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世界史の中の戦国大名
 [歴史・地理・民俗]

世界史の中の戦国大名 (講談社現代新書)
 
鹿毛敏夫/著
出版社名:講談社(講談社現代新書 2723)
出版年月:2023年10月
ISBNコード:978-4-06-533218-4
税込価格:1,210円
頁数・縦:317p・18cm
 
 遣明船の時代から江戸幕府の鎖国に至るまでの間に、海外、特に東南アジアとの交易に携わった西国の戦国大名たちの足跡を追い、その意義を論じる。
 
【目次】
第1章 「倭寇」となった大名たち―戦国大名と中国
第2章 外交交易対象の転換―対中国から対東南アジアへ
第3章 対ヨーロッパ外交の開始とその影響
第4章 戦国大名領国のコスモポリタン性
第5章 東南アジア貿易豪商の誕生
第6章 日本と世界をつないだ国際人たち
第7章 戦国大名の「世界」と徳川政権の「世界」
 
【著者】
鹿毛 敏夫 (カゲ トシオ)
 1963年生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院人文科学府博士後期課程修了。博士(文学)。現在、名古屋学院大学国際文化学部長・教授。専攻は日本中世史、日本対外交渉史。
 
【抜書】
●天正遣欧使節(p13)
 天正10年(1582年)ローマへ。
 巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノと大村純忠、有馬晴信が主導した。大友義鎮(宗麟)の権威を借りて、派遣主体を3名の大名とした。
 教皇やイエズス会総長への書状を偽作してでも、Coninck van BVNGO(豊後王)からの派遣という形式と記録を整え、その王である大友義鎮の名代としての主席正使伊東マンショの派遣を演出する必要があった。
 
●カンボジア、タイ、メキシコ(p20)
 16世紀半ば以降、戦国大名の活動は東南アジアにおよんだ。
 松浦氏はアユタヤ国王への書簡と武具を贈答。大友氏は、1570年代初頭までにカンボジア国王との外交関係の締結に成功した。島津氏は、豊薩合戦以降、軍事的優位に立ち、豊後とカンボジアの通交を遮断し、自らカンボジアとの善隣外交関係を構築しようとした。
 伊達政宗は、メキシコ経由で慶長遣欧使節を派遣した。
 
●BVNGO、Bungo(p39)
 ポルトガルのイエズス会士ルイス・ティセラ(Luis Teixeira)が1595年に作成した日本地図には、本州部分をIAPONIAとし、九州全体をBVNGOと表記していた。
 1610年、オランダの地理学者ペトルス・ベルチウス(Petrus Bertius)が作成したアジア図にも、本州をJapan、九州全体をBungoと記している。
 九州全体を、日本(本州)に並立する「豊後」という国であると錯覚していた。
 
●硫黄(p55)
 宝徳3年(1451年)の遣明船団の積み荷。サルファーラッシュ。
 銅15万4500斤(92.7トン)、硫黄39万7500斤(238.5トン)。
 中国への硫黄の輸出は、10世紀末から確認できる。宋代の中国では、兵器としての火薬の利用が拡大し、黒色火薬の原料として硫黄、硝石、木炭の需要が急増した。宋国内では、硫黄はほとんど産出しなかった。
 
