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伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生
 [歴史・地理・民俗]

伊勢神宮と出雲大社 「日本」と「天皇」の誕生 (講談社学術文庫)
 
新谷尚紀/〔著〕
出版社名:講談社(講談社学術文庫 2602)
出版年月:2020年2月
ISBNコード:978-4-06-518534-6
税込価格:1,155円
頁数・縦:257p・15cm
 
 伊勢神宮と出雲大社を対比し、天武・持統朝ですすめられた超越神聖王権について論じる。
 
【目次】
第1章 伊勢神宮の創祀
 従来の学説と、神宮創祀の基本史料
 「神話と歴史」の構成
 歴史の中の伊勢神宮
第2章 “外部”としての出雲
 王権のミソロジー(神話論理学)
 出雲世界の歴史と伝承
 祭祀王としての天皇
 出雲の地位の変化
第3章 祭祀王と鎮魂祭
 新嘗祭と大嘗祭
 鎮魂祭の歴史
 鎮魂祭の解釈
終章 “日本”誕生への三段階
 
【著者】
新谷 尚紀 (シンタニ タカノリ)
 1948年広島県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科史学専攻博士後期課程単位取得。現在、國學院大學大学院客員教授、国立総合研究大学院大学・国立歴史民俗博物館名誉教授。社会学博士。
 
【抜書】
●推古朝(p50)
 ① 記紀の三貴神の誕生と領有分担の神話の成立は推古朝よりも後であった可能性が大。
 ② 『古事記』の記す須佐之男命の八俣遠呂智退治神話の中の箸のモチーフは推古朝より後の時代のものである。
 ③ 当時の推古朝の王権には自らの国を日昇の国、太陽の昇る国であるとの意識が存在した。
 ④ 隋との交流により前代までの政治や服飾の習慣が改められ開明化がすすめられることになった。
 ⑤ 仏教文化と半島外交を掌握していた蘇我馬子に対して、新たに、隋との国交により仏教文化や国家的な諸制度や文物などの導入を直接はかろうとした厩戸皇子との間に微妙な対立関係をはらみながら、大王家の権威の確立への努力がはかられた。
 
●祭る天皇(p90)
〔 以上の四点からみて、この持統朝において祭祀が整備されていったこと、天皇(持統天皇)の神聖性が強調されてきたこと、「祈る天武」から「祭る持統」へと神祇祭祀の整備が進んだこと、などがわかる。つまり、伊勢神宮の祭祀は天武朝に本格的に始まり持統朝にその整備が進んだのである。それは新益京の造営と不可分の事業であり、政治の中核としての都城の造営と、神祇祭祀の中核としての伊勢神宮の造営とは、対をなす古代王権の基礎構築であったと考えられる。政治的な律令制と都城制に対応するのが宗教的な「神祇制と官寺制」であり、その神祇制の中核としての伊勢神宮の造営であったと位置づけられるのである。〕
 
●天照大神=持統天皇(p91)
 天照大神という皇祖神のイメージ形成と、伊勢神宮の造営は、天武・持統朝で行われた。
 天照大神のモデルとなったのは、持統天皇であった。
 ① 諡号……『日本書紀』(720年)、高天原広野姫天皇〈たかまのはらひろのひめのすめらみこと〉。『続日本紀』「大宝3年(703年)12月17日条」には、大倭根子天之広野日女尊〈おおやまとねこあめのひろのひめのみこと〉とある。ヤマトネコの諡号は、文武、元明、元正にも継続された実体性のある諡号。高天原広野姫天皇へと改定された703年~720年の17年間が、記紀の天照大神を中心とする高天原神話の最終的な形成期であった。
 ② 皇孫と神勅……天照大神と皇孫瓊瓊杵尊の関係は、持統天皇と文武天皇の関係を投影しており、「天壌無窮」の神勅はいわゆる「不改常典」の詔を反映している。
 ③ 儀礼……持統天皇の即位式において「公卿百寮〈まへつきみつかさつかさ〉、羅列〈つらな〉りて匝〈あまね〉く仰ぎみたてまつりて手拍〈てう〉つ」とあるが、拍手の作法は、これ以後の天皇の即位式のモデルとなった。『延喜式』践祚大嘗祭式においては「五位以上、共起就中庭版位跪、拍手四度、度別八遍。神語所謂八開手是也」とある。この「八開手〈やひらて〉」の拍手の儀礼は、現在でも伊勢神宮の神職の間で継承されている「八度拝〈はちどはい〉」と呼ばれる正式な拍手の作法に通じるものである。
 
