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敗者としての東京 巨大都市の隠れた地層を読む
 [歴史・地理・民俗]

敗者としての東京 ――巨大都市の隠れた地層を読む (筑摩選書 248)
 
吉見俊哉/著
出版社名:筑摩書房(筑摩選書 0248)
出版年月:2023年2月
ISBNコード:978-4-480-01768-0
税込価格:1,980円
頁数・縦:341p・19cm
 
 1590年、1868年、1945年。三度の占領を経験した東京を、敗者の歴史として捉えなおし、重層的に描く。 
 
【目次】
東京とは何か―勝者と敗者のあいだ
第1部 多島海としての江戸―遠景
 クレオール的在地秩序
 死者の江戸、そして荘厳化する外縁
第2部 薩長の占領と敗者たち―中景
 彰義隊の怨念とメモリー・ランドスケープ
 博徒と流民―周縁で蠢く敗者たち
 占領軍と貧民窟の不穏―流民の近代をめぐる眼差し
 女工たちは語ることができるか
第3部 最後の占領とファミリーヒストリー―近景
 ニューヨーク、ソウル、東京・銀座―母の軌跡
 学生ヤクザと戦後闇市―安藤昇と戦後東京
 「造花」の女学校と水中花の謎―山田興松とアメリカ進出
 原風景の向こう側―「都市のドラマトゥルギー」再考
敗者としての東京とは何か―ポストコロニアル的思考
 
【著者】
吉見 俊哉 (ヨシミ シュンヤ)
 1957年、東京都生まれ。87年、東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。現在、東京大学大学院情報学環教授。社会学、都市論、メディア論を専攻。
 
【抜書】
●堂信仰(p42)
 たんしんこう。
 日本の神社の祖型は古代朝鮮半島、とくに新羅を中心とする祖霊信仰にあったとする説がある。朝鮮半島にあった原-神社は、一般に「堂〈タン〉」と呼ばれ、かつては日本と同じように村ごとに必ずあり、それらの堂で祭りが催さていた。
 堂信仰を支えていたのは、天孫の檀君〈タングン〉が古朝鮮を開いたという「檀君神話」。日本の天孫降臨神話と同型。
 その後朝鮮半島では、李氏朝鮮が500年に及ぶ長い統治を通じて徹底した儒教化政策を推し進め、土着的な堂信仰は、弾圧・排除されるか、儒教的な信仰に転換されてしまった。
 さらに、日本の植民地支配や、朴正熙政権の近代化政策でも土着的なものは排除されるしかなかった。
 〔古代には日韓で当たり前のように存在した文化的共通性が、今日ではすっかり見えにくくなっています。〕
 
●戸(p44)
 朝鮮半島からの渡来人たちは、東京湾内にも入ってくる。
 船を留めるのに適した場所は船着き場となり、やがて湊になった。そのような小さな湊が東京湾一帯にいくつも造られた。それらの場所は、一般的に「戸」呼ばれた。松戸、青砥(青戸)、奥戸、花川戸、高井戸、など。
 これらの一つが、湊としての「江戸」だった。現在の日本橋から銀座にかけて半島状の砂州があり、今の新橋あたりがその突端だった。この砂州が後に江戸前島と呼ばれるようになる。
 
●浅草(p45)
 渡来人文明の本格的拠点となったのは、現在の隅田川を下流とする利根川流域。
 最初に渡来人が関東進出の拠点としたのは浅草寺。浅草観音の創建は628年とされる。この頃から浅草は、海ではなく陸地だった。東上野から田原町辺りまで、また対岸の墨田区は海だったが、浅草付近は岬になっていた。浅草は湊だった。
 渡来人は、隅田川から利根川へと遡上。大宮に氷川神社を建立。埼玉県の「新座」は「新羅」に由来。同県には「高麗郡」もあった。日高市には高麗神社があり、高麗川が流れている。「荒川」の「荒」は、古代朝鮮の東南部にあった「安羅国」に由来するという説もある。
 
●熊野(p52)
 中世を通じて熊野水軍と熊野信仰のネットワークが拡大していった。
 代表例が、中世の説教節の一つ「小栗判官」。もともと二条大納言藤原兼家の子だった小栗は、大蛇と交わった罪で常陸に流罪となるが、相模の豪族である横山氏の美しい一人娘、照手に強引に婿入りするも、怒りを買って一門の者に毒殺される。死んだ小栗は閻魔に許され、餓鬼身としてこの世に蘇り、土車に乗せられて熊野に運ばれ、当地の湯を浴びて元の姿に戻り、横山の館を追い出されて下女奉公をしていた照手とも再開する。この物語を支えていたのは、熊野はすべてを治癒するという、聖地としての熊野の信仰。
 「聖地としての熊野」という物語を全国に広めたのは、御師〈おし、おんし〉と呼ばれる神職たち。御師たちは熊野水軍に支えられながら全国を旅し、熊野神社のお札など、さまざまな文物を広めていった。中世を通じて御師たちの数は膨らんでいった。各地に「旦那」と呼ばれる豪族がいて、御師を受け入れて歓待した。彼らは、熊野権現の宗教的権威を受け入れ、その地に神社を建立した。
 熊野神社が新たに生まれると、その境内に市が立つことになる。市で売られる品々は、熊野のネットワークを通じて運び込まれたもので、関西からのものも少なくなかった。逆に、列島各地の産品が関西へと流通していた。
 〔中世の日本列島には、各地で熊野権現を保護する地元勢力が存在し、境内に立つ市での物流を可能とするネットワークがあり、それら市を権威づける熊野信仰のネットワークが存在していたのです。〕
 
