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日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く
 [歴史・地理・民俗]

日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く (PHP新書)
 
関裕二/著
出版社名:PHP研究所(PHP新書 1357)
出版年月:2023年6月
ISBNコード:978-4-569-85490-8
税込価格:1,243円
頁数・縦:213p・18cm
 
 日本と中国の大きな違いを指摘し、序章にある「アジアは一つ」という幻想を打ち砕く……、という大げさな内容でもないのだが。日本と中国の古代に関する異説を紹介する、といったところか。
 たとえば、ヤマト建国は、西(北部九州)から強い王が攻めてきたのではなく、東の政権が出雲、吉備、北部九州を飲み込んだのが真実であるという。だとしたら、「神武東征」の物語が『古事記』『日本書紀』で語られている意味がわからない。このナゾも解明してほしかった。
 
【目次】
序章 アジアは一つか?
第1章 中国文明の本質
第2章 日本の神話時代と古代外交
第3章 中国の影響力と朝鮮・日本の連動
第4章 日本は中国と対等に渡り合おうとしたのか
第5章 中国の正体と日本の宿命
 
【著者】
関 裕二 (セキ ユウジ)
 1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅せられて足繁く奈良に通い、日本古代史を研究。文献史学・考古学・民俗学など、学問の枠にとらわれない広い視野から日本古代史、そして日本史全般にわたる研究・執筆活動に取り組む。
 
【抜書】
●仰韶文化、竜山文化(p48)
 氷河期が終わると、BC13000~BC8000年頃、黄河流域、長江流域、東北の三つの地域に人々が住み、それぞれ異なる生業を持っていた。
 新石器時代前期から後期にかけて、渭水流域と黄河中流域で二つの文化圏が形成された。仰韶〈ぎょうしょう〉文化と竜山〈りゅうざん〉文化である。
 BC4500年頃は高温湿潤で、農耕が発達し、環濠集落を形成するようになる。
 新石器時代中期末期のBC3000年頃になると、環濠集落が発展し、城壁で囲まれた集落(城塞集落、城郭集落)が出現。都市の雛形。銅器や土器、文字らしきもの(記号状)も見つかっている。
 新石器時代後期(BC2000年頃)に至り、城壁集落の中では、階層と格差が生まれていた。墓の規模が異なり、土器、玉器、彩色の施された木器などが副葬された。祭祀と軍事を司る首長が誕生した。
 この後、二里頭文化、二里岡文化、殷墟文化が登場する。初期国家の時代。
 
●二里岡遺跡(p51)
 1950年、河南省鄭州市で、殷代前期(BC16~BC14世紀)の遺跡が見つかった。二里岡遺跡。
 殷王朝(BC17世紀頃~BC1046年)の実在が証明された。
 農耕社会と牧畜型農耕社会の接触地帯。二つの文化がまじりあって、化学反応を起こした。
 殷代史は、前期(二里岡期)、中期(鄭州期)、後期(安陽期)に分かれる。文字資料(甲骨文字)が残っているのは後期だけ。中心は、殷墟。青銅器文化が最盛期を迎えた。
 
●欲(p83)
 中国文明の本質は、「礼」が「人間の欲望を抑えるためのシステム」となっていること。
〔 中国文明の本質は「欲望」であり、それをいかにコントロールするか、どうやって民の欲を満たせるか、あるいは欲に箍〈たが〉をはめるかが、中国歴代王朝の最大の課題だった。〕
 
●強い王(p90)
〔 弥生時代の最後に銅鐸を祭器に用いた地域は、銅鐸を巨大化させていた。理由は、威信財をひとりの強い首長(王)に独占させないためで(強い王を望まなかった)、集落のみなで、銅鐸を祭器に用い、勝手に首長が墓に副葬できないようにしたのだ。北部九州のような、銅剣や鉄剣、鏡を副葬して首長の権威を誇っていた地域とは、異なる発想で、しかも「強い王を求めない地域の人びと」が、三世紀の初頭に、奈良盆地の南東の隅に拠点を作り、それがヤマト建国のきっかけとなっていく。これが、纏向遺跡(奈良県桜井市から天理市の南端)の誕生である。忽然と、三輪山山麓の扇状地に、政治と宗教に特化された都市が誕生したのだ。〕
 纏向遺跡には外来系の土器が多い。伊勢・東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%。東海と近江を合わせると過半数、北九州の土器がほとんどない。
 ヤマトを含む銅鐸文化圏の人びとは、縄文時代から継承されてきたネットワークを利用して、交易を行う人々。
 
●タニハ(p108)
 タニハ……但馬、丹波(8世紀以降は丹波と丹後)、若狭。
 出雲とタニハは反目していた。タニハが銅鐸文化圏(近畿地方南部と近江、東海)と手を結び、反撃に出た。出雲を圧迫し、明石海峡争奪戦に勝利した。このため、吉備と出雲は北部九州と手を切り、ヤマト建国に参加した。
 ヤマト政権は、北部九州沿岸部になだれ込んで奴国に拠点を構えた。
 ヤマト建国と言えば、北部九州の強い王家が東に移ったと信じられていたが、実際はその逆。ヤマトが北部九州の富と流通ルートを奪いに行った。大量の東の土器が北部九州に集まっていた。
 
●珍物(p125)
 「新羅・百済は、皆倭を以て大国にして、珍物多しと為し、並に之を敬仰して、常に使いを通じて往来す。」『隋書』倭国伝の一節。
〔 新羅と百済が本心でヤマト政権を敬仰していたかどうかはわからない。ただ、高句麗や隣国の脅威に身を晒していたから、ヤマト政権の軍事力をあてにしていたことは間違いない。少なくとも、かつて信じられていたような「常に倭国は朝鮮半島から見て、遅れた風下の国」という単純な決め付けは、改めた方がよい。〕
 
●蘇我氏(p131)
 古墳時代を通じてヤマト政権の中心に立っていたのは物部氏。瀬戸内海の吉備出身。
 日本海勢力に属する継体天皇の出現以降、蘇我氏が台頭し、物部氏の勢力は削がれていく。継体天皇が育った越は、蘇我系豪族の密集地帯であった。継体を支えたのは蘇我氏。 
 
●日本という国号(p168)
〔 「日本」は、古代の東西日本の東側を指していたと思う。『旧唐書』倭国伝に、「倭国は古の倭奴国〈わのなこく〉なり」とある。「奴国」は、福岡市周辺のことで、中国の言う「倭国」は、もともと弥生時代後期の北部九州やその周辺だった可能性が高い。そして『旧唐書』日本伝は、次の記事を載せる。
 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て号となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、あらためて日本となすと。あるいはいう、日本は旧くは小国なれども、倭国の地を併せたりと。〕
 ヤマト建国は、奈良盆地周辺を中心とする「東(銅鐸文化圏)」が、「西の北部九州」を飲み込んだ事件だった。
 「西の北部九州は大国=富栄えた」国で、倭国(北部九州)の別種で小国(鉄をほとんど持っていなかった貧しい地域)の日本国が倭国を併合したという。
 北部九州を飲み込んだ国が東方の日の出る方角にあったから、「倭国から見て東は日本」なのであって、「日本」は中国大陸を基軸にして生まれた国号ではない。
 
(2023/9/20)NM
 
〈この本の詳細〉


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