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大久保利通 「知」を結ぶ指導者
 [歴史・地理・民俗]

大久保利通: 「知」を結ぶ指導者 (新潮選書)
 
瀧井一博/著
出版社名:新潮社(新潮選書)
出版年月:2022年7月
ISBNコード:978-4-10-603885-3
税込価格:2,420円
頁数・縦:521, 5p・20cm
 
 従来の専制主義政治家とは異なる、「羊飼いとしての指導者」大久保利通を論証する。大久保は「理」を追求した政治家であり、「知」を結集して新たな国家を建設しようしたのである。
 志半ばで斃れたが、「内治を整え、殖産を行う」べき維新第二期(明治11~20年)の礎を築くことはできたのではないだろうか。
 
【目次】
第1章 理の人
 志士への道
 弛緩する朝幕体制
 好敵手・慶喜
 連携する薩長―「共和」の国へ
 倒幕、そして王政復古
第2章 建てる人
 東京遷都―一君万民の国造りへ
 廃藩置県
 政体調査としての欧米回覧の旅
第3章 断つ人
 征韓論政変
 立憲政体の構想と内務省の設立
 佐賀の乱
 台湾出兵と北京談判
第4章 結ぶ人
 立憲政体の漸次樹立
 衆智としての殖産興業―東北への勧業の旅
 西南戦争
 勧業の夢―第一回内国勧業博覧会
終章
 大久保の思想
 大久保が蒔いた種
 二つの政治指導
 見果てぬ夢
 
【著者】
瀧井 一博 (タキイ カズヒロ)
 1967年福岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科博士後期課程を単位取得のうえ退学。博士(法学)。神戸商科大学商経学部助教授、兵庫県立大学経営学部教授などを経て、国際日本文化研究センター教授。専門は国制史、比較法史。角川財団学芸賞、大佛次郎論壇賞(ともに2004)、サントリー学芸賞(2010)、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト賞(2015)受賞。
 
【抜書】
●羊飼い(p6)
 「羊飼いは群れの後ろにいて、賢い羊を先頭に行かせる。あとの羊たちはそれについていくが、全体の動きに目を配っているのは、後ろにいる羊飼いなのだ。」ネルソン・マンデラ(東江一紀訳)『自由への長い道』上巻(日本放送出版協会、1996年、p42)。
 大久保の指導力は、「羊飼いとしての指導者」。
 
●知の政治家(p9)
〔 大久保は決して、強権的なリーダーシップでもって果断に国家経営を行おうとしたのではなく、むしろ人々を結び合わせ、その連結のなかから国民国家というものを立ち上げようとした。そのようにして人々を結び合わせようとするための媒体が、「知識」であった。知識が交流しあう公明な政治を大久保は希求し、そのために権力を行使しようとした。〕
 
●加治屋町(p24)
 文政3年(1830年)8月10日、大久保は現在の鹿児島市高麗町で生まれた(生地)。生誕の碑が建っている。
 生誕の碑より堂々とした「大久保利通君誕生之地」と記された碑は、400m離れた加治屋町に。幼少時に一家で同町に移り住んだ。
 加治屋町では、西郷隆盛、税所篤、吉井友実、伊地知正治、大山巌、東郷平八郎、山本権兵衛なども生まれ育った。
 
●非義の勅命は勅命にあらず(p98)
 慶応元年(1865年)9月20日深夜から翌朝にかけて御所内で行われた長州再征をめぐる御前会議で、長州征伐の勅許が再び下された。
 朝議に列席した近衛忠房から会議の模様を聞いた大久保は、朝彦親王の元へ駆けつけ、長州再征勅許の非を説いた。
 「非義の勅命は勅命にあらず」
〔 至高の筋を得て、天下万人が納得してこそ勅命たり得る。そうでない勅命は義を欠いた勅命であって、勅命とは言えない。そう大久保は啖呵を切った。〕
 23日付の西郷隆盛宛の書簡にある。
 
●府藩県三治同規(p184)
 明治元年閏4月、府県を創置して藩とともに三治の制度とした。
 旧幕府領を府・県と改め、元将軍家を含む旧大名の領分が藩とされた。
 藩が制度の名称として公認されたのは、この時が初めて。
 