●1571年(p67)
〔 グローバルヒストリーを含めた世界史と日本史における近年の多面的研究の成果によると、一六世紀における歴史の画期は、一五七〇年前後に求める考え方が一般的である。古くはチャールズ・ボクサーが指摘し、一九九〇年代にはデニス・フリンらが主張したように、旧来の個別大陸間の中距離交易に加えて、アジア・ヨーロッパ・アフリカ・アメリカの四大大陸を結ぶ恒常的な海上貿易の連環が完結して、いわゆる「世界貿易」が誕生した一五七一年が大きな画期としてとらえられる。その重要要因は、中国における銀の大量需要である。無論、銀の大流通に共時性の基礎をおく時代認識は、地域によって強度が異なるが、一五七一年前後の世界貿易の活性化は、地域による強さや方向性の相違を超えて相互に比較するに足るレスポンスを生み出している(岸本美緒「銀の大流通と国家統合」)。
 さらに、明代中国史研究においても、海禁と朝貢貿易に伴う厳しい経済統制の維持が困難になった明朝が、一五六〇年代末についに海禁を緩和したことを大きな画期としてとらえ、一五七〇年前後からの東アジア海域が、「互市〈ごし〉」「往市〈おうし〉」などの多様な民間交易の秩序を新たに形成していく過程を、「一五七〇年システム」と称する研究もある(中島楽章「一四~一六世紀、東アジア貿易秩序の変容と再編――朝貢体制から一五七〇年システムへ」)。
 
●実利・対等(p127)
〔 中華とその周辺国の上下関係を前提とした冊封体制とはまったく性格を異にする外交関係が、一六世紀後半という時期に、本来は国を代表する外交権を保持するとは考えがたい「地域国家」の主権者=戦国大名の手によって開拓されたことは一見、奇異に見える。しかしながら、逆に考えれば、かつて室町将軍足利義満や天下人豊臣秀吉らが抜け出すことのできなかった東アジアの伝統的国際秩序を、きわめてシンプルな形で打ち破ることができたのは、古代以来の伝統の呪縛にとらわれる必要がなく、実利・対等を基軸とした新たな二国関係を比較的安易に獲得しやすい彼らの政治的立場と地政学的環境がその要因になっていたのだろう。〕
 
●16世紀半ば~17世紀初頭(p146)
〔 日本の歴史のなかで、一六世紀半ばから一七世紀初頭という時期は、地方社会が世界に直接つながることができた稀有な時代である。それを可能とした要因は、国内においては、戦国時代の政治権力の地域割拠性と自律性、造船や船舶航海技術の進歩、地域での産業と経済の発展であり、また世界においては、環シナ海域(東シナ海域と南シナ海域)レベルでの経済・交易活動の活発化、「大航海時代」を経験した西欧諸国の東アジア到達である。こうした要素のうち、どれか一つでも欠けていたならば、日本列島の地方の都市や町でのコスモポリタン性の萌芽は、二〇世紀末からの現代を待つことになっていたであろう。〕
 
●伊倉(p169)
 肥後国伊倉(熊本県玉名市)に、「肥後四位官郭公墓〈しいかんかくこうぼ〉」と呼ばれる唐人墓がある。16世紀初頭に活躍した「唐人」、朱印船貿易に携わった郭濵沂〈かくひんき〉の墓。海澄県(現在の福建省漳州〈しょうしゅう〉)出身。元和5年(1619年)仲秋(旧暦の8月)に、子息の国珍と国栄が建立。立碑形式の石製墓碑を墳丘の前に立てる中国華南地方の墓地様式。
 このほかにも、伊倉とその周辺には謝振倉〈しゃしんそう〉と林均吾〈りんきんご〉の唐人墓もある。
 伊倉には現在も「唐人町」の地名が残っており、有明海に注ぐ川も「唐人川」と呼ばれている。
 
●豊後の豪商仲屋氏(p205)
 初代仲屋顕通〈けんつう〉、二代目宗越(宗悦)。豊後府内の商人、16世紀半ば、天文年間の九州で第一と称された豪商、政商。豊後の領主大友氏から認められた規格の秤によって、富を築いた。「乾通の遺秤」。
 顕通は、もともと貧しい酒売り商人だった。
 肥後に進出して、豊田荘の中央部を流れる緑川〈みどりがわ〉の流通路を掌握し、川荷駄賃〈かわにだちん〉の利益を得ていた。
 そのほか、①年貢納入の複数年請負契約による米の投資的運用に伴う収益、②地域升の規格差を利用した換算差益、③米と銭の「和市」相場の変動を利用した交換差益、という仕組みで富を築いていった。
 宗越は、大坂・京都・堺にも商業活動の拠点を持っていた。臼杵の唐人町懸〈かけ〉ノ町にも広大な屋敷を有していた。
 カンボジア交易を手掛ける明の貿易商人と取引関係を結び、東南アジア方面の物資を入手していた。
 
