粛清された。「大盗人諸人のみせしめとて、向崎をとらへ、首につなさし、馬にのせはたをさゝせ、江戸町を引めくり、浅草原にはりつけにかけ給ふ」。
 台東区浅草橋三丁目に彼を祀る甚内神社と、甚内橋址がある。
 
(2021/10/31)KG
 
〈この本の詳細〉


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