●中国の史書(p105)
 中国の史書に現れる古代日本の王。
 『漢書地理誌』……BC1世紀ごろ、百余国分立。小国における王の存在。
 『後漢書東夷伝』……AD57年に遣使した委の奴国王、107年に遣使した倭国王帥升〈すいしょう〉(まだ倭国の統一が達成されていたとは考えられず、一小国の王とみる説が有力)。
 『三国志 魏書 東夷伝倭人条』……239年に遣使して「親魏倭王」の称号を受けた邪馬台国の女王卑弥呼。
 空白の4世紀。
 『宋書倭国伝』421~478年に相次いで遣使し、「安東将軍倭国王」などの称号を授けられた讃(応神または仁徳または履中)、珍(仁徳または反正)、済(允恭)、興(安康)、武(雄略)の、倭の五王。小国から統一王朝への転換。
 
●東出雲(p142)
 6世紀の東出雲の古墳から、単龍環頭大刀、双龍環頭大刀、三葉文環頭大刀など、中国・朝鮮系の大陸風飾大刀〈かざりたち〉が出土、蘇我氏との関係が窺われる。隠岐の島前〈とうぜん〉地域の立石〈たていし〉古墳でも、双龍環頭大刀が副葬されており、蘇我氏との関係が推定される。
 また、松江市南郊の有〈あり〉古墳群の中の岡田山1号墳から「額田部臣」の銘文入りの大刀が出土。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇)の部民が設置されていた。
 
●神祇祭祀(p149)
 出雲古代の祭祀の三段階。
 青銅器祭祀……弥生時代前期~中葉。1世紀中葉に消滅。銅剣・銅矛・銅鐸の神秘性、精霊崇拝的な自然霊への信仰。神庭荒神谷遺跡や加茂岩遺跡から出土した夥しい銅剣・銅矛・銅鐸。アニマイズム(精霊イズム=精霊崇拝)。
 首長墓祭祀……弥生後期から古墳時代。6世紀中葉に頂点から終焉へ。首長の身体と霊魂に対する同次元的な畏怖と祭祀の段階。キングイズム(武王イズム=巫王・武王崇拝)。
 神祇祭祀……6世紀中葉以降。霊魂観念の抽象化と象徴化。ゴッドイズム(神祇イズム=神祇崇拝)。
 
●超越神聖王権(p166)
〔 世俗王権と祭祀王権とを合体した超越神聖王権をめざした大和の天武と持統の王権が必要としたのは、大陸や半島に向かう出雲という一種の辺境世界、つまり境界世界にあって、自然信仰的な霊威力を豊かに蓄積し伝承していた出雲の王権の祭祀王としての属性であった。天武の大和王権が、世俗王としてのみならず、祭祀王としての属性をも身に帯し、かつ両者の属性を一身に享けた超越神聖王をめざしたとき、必要であったのが、前述のように「内なる伊勢と外なる出雲」という東西の両端の象徴的霊威的存在であった。この東西の両者は大和の王権にとって、東-西、朝日-夕日、太陽-龍蛇、陽-陰、陸-海、現世(顕世)-他界(幽世)、という対称性のコスモロジーの中に位置づけられるすぐれて宗教イデオロギー的な存在であった。それはまさに、〈内部〉としての伊勢、〈外部〉としての出雲、という対照的な位置づけであった。そしてそれは、北極星を背に負い北斗七星をもって運行の気を占い、青龍・白虎に朱雀・玄武という東西南北に四神を配する中国王朝の天子南面の南北軸中心のコスモロジーとは別の、太陽の運行観測と海上他界観念とを基盤として日本の古代王権が独自に想定していった東西軸のコスモロジーによるものであった。七世紀末から八世紀初頭にかけて成立した大和の超越神聖王権とは、このように、〈外部〉としての出雲、の存在を必要不可欠とした王権だったのである。〕
 
●肉食(p186)
 古来、7~8世紀までは天皇をはじめ貴族層も肉食を行っていた。この頃の「肉食禁止令」は、仏教の殺生禁断の思想と天皇の病気平癒の祈願による臨時的なもの。
 9~10世紀になると、肉食が禁忌視されるようになった。神祇信仰と神祇祭祀の純化から血穢や死穢の忌避が強調されたものであり、恒常的な行動規範となっていった。〔それは、律令官人から摂関貴族へと転身していった平安貴族たちにとって必然的な変化であり、神聖なる「まつりごと(神祇祭祀と摂関政治)」に奉仕するためには、身体の清浄性こそが必要不可欠と考えられるようなったからであった。〕
 
●清和天皇(p213)
 藤原良房による幼帝清和天皇(858年即位)の擁立こそが、「祭祀王」誕生の画期だった。
 新たに純化された「祭祀王」にとっての最重要の儀式として、鎮魂祭が新たに再編成された可能性が大きい。「祭祀王」天皇の誕生で、〈外部〉としての出雲が必要なくなった。内なる〈外部〉としての摂関や内覧という「世俗王」という装置を作り出した。
 
(2024/2/12)NM
 
〈この本の詳細〉


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