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マイホーム山谷
 [社会・政治・時事]

マイホーム山谷
 
末並俊司/著
出版社名:小学館
出版年月:2022年5月
ISBNコード:978-4-09-388857-8
税込価格:1,650円
頁数・縦:245p・19cm
 
 山本雅基と「きぼうのいえ」を中心に、山谷の現状とその地域包括ケアシステムを描く。
 
【目次】
序章 山谷と介護と山本さん
第1章 よそ者たちの集まる街
第2章 「きぼうのいえ」ができるまで
第3章 壊した壁と壊れた心
第4章 「山谷システム」は理想か幻想か
第5章 山谷のマザー・テレサの告白
終章 マイホーム山谷
 
【著者】
末並 俊司 (スエナミ シュンジ)
 1968年、福岡県生まれ。介護ジャーナリスト。日本大学芸術学部を卒業後、97年からテレビ番組制作会社に所属し、報道番組制作に携わる。2006年からライターとして活動。両親の在宅介護を機に、17年に介護職員初任者研修(旧ヘルパー2級)を取得。『週刊ポスト』を中心として、介護・福祉分野を軸に取材・執筆を続ける。『マイホーム山谷』で第28回小学館ノンフィクション大賞受賞。
 
【抜書】
●三大寄せ場(p7)
 東京の山谷(東京都台東区)
 大阪の釜ヶ崎(大阪市西成区)
 神奈川の寿町(横浜市中区)
 
●山谷(p40)
 〈「山谷」という地名は、江戸時代から存在しており、昭和41年以前は現在の住居表示でいう清川一・二丁目、東浅草二丁目の一部を「浅草山谷一丁目から四丁目」としていた〉(東京都福祉保健局『山谷地域―宿泊者とその生活―』、平成31年3月)。
 現在も台東区と荒川区にまたがる1.7㎢ほどの地域に簡易宿所(いわゆるドヤ)が密集しており、山谷地区と総称している。
 江戸時代、この界隈には、吉原遊郭や小塚原刑場(地元の人は「こづかっぱら」と発音)などが置かれていた。また、日光街道や奥州街道の主要な宿場町だったこともあり、素泊まり専用で雑魚寝の木賃宿が軒を連ねた。
 明治通りと吉野通りの交差点「泪橋」は、かつてここに思川(おもいがわ)が流れており、橋を渡れば小塚原刑場だった。縛られた罪人は、橋を渡るときに江戸方面を振り返って涙を流した、ということから「泪橋」の名がついたとも。
 1896年(明治29年)、福島県の常磐炭田から石炭を運び込むため、泪橋交差点の荒川区側に隅田川駅が開業し、荷下ろしを請け負う人足が各地から大量に集まった。
 
(2023/3/25)NM
 
〈この本の詳細〉


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秘録齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史
 [社会・政治・時事]

秘録 齋藤次郎 最後の大物官僚と戦後経済史
 
倉重篤郎/著
出版社名:光文社
出版年月:2022年7月
ISBNコード:978-4-334-95321-8
税込価格:1,650円
頁数・縦:248p・19cm
 
 10年に一人の逸材といわれた大蔵官僚の成果と蹉跌を、戦後経済史・政治史の裏面史として解き明かす。
 
【目次】
第1章 大連立 15年目の証言
 不決断ゆえの挫折
 トップ会談合意後の決裂
第2章 生い立ち・入省まで
 敗戦、そして引き揚げ
 戦後の混乱と成長
第3章 大蔵官僚として
 主計局若手時代
 主計局参謀入り
 財政規律改革
 主計本流コース
第4章 小沢一郎と二人三脚
 官房長時代―湾岸1兆ドル支援
 主計局長時代―国際貢献税の失敗
 事務次官時代 国民福祉税の失敗
第5章 退官後 郵政社長
 郵政社長以前
 郵政社長として
 
【著者】
倉重 篤郎 (クラシゲ アツロウ)
 1953年生まれ。東京都出身。毎日新聞客員編集委員。東京大学教育学部卒業後、毎日新聞社に入社。水戸支局、青森支局、東京本社整理部、政治部、経済部、千葉支局長などを経て、2004年に政治部長、11年に論説委員長を務める。
 