●君民共治(p286)
 明治6年11月、征韓論政変後に、政府の制度取調局の伊藤博文に「立憲政体に関する意見書」を提出した。
 「わが国の政体は、旧来からの装いを踏襲し、君主専制の体制を存している。この体裁は、今日適用すべきものである。」
 「民主制はもとより適用すべきでない。君主制もまた固守すべきでない。わが国の土地風俗人情時勢に従ってわが国の政体を樹立すること。定律国法〔憲法〕をもって、その目的を定めるべきである。」
 「〔君民共治とは〕君主と民がともに協議して確固不抜の憲法を制定し、万機をこれにしたがって決するものである。これを国家の根本法と言ったり、政治規範と言ったりする。すなわち政体であり、国家全体の最高規範である。この制がひとたび確立すれば、官吏や閣僚はほしいままに臆断をもって事務を処したりせず、彼らの施政には一貫した準拠があり、ご都合主義というような患いも無く、民力と政府は並走して開化を遂げ、虚構に陥ったりはしない。これは国家建設の根軸であり、施政の本源なのであって、今日国家の様々な事務に従事している者は、徐々にこのことに注意しなければならない。」
 
●明治10年の別離(p396)
 明治10年、大久保は重要な人物3名を失った。
 5月26日、木戸孝允。
 8月22日、杉浦譲。内務省で大久保を支えていた。
 9月24日、西郷隆盛。
 
●知のセンター、上野公園(p410)
 明治9年(1876年)5月9日、上野公園開園。太政官布告によって定められた公園の中で、唯一内務省所管の公園。
 博物館、博覧会、図書館、動物園、植物園が混在する、知のセンター。
 明治10年8月21日~11月30日に、第1回内国勧業博覧会が開催された。
 
●シンポジウム(p424)
 内国勧業博覧会は、〔富国化のために何が必要で何が可能かを皆で考え、討究するシンポジウムだったと言えようか。国内の人知を結集して、地に足着いた産業化を実践していくための知識の交換と創発の場であることが期待されたのである。付言すれば、その際に基調とされたのは、漸進主義であった。〕
 
●理の国制化(p431)
 大久保は、理に基づく新たな国家の体制(国制)を希求していた。尊王のさらに上位に君臨する天下国家(公的なもの)の原理を体現したもの。
 数による勢いに恃んだ公議や衆論は、決して理に基づく公論を担保するものではない。
〔 維新なったその後、大久保は何度も、制度、制度と唱えていた。大久保といえば、専制主義の政治家というイメージがつきまとうが、彼は彼なりの公論に立脚した国制を希求していた。それは、佐藤(誠三郎)氏が剔抉されるように、勢いに駆られた激情の暴発に流された衆議であってはならない。その代わりに、彼が新しい国制を支える人として見出したのが、知識をもった有徳の士であった。彼は、自らの統治の府としての内務省に、旧幕臣や佐幕派からも広く人を募った。それが知識の持ち主であるならば、かつての来歴は不問に付された。国家を成り立たせる有益な知を糾合しつなぎ合わせることがこころがけられたのである。〕
 
●島田一郎(p433)
 明治11年(1878年)5月14日、午前8時ごろ、麹町紀尾井町で大久保利通を暗殺。
 1848-1878年。加賀藩士。足軽の家に生まれ、第一次長州征伐、戊辰戦争にも参加。新政府下においては陸軍に入り中尉まで昇進するが、征韓論者のため明治六年の政変で帰郷。神風連の乱、秋月の乱等に呼応して挙兵を企てるも失敗。方針を要人暗殺に切り替える。加賀士族四人と島根士族一人とともに利通暗殺を決行。大逆罪により斬首。(注による)
 
●羊飼いと前衛(p442)
〔 大久保は、通常は羊飼いとして民の後についていこうとしながらも、必要な場合には前衛に立って民を導こうとした。その両面性こそ彼の政治指導の真価と言える。民の後についていこうとしたのが、各地の知の発掘とそれらの交換を通じての新たな知識の誘発であるが、それとは別個に、没落する士族たちの救済という喫緊課題があった。そのために彼が次に着手しようとしていたのが、安積開墾事業であった。〕
 
(2023/1/29)NM
 
〈この本の詳細〉


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