ハレム 女官と宦官たちの世界
[歴史・地理・民俗]
小笠原弘幸/著
出版社名:新潮社(新潮選書)
出版年月:2022年3月
ISBNコード:978-4-10-603877-8
税込価格:1,815円
頁数・縦:296p・19cm
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オスマン帝国のハレムについて、その歴史、施設、組織、構成員について詳述する。
つまるところ、オスマン王家のハレムとは、王位継承を支えるための官僚組織だった。
【目次】
第1章 ハレム前史―古代よりオスマン帝国初期まで
第2章 ハレムという空間の生成―トプカプ宮殿の四〇〇年
第3章 女官たち
第4章 王族たち
第5章 宦官たち
第6章 内廷の住人たち
第7章 ハレムと文化
第8章 変わりゆくハレム
終章 ハレムの歴史的意義
【著者】
小笠原 弘幸 (オガサワラ ヒロユキ)
1974年、北海道生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究家博士課程単位取得退学。博士(文学)。2013年から九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。専門はオスマン帝国史およびトルコ共和国史。
【抜書】
●アッバース朝型(p45)
ムスリム諸王朝における王族女性のあり方には、「アッバース朝型」と「トルコ・モンゴル型」の2類型がある。
アッバース朝……王族女性を空間的に隔離する。ハレムには奴隷出身の寵姫たちがおり、彼女たちの息子は王位継承者として、正妻の子と変わらぬ扱いを受けた。
トルコ・モンゴル系諸王朝……王族女性は、相対的に隔離される度合いが少なく、儀礼や祝宴などでは、積極的に姿を現した。王位継承においては、王子の母親の血筋が重要な要素として考慮された。
オスマン帝国のハレムは、「アッバース朝型」を採用し、より精緻化させた。
●ヒュッレム(p70)
スレイマン1世(在位1520-66)の寵姫。ウクライナ生まれ。クリミア・ハン国の襲撃により奴隷となり、スレイマンが即位して間もなく彼のハレムに入った。
スレイマンはヒュッレムのためにハレムを増築し(六角形の瀟洒な園庭が建てられた)、常に手元に置いた。
5男1女をもうける。オスマン王家の慣例では、一度御子を産んだ寵姫は二人目を宿すことを許されていなかった。
1558年、旧宮殿にて死去。
●羊肉(p120)
トルコの肉料理は、羊肉が主流。
1703年の記録によると、トプカプ宮殿の特別厨房では、1日につき200㎏以上の羊肉が消費された。鶏は93羽、スルタン個人のために鳩6羽。
牛肉は直接調理されることはなく、トルコ生ハム(パストゥルマ)に加工してから食された。魚介類は史料になく、日常的な食材ではなかった。
●コーヒー(p122)
女官たちは、食後にコーヒーを飲むのを慣例としていた。
ただ、年少者や高齢の女官は飲まなかった。
●ハトゥン、ハセキ(p132)
オスマン帝国初期、スルタンの妻たちは「ハトゥン」と呼ばれていた。トルコ系やモンゴル系の王族女性に用いられた尊称。
16~17世紀には、スルタンが寵愛する女性に対して「ハセキ」という尊称が付された。アラビア語とペルシア語の表現が混じった言葉で、君主のそばに仕える者を意味する。ヒュッレムも「ハセキ」と呼ばれていた。
18世紀に入るころから、スルタンの寵姫たちは組織化され、夫人(カドゥン)と愛妾(イクバル)という二つのグループに分けられ、整然たる序列を構成するようになった。
●オダリスク(p136)
夫人は、オダルク(部屋住み)と呼ばれることもあった。特別の部屋(オダ)を与えられたため。
オダルクは、17世紀末から18世紀初頭にかけて一部の夫人に対して用いられているのが史料中に確認できるのみ。一般的な呼称ではなかった。
しかし、西洋では「オダルク」が転訛した「オダリスク」という言葉が、ハレムの女性について頻繁に用いられている。
●ムスタファ1世(p151)
1603年、メフメト3世が死去し、アフメト1世が即位した。13歳で、まだ子どもがいなかった。
王族男子は他に弟のムスタファ(のちの1世)だけであった。王位断絶の危険性があったので、兄弟殺しの慣行に反して処刑されず、ハレムの奥深くに幽閉されることになった。鳥籠(カフェス)制度の嚆矢。
以後、鳥籠制度が慣例として踏襲されることになった。それまでの、成人した王子は宮廷の外に出て太守に任命される、そして新スルタンの即位時にその兄弟が殺される、という慣習は廃された。
スルタンが死去した際には、王位はハレムに軟禁されている王族男子のうち、最も年長の者が即位することになる。オスマン王家の継承は、父子相続から年長者相続へと変化。
●スルタン=王女(p157)
オスマン王家の王女は、「スルタン」という尊称で呼ばれる。
史料中で「スルタン」という語が出てきたときには、王女あるいは王族女性を指すことが多い。
君主は、帝王を意味する「パーディシャー」と呼ばれるのがふつうであった。日本や欧米の研究では、オスマン帝国の君主をさして「スルタン」と呼ぶことが慣例化している。
●啞者(p211)
オスマン宮廷では、啞者が仕えていた。宮廷内の静謐を守るため。手話で意思疎通を図っていた。
16世紀後半には30名、17世紀後半には、少なくとも21名の小人(ジュジェ)と65名の啞者が仕えていた。基本的に内廷の遠征室に属した。また、内廷の各部屋や、ハレムにも数人ずつ配属されている。
スルタンの私室には、啞者たちのうち特に優れた者が控え、そのうち一人が啞者頭に任じられた。ただし、啞者頭がすべての啞者を統括していたわけではない。
●宗教寄進(p234)
出資者は、モスクや泉などの公共性の高い施設(またはクルアーンの読誦や貧者への施しなど)と、店舗などの利益を生み出す物件を用意する。
後者の収益によって前者を運営する。物件の管理者の給金も収益の一部から賄われた。
出資者の利点は以下のとおり。
(1)公共のために自らの財産を差し出すことによる功徳。
(2)寄進物件はイスラム法の庇護下に置かれるため、財産を権力者の恣意から守ることができる。
(3)管理者はしばしば寄進者の近親者が務めたため、宗教寄進を通じて継続的に一族が利益を享受できた。
●1833年(p259)
1833年、他国に先駆けてイギリスが奴隷制度を撤廃した。
イギリスは、「文明化の使命」と旗印に、オスマン帝国に対しても奴隷交易をやめるよう圧力をかけた。
●チェルケス人(p261)
17世紀から19世紀後半まで、ハレムで働く女官(女奴隷)の主要な供給源はチェルケス人だった。コーカサス地方に住むムスリム。
(2022/11/9)NM
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