SSブログ

尊皇攘夷 水戸学の四百年
 [歴史・地理・民俗]

尊皇攘夷―水戸学の四百年―(新潮選書)
 
片山杜秀/著
出版社名:新潮社(新潮選書)
出版年月:2021年5月
ISBNコード:978-4-10-603868-6
税込価格:2,200円
頁数・縦:476p・20cm
 
 幕末の水戸藩が尊皇攘夷に突っ走るさまを、二代目藩主光圀から書き起こす。博覧強記に満ちた歴史評論である。「水戸学の世界地図」という題で、『新潮45』2015年8月号〜18年10月号、『新潮』2019年7月号〜20年8月号に連載された原稿を加筆・改題したもの。
 まるで司馬遼太郎の小説のような読み心地である。『翔ぶが如く』を彷彿とさせる筆致だ。
 
【目次】
第1章 水戸の東は太平洋
第2章 東アジアの中の水戸学
第3章 尊皇の理念と変容
第4章 攘夷の情念と方法
第5章 尊皇攘夷の本音と建前
第6章 天狗大乱
第7章 「最後の将軍」とともに滅びぬ
エピローグ 三島由紀夫の切腹
 
【著者】
片山 杜秀 (カタヤマ モリヒデ)
 1963年仙台市生まれ。政治思想史研究者、音楽評論家。慶應義塾大学法学部教授。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。『音盤考現学』および『音盤博物誌』で吉田秀和賞、サントリー学芸賞を受賞。『未完のファシズム』で司馬遼太郎賞受賞。
 
【抜書】
●杮葺き(p39)
 水戸藩の上屋敷は小石川にあった。現在の小石川後楽園は、その屋敷の庭。
 慶安の江戸大地震(1649年)の時には、武家屋敷の瓦葺きをやめて杮葺きに改めるべきだという議論もあった。しかし、武家の権威と格式の維持が優先され、立派な瓦葺きを原則としたまま、幕末に至った。
 
●彰考館(p56)
 1657年(明暦3年)、駒込の水戸藩中屋敷に、『大日本史』編纂のための史局が設けられた。後に、彰考館と名付けられた。
 ちなみに『大日本史』という書名が決まったのは、徳川光圀の次の水戸藩主、綱條(つなえだ)のときである。
 
●碁盤太平記(p150)
 『仮名手本忠臣蔵』は、1748年(寛延元年)、大坂の竹本座で、人形浄瑠璃として初演された。竹田出雲らの合作。その後、歌舞伎にも移された。
 近松門左衛門『兼好法師物見車』、1706年(宝永3年)。討ち入りから4年後の浄瑠璃。『太平記』になぞらえ、浅野内匠頭を塩冶判官高貞に、吉良上野介を高師直に見立てて物語を作った。
 同『碁盤太平記』、1710年(宝暦7年)。こちらでは、架空の人物大星由良之介(大石内蔵助)も登場する。『仮名手本忠臣蔵』では、大星由良之助。
 
●加茂氏(p156)
 徳川家は、三河国加茂郡松平郷を本拠とする。加茂郡なので、先祖として加茂(賀茂)氏の流れを名乗ることもあった。
 賀茂氏は、古代出雲の豪族。先祖は、八咫烏に化身して神武天皇の東征を導いたとも伝えられる。
 賀茂氏の祖霊を祀るのが京都の賀茂神社で、葵祭が行われる。これが葵の御紋の由来だとする説もある。
 
●皇紀元年(p179)
 皇紀元年は、西暦紀元前660年。
 記紀の根底にある歴史観では、斉明天皇の崩御によって中大兄皇子が称制を始める西暦661年が、日本革命にとって特別な年として扱われる。五行十二支でいうと辛酉の年、中国古代の思想では革命の起こりやすい年とされる。さらに、21回もしくは22回の周期で、大変革がもたらされる、とも言われてきた。
 『日本書紀』では、661年を大変革の年とし、60✕22=1320年前のBC660年を神武天皇即位年すなわち皇紀元年とした。
 
●中央集権(p251)
 水戸学の総帥、立原翠軒は、大黒屋光太夫を日本に帰したロシアの意図を探るべく、蝦夷地に門弟の木村謙次を派遣した。水戸に戻って、1793年、密偵記録と意見具申を兼ねた『北行日録』を翠軒に提出した。大黒屋光太夫が、ロシア船で蝦夷地に帰還したのは1792年(寛政4年)。(p245)
〔 要するに木村は、天皇に委託された将軍の統べる農本主義的ユートピアとしての幕藩体制の永続をひたすら冀い、それを脅かすロシアから「豊葦原瑞穂国」の本体を守るべく、絶対国防圏として蝦夷地と千島と樺太を強力な軍隊の駐留地としなければならぬと主張するのだが、それを支えるエートスと費用と人数をみたすには、幕藩体制と農本主義ではうまく行かないという、大いなる矛盾にたどり着かざるをえない。僻地に膨大な軍事力を集中する鎮戍府をマネージするにはどうしても中央集権が必要なのである。それでこそ防人の時代や多賀城・胆沢城の時代が再現可能になる。ここに明治維新の芽も出てくる。中央集権国家と四民平等と国民皆兵の組み合わせである。〕
 
●弱兵と愚民(p267)
〔 とにかく、武家は都市生活によって弱兵化し、民衆は武家の課する負担と反現世的宗教によって愚民化する。天の義が通らなくなった世ゆえの慢性的戦乱状況を鎮め、天の義が相変わらず通らないままに天下泰平を続けようとするなら、武士を弱兵に、民衆を愚民にしておとなしく飼いならすのが上策である。徳川家康はそれを見事に成功させた。身も蓋もない言い方をすれば、徳川の平和は義なき弱兵と愚民の平和なのである。
 それで済んでいたのはなぜか。幸いにも外敵が来なかった。鎖国すると宣言すれば、それでもわざわざ力ずくで極東まで押しかけてくる西洋の国はなかった。西洋の航海術も海軍力もいまだはるか遠い日本近海でマキシマムなプレッシャーをかけるまでには発達していなかった。オランダに限って長崎を開港しておくと言えば、それで済んだ。一七世紀から一八世紀の世界情勢に救われていたからこその、弱兵と愚民の天下泰平であった。〕
 
●助川城(p294)
 斉昭は、1836年(天保7年)、現在の日立市助川に「助川城」と呼ばれる海防のための要塞を築いた。1824年(文政7年)の大津浜事件の現場からも近い。
 山野辺義視を長とする士卒200名が助川城勤務を命じられた。
 幕府に、蝦夷地と鹿島の統治を認められなかったので、領内に海防施設を作った。
 
●気になる人物
 佐々宗淳(さっさむねきよ)……水戸光圀の家臣。「水戸黄門」佐々木助三郎のモデル。
 小野言員(おのときかず)……徳川光圀の守役。「かぶき者」光圀改心のきっかけを作った。(p59)
 徳川斉脩(とくがわなりのぶ)……水戸藩主徳川家8代。
 堀田正睦(ほったまさよし)……阿部正弘の跡を継いだ老中首座。
 田沼意尊(たぬまおきたか)……田沼意次の曾孫。遠江相良藩1万石の藩主。第二次天狗党討伐軍の最高司令官。
 松平頼徳……三島由紀夫の曾祖母の兄。常陸宍戸藩主。1万石。水戸徳川家の「副将軍」。
 
(2021/8/14)KG
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。