●矢野弾左衛門(p54)
 源頼朝は、鎌倉幕府を開き、新秩序を打ち立てていった。それは、江戸氏の「大福長者」としての役割を解体することにあった。荒川流域に展開された秩父平氏の根絶やし、江戸氏に代わる通運業者の導入。
 摂津国池田(尼崎の後背地)にいた矢野氏一族を浅草と江戸湊の中間の江戸前島に配置。以来700年、鎌倉時代はもちろん、江戸時代になっても徳川幕府から大きな特権を認められ、明治維新まで連綿と「八ヶ国の大福長者」を超す「東国三十三カ国」の物資および情報を含めた流通業者兼職人および芸能の元締めを兼ねた存在として続いた。
 矢野弾左衛門と言われている家系で、江戸前島から浅草へ移り、巨大な屋敷を構える。やがて彼らは浅草弾左衛門とも呼ばれ、皮革業者や芸能民などの被差別民の総元締めみたいになっていく。
 鈴木理生〈まさお〉『江戸の川 東京の川』による。
 
●出張所(p65)
 1970年代の東京の寺院数は約3,000。
 18世紀初頭の段階ですでに約1,800。曹洞宗207、真言宗193、臨済宗154、天台宗173。これらの寺院は、僧侶を養成する場であっただけでなく、庶民にとっての学習の場でもあった。
 江戸には、諸大名、旗本、御家人それぞれが利用できる墓地や寺院が生まれていった。
 これらの寺院は、国許にある寺院の出張所のようなものだった。こうした寺院が建てられるようになったことで、江戸に1,800もの寺院が所在することになった。
 
●被差別民(p74)
 江戸時代、農本主義的な社会になってしまうと、農民を統制する諸制度が整えられていく。その過程で、雑業などに従事して、新たな制度の枠組みに収まらなかった人々が「制外民」となっていった。
 これらの人々は、中世までは商人や農民よりも身分が下ということはなかった。近世に入って身分秩序が確立していく中で、制度の枠に収まらず統制しにくいということで、排除されていったと考えられる。
 こうした動きの中で、それまで雑業や水運業を束ねてきた人々が既得権益を失うまいとした結果、制外民となった穢多・非人を統括する位置に就くことになったと考えられる。矢野弾左衛門。
 矢野弾左衛門は、江戸幕府に提出した由来書に、自らに特権が与えられた職種を挙げている。穢多・長吏支配、猿引、灯心細工、太鼓、皮細工、厩の世話、刑吏。芸人系、職人系、運送業。
 
●人口半減(p120)
 幕末、江戸の人口は約120万人。武士や奉公人50万人、町人60万人、僧侶や被差別民十数万人。
 維新後、幕府が消え、参勤交代がなくなって武士や奉公人の大半が国許へ戻った。人口は約67万人に激減。
 江戸市街地の7割を占めた武家地の大半が空き家化したので、治安が悪化し、犯罪が横行する。最大の消費者であった武士が消えたので、商人や職人の経済的なダメージも大きかった。
 
●賤民廃止令(p125)
 1871年、人民を一元的に管理するため、統一戸籍法が制定された。同時に、賤民廃止令も布告。
 江戸時代は、職能別に人民を管理する体制が前提だった。
 この時、弾左衛門は、新政府に呼び出され、皮革や灯心などの専売権を取り上げられる。皮革加工に将来性があると目を付け、米国から皮革技師を招いて先端技術を導入。
 
●バレーボール(p169)
 紡績企業では、労働争議が頻繁に起こるようになっていた。それを緩和するため、1930年代以降、紡績工場の女子行員たちのリクリエーションとして、バレーボールが重視されるようになった。
 大正中期以降、社内スポーツへの関心が高まり、繊維産業でバレーボールのチーム作りが全国的に行われる。その結果、30年代後半には、繊維産業の現場から多くの強豪チームが出てくる。全国大会で、高等女学校の強豪チームを次々に打ち負かしていく。
 1964年、東京オリンピックで大日本紡績貝塚工場の代表チームが、金メダルを獲得。
 
●占領の歴史(p186)
〔 都市の歴史は占領と征服の歴史です。民族Aが形成した都市を民族Bが征服して領土を拡大し、その都市を民族Cがさらに征服する。一般に、新たな征服者はそれまでの都市の記憶を徹底的に抹消します。たとえば、一六世紀にコルテス率いるスペイン人たちがアステカ帝国の首都を占領したとき、彼らはこの「都」を徹底的に破壊し、その瓦礫の上にキリスト教会を中心とするスペイン帝国の植民都市を建設していきました。〕
〔 他方、日本の都市では、征服された者たちの痕跡が様々な仕方で残ってもいます。なかでも東京は、一五九〇年の徳川による占領、一八六八年の薩長による占領、一九四五年の米軍による占領という三度の占領を経ながらも、その凹凸をなす地形と結びついて過去の敗者たちの記憶が地層をなし、それがこの都市の最大の魅力なってきました。〕
 
●体制の崩壊(p238)
〔 そもそもカブキ者としての原ヤクザが誕生したのも戦国から徳川にかけての最初の江戸占領期であったわけですが、都市占領は文字通りの暴力行為であり、そのような占領が生じる周辺では無数の暴力が渦巻いてきたと考えられます。それらの渦巻く暴力は、占領者の到来とともにすぐに鎮まるようなものではなかったはずです。体制の崩壊は、それまで周縁化されていた草莽たるエネルギーを解放し、その解放は、言葉による以前に草の根の暴力の形態をしばしば纏います。やがて、占領が完成期に差し掛かると、それらの暴力は鎮圧され、管理されていくことになるのです。博徒や愚連隊の盛衰は、この過程を象徴的に示しています。〕
 
(2023/6/25)NM
 
〈この本の詳細〉

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