【抜書】
●満州生まれ(p72)
 1936年1月15日、齋藤次郎は、旧満州・大連で生まれた。兄の一郎(33年生まれ)はフランス文学、妹の鞆子(42年生まれ)は経済学で大学教授になっている。
 父親は東京出身、満鉄調査部に勤務していた。
 4歳で上海に転勤。その後、天津、北京、奉天を経て、敗戦は疎開先の営口で迎えた。
 
●主計局(p95)
 主計局……各省の予算を査定。
 主税局……税務行政を担う。
 理財局……国有財産を管理する。
 
●企画担当(p107)
 72年6月、主計局総務課課長補佐(企画担当補佐)に。2年間。
 企画担当は、大蔵省の作戦参謀本部。予算の骨格、フレームを作る。主計官僚たちの憧れのポスト。
 〔拡大型か緊縮型か。増税か経費削減か。時の政権がどういう思想、哲学に基づいて予算を組むか。政治の要請と主計官僚の蓄積されたノウハウが一体となって、国民生活の基本設計がここで決まることになる。〕
 
●下水道特例債(p115)
 74年7月、理財局資金第一課長補佐に就任。
 下水道特例債を発案。
 下水道事業は、初年度は自治体の負担が高く、後年度に行くほど国の補助率が高くなる。特例債で自治体支出を肩代わりすることにより、事業開始の障害を軽減する。一方で、国の負担を標準化させる仕組みでもあった。
 事業規模は維持・拡大できるし、初年度の国費は節約できる。したがって、国の一般会計そのものは緊縮の体制を維持できる。下水道事業費の一般会計歳出が半分になった。
 建設省下水道課長もこの案に飛びついた。反対はどこにもなく、理財局の仕事として全省的に評価された。制度はいまも続いている。齋藤自身にとっても「個人としてやった最初のヒット作だ」となっている。
 
●企画主計官(p119)
 79年、ドイツから帰国後、主計局企画担当主計官に就任。82年6月までの3年間。80年度予算「財政再建元年イブ予算」(竹下登蔵相)。齋藤改革四点セット。10年に一度の逸材のいわれ。
 歳出百科……財政ガイドブックの作成。担当主計官が歳出の内容を分かりやすく解説。80年7月に第一稿。原稿を出す現場の負担が強く、81年度は内部資料としてのみ作成。
 予算三分類・一般歳出創設……予算項目・分類の単純化・明確化。歳出分を国債費(元利払い)、地方交付税、一般歳出の三分類に。前二者の義務的経費とは異なり、それ以外の歳出を政策費の塊として「一般歳出」として新たな概念でくくり、努力次第で削減可能だと切り分け、財政再建のキーワードにした。
 公債減額フレーム……公債1兆円減額鍵掛け方式。公債発行額を歳出入の差額としてはじき出すのではなく、編成前に対前年比で1兆円減額することをあらかじめ宣言。
 主計官フレーム……財政規律強化のための組織内部の改革。ドイツの「回章」方式をまねて、情報の共有をはかる。各主計官ごとに次年度予算の上限をあらかじめ設定、主計局長名でその順守を指示。
 
●3年間の成果(p129)
〔 齋藤にとって、企画担当主計官の3年は「頭を使って予算改革をした。大蔵省時代の一番の華」だった。主計官フレームはいまだに使っているし、一般歳出という括り方も山口、吉野両主計局長時代にも踏襲された。シーリングの導入も加えるとその後の大蔵省の予算編成の基本的枠組みは齋藤主計企画官の3年間で作られた、ということになる。
 齋藤の後の次官篠沢恭助によるとこうなる。
 「マイナスシーリング、ゼロシーリング両方とも齋藤次郎が考え出した。予算フレームというのは予算編成段階での用語だ。シーリングは要求段階のテクニックだ。その両方式を彼が編み出した」〕
 
●近畿財務局長(p131)
 82年6月、公共事業担当の主計官。
 83年6月、主計局総務課長。
 84年6月、文書課長。
 85年、近畿財務局長。主計局エリートにとっての羽休めのご苦労さんポスト。
 86年6月、主計局次長。
 88年6月、経企庁官房長。
 90年6月、大蔵省官房長。
 
●小沢一郎との二人三脚(p190)
 91年6月、主計局長。
 93年6月~95年5月、事務次官。
 齋藤は、小沢(自民党幹事長)との二人三脚で、湾岸増税(91年4月)、国際貢献税(91年12月、廃案)、国民福祉税(91年4月、廃案)に注力してきた。
 
(2023/3/25)NM
 
〈この本の詳細〉


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