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武蔵野の歌が聞こえる
 [文芸]

木村快/著
出版社名 :特定非営利活動法人・NPO現代座
出版年月 :2015年6月
ISBNコード :
税込価格 :1,000円
頁数・縦 :111p・21cm

 「武蔵野の歌が聞こえる」という芝居を、市民ボランティアとともに造り上げた経緯と、その過程で調べた川崎平右衛門の事績を解説。

【目次】
武蔵野の歌が聞こえる《ものがたり》
 1 宝永大地震と享保の改革
 2 困難な新田開発
 3 一難去ってまた一難
 4 新田開発は可能か
 5 協同の村
 6 さくら咲く村
芝居は心の街おこし
 1 芝居は心の街おこし
 2 素人の目で江戸の歴史を見つめる
 3 心の街おこしドラマを

【著者】
木村快 (キムラ カイ)
 1936年、朝鮮・大邱府生まれ。NPO現代座代表。

【抜書】
●幕府の記録(p71)
〔 幕府側の記録では農民出身の平右衛門が武蔵野新田開発を成功させ、美濃国(岐阜県)で水害に悩む長良川流域の治水をやり遂げ、さらに出雲国(島根県)銀山奉行として老朽化した鉱山の改革を進めて銀の産出量を倍化させ、全国の銀山を統括する銀山奉行となり、併せて幕府の財政を監査する勘定奉行目付けになって、74歳で没したことがわかる。〕

●8代目(p74)
 川崎平右衛門定孝、幼名辰之介。川崎家は、代々平右衛門を名乗り、定孝は8代目。
 川崎家は、後北条家家臣の末裔。豊臣秀吉の小田原征伐で敗北、押立村に移住。小金井の名家・関一族も同様。
 押立村は多摩川洪水で村が二分された歴史を持ち、川崎家は水害対策の役割を担っていた。

●新田世話役(p88)
 「小金井お救い米くばり」が平右衛門の采配で大きな成果を収め、幕府より銀10枚の褒美と名字帯刀を許され、川崎平右衛門と名乗ることになる。
 元文4年(1739)8月、平右衛門、大岡忠相の要請により、武蔵野新田世話役となる。
 当時、82か村1,320軒余りのうち、どうにか生活できる出百姓(移住してきた百姓)は35軒。自力で営農できる家は9軒。

●武蔵野新田の協同システム(p89)
 畑養料(はたけやしないりょう)……幕府から5,360両を借り入れ、年利1割で商人に貸し付け、利息を稼ぐ。農閑期に最安値の肥料を購入して備蓄。百姓に貸し与える。収穫した雑穀を、商人を通さず、市場価格の2割高で買い取り、有利な時期を見計らって売却。余った雑穀は、食料に困ったときの百姓に支給。
 芝地開発料……開墾地の6割で栽培された収穫は百姓の取り分。安い肥料を十分に使わせ、二毛作。残りの4割の畑は代官所のために商品作物として薬草を栽培させる。薬草を売却した収入は代官所の開発資金にあて、幕府からの開発費支給を不要に。独立した自治体としての機能を備える。代官所の蓄えは、10年足らずで700両に。
 ヒエの備蓄……飢餓対策として、収穫物の1割に当たるヒエを代官所に備蓄させる。ヒエは30年間保存できる。3年間凶作を受けずに済めば、最初の1年分を江戸の市場で売却、その収入をそれぞれの村に分配。

●武蔵野新田の協同システム(p93)

●川崎平右衛門略年表(p109)
 1694年(元禄7) 平右衛門出生。
 1707年(宝永4) 10月 宝永大地震。49日後、富士山大噴火。
 1723年(享保8) 平右衛門、押立村名主となる。武蔵野新田開発令が出る。
 1732年(享保17) 西日本で享保の大飢饉。
 1735年(享保20) 平右衛門、多摩川用水路修復工事請負。その仕事に幕府が注目。
 1737年(元文2) 平右衛門、武蔵野新田に栗林を仕立てる。
 1739年(元文4) 武蔵野新田連続大凶作、餓死者発生。平右衛門、お救い米配り。南北武蔵野新田場世話役となる。
 1743年(寛保3) 支配勘定格(実質的な代官)となる。
 1749年(寛延2) 平右衛門、美濃国の本田(ほんでん)代官となる。
 1762年(宝暦12) 平右衛門、石見国大森代官となり、銀鉱山を復活させる。
 1767年(明和4) 平右衛門、勘定吟味役兼諸国銀山奉行となる。江戸で病没(74歳)。

(2015/11/27)KG


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