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オスマンvs.ヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか
 [歴史・地理・民俗]

オスマンvs.ヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか (講談社学術文庫)
 
新井政美/〔著〕
出版社名:講談社(講談社学術文庫 2664)
出版年月:2021年3月
ISBNコード:978-4-06-522845-6
税込価格:1,155円
頁数・縦:261p・15cm
 
 オスマン・トルコ(オスマン帝国)の歴史を、ヨーロッパとの関係を軸に通観する。
 「この本があつかう時代は、見事にすべて、僕の『専門外』」と語る著者であるが(p.245、あとがき)、それゆえに微細に陥ることなく、俯瞰的にトルコ史を眺めることができ、参考になった。
 『オスマンvs.ヨーロッパ』(講談社・選書メチエ、2002年)の文庫化。
 
【目次】
プロローグ―「トルコ行進曲」の起源
第1章 オスマン帝国の起源
 ユーラシア草原を西へ―トルコ系遊牧民の西漸
 トルコ族のイスラム化とアナトリアのトルコ化
  ほか
第2章 ヨーロッパが震えた日々―オスマン帝国の発展
 オスマン朝の興隆―ムラト一世とバヤズィト一世の時代
 世界帝国への道―メフメット二世とコンスタンティノープル征服
  ほか
第3章 近代ヨーロッパの形成とオスマン帝国
 普遍帝国オスマン―「壮麗者」スレイマン一世とウィーン包囲
 オスマン対ハプスブルク
  ほか
第4章 逆転―ヨーロッパの拡張とオスマン帝国
 最初の暗雲―スレイマン一世の死
 変化の兆し―一六世紀後半のヨーロッパ
  ほか
エピローグ―「トルコ軍楽」の変容
 
【著者】
新井 政美 (アライ マサミ)
 1953年生まれ。東京大学大学院東洋史専攻博士課程単位取得退学。東京外国語大学名誉教授。トルコ歴史協会名誉会員。専攻はオスマン帝国史、トルコ近代史。
 
【抜書】
●突厥、ウイグル(p32)
 突厥は、744年、同じトルコ系のウイグルに滅ばされる。
 そのウイグル国家も840年に崩壊。その残党が西に走って、やがてトルコ族のイスラム受容となる。
 
●トルコ族のイスラム化(p49)
 トルコ族は、元来、シャーマニズムの信奉者だった。
 かつてトルコ系遊牧国家の軍事力と提携して東西貿易に従事していたソグド人は、いち早くイスラム教を受容し、交易活動を進め、シル川以北のトルコ族の世界にも入り込んできた。
 伝説によれば、950年代の中ごろ、カラハン朝の君主サトゥク・ボグラ・ハーンが、イスラム教に改宗し、イスラム教徒が支配するトルコ系の国家が誕生した。
 イスラム側の資料には、次の君主の時代の960年に、テントの数およそ20万張の遊牧トルコがイスラムに改宗したと記録されている。
 
●テュルクメン(p52)
 10世紀末、オグズ族のトルコ系遊牧集団が、族長セルジュクに率いられてアラル海北方からシル川河口地方へ移住した。
 イスラムに改宗した彼らは、カラハン朝、ガズナ朝の両トルコ王朝勢力の間隙を突くようにして勢力を伸ばしていった。
 彼らのように、部族組織を維持したまま改宗してイスラム世界に進出したオグズの集団は、トゥルクマーンあるいはテュルクメンと呼ばれる。
 
●ペルシャ語(p55)
 セルジュク朝は、1040年にはガズナ朝の軍隊を撃破し、ホラーサーンにおける支配権を確実なものにした。
  「公用語」としてペルシャ語を用い、ペルシャ語で作品を著す多くの文人を保護して、ペルシャ文化の発展にも大きく寄与することになった。
 1070年にはエルサレムを占領。
 1071年には、大軍を率いて遠征してきたビザンツ皇帝を東部アナトリアのマンズィケルト(マラーズギルト)で撃破、アナトリアのイスラム化、トルコ化を大きく進展させた。
 
●ガーズィー(p71)
 11世紀末からアナトリアを荒らしまわったテュルクメン兵士は「ガーズィー」と呼ばれていた。イスラムの信仰のために戦う兵士のこと。
 
●ウルバン(p106)
 ウルバンというハンガリー人の技術者がコンスタンティノープルを訪れ、大砲製造技術を売り込んでいた。皇帝は、ウルバンの申し出を受け入れなかった。
 ウルバンは、エディルネへ向かい、スルタン(メフメット2世)に同様の申し出をした。スルタンは彼に十分すぎるほどの援助を与えて大砲を製造させた。数か月後にオスマン軍は、「バビロンの城壁でも爆破できる」巨砲を手に入れた。
 1453年5月29日、コンスタンティノープルは陥落した。
 
●オランダ共和国の成立(p165)
 スペイン(フェリペ2世)とオスマン帝国とのレパント海戦(1571年)は、スペインがネーデルランド鎮圧に向けるべき資金と人員を大幅に削減させることになった。
 オスマン帝国の存在が、主権国家オランダ共和国の成立に大きな役割を果たした。
 
●自足(p232)
 〔オスマン帝国はイスラムの担い手として発展してきた。そしてそこでイスラムは、人々を縛っていなかった。さらにオスマン帝国の経済政策は、利潤の追求や国富の集積をめざしてはいなかった。それはスルタンの臣民に、物資が安定して供給されることを目的としていた。それを妨げる形で不当な利益を上げるものを、スルタンの政府は厳しく取り締まろうとした。つまりあえて言えば、この社会は自足を知る社会だったのである。少なくともこの社会を律していた倫理は、資本主義の精神を生み出したりするものではなかった。こうした状況を「停滞」と評価する人々に、この国が押されてゆくことはほとんど自明だったように思われるのである。〕
 
(2022/2/2)NM
 
〈この本の詳細〉


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