●中国の海賊船(p246)
 1547年12月、フランシスコ・ザビエルはマラッカの教会で、アンジロウという人物に出会い、日本という国の存在を知る。ローマのイエズス会員にあてた書簡でそのことを伝えている。
 その中に、中国の海賊に関する記述がある(河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』)。
 「私は心のうちに私自身が、あるいはイエズス会の誰かが、二年以内に日本へ行くようになるだろうと思います。その渡航はたいへん危険で、大暴風雨に遭いますし、海上には積み荷を盗ろうと往来する中国の海賊船がいますし、〔航海の途中で〕たくさんの船が難破していますけれど、それでも私たちは行きます。」
 
●家康の東南アジア外交(p280)
 初期徳川政権の外交姿勢は、前政権のものとは明らかに異なるものであった。家康は、秀吉の強硬外交政策をあらため、明や朝鮮などとの国交回復交渉を開始した。
 東南アジア諸国(カンボジア、安南、シャム、ルソン《スペイン領フィリピン》)にも親書を送り、外交・貿易関係の復活に成功した。日本国内の戦乱が終結し、朱印を捺した日本船が各国に到着した際には受け入れ、それ以外の船には通商を認めないよう求めた。相手国から日本への渡航を望む人間への往来許可も求めた。
 17世紀に来航したスペイン、オランダ、イギリス各国も歓迎し、日本での貿易を許可したり、朱印船制度によって一定の規制をかけながら日本人の海外渡航・貿易を認めたりした。特に、オランダに対しては、カトリックと敵対する国の商人であることから優遇した。
 
●鎖国=海外貿易の独占(p289)
 元和2年(1616年)、江戸幕府は、中国船を除く外国船の寄港地を平戸と長崎に限定。
 寛永元年(1924年)には、スペイン船の来航を禁じる。
 寛永10年、日本船の海外渡航を、朱印状に加えて老中奉書による渡航許可を受けた船に限定。
 寛永12年(1635年)、日本人の海外渡航と在外日本人の帰国を禁止、さらに500石積み以上の大船の建造禁止令を出す。
 その後、九州各地に訪れていた中国船の入港地を長崎に限定、寛永16年には、ポルトガル船の来航を禁止、寛永18年に平戸のオランダ商館を長崎の出島に移す。
〔 こうしていわゆる江戸時代の「鎖国」の状態が完成し、以後、日本は二〇〇年余りの間、朝鮮国・琉球王国・アイヌ民族・オランダ商館・中国の民間商船に絞った外交交易関係を幕府が管理し、それ以外の海外諸勢力との交渉を閉ざした。また、幕府以外の国内諸大名や民間商人らが外交交易の前面に立つ場をつぶし、幕府が対外関係を一元的に統制する体制を完成させた。この「鎖国」体制によって、幕府は対外貿易を独占することになり、近世日本の地域社会において、産業や経済、文化に与える海外からの影響は制限されることになった。すなわち、江戸幕府による「鎖国」は、消極的に国を閉ざしたのではなく、その半世紀前までの戦国大名が個別に開拓・保持し、その富強化の根源としていた諸外国との外交と貿易の権利を、日本国唯一の統一政権として一元的に管理・統括する、積極的世界戦略だったのである。〕
 
●大友氏改易(p302)
 大友義鎮の跡を継いだ義統〈よしむね〉は、秀吉の偏諱を受けて「吉統」と改名した。
 文禄の役で、城に籠る小西行長軍が、反撃してきた明・朝鮮連合軍に包囲され退却する際に、援護をせずに自ら退却したとの責めを受け、改易された。
 
●対等外交(p307)
〔 さらに、一六世紀後半に芽吹いた日本の脱中華および対等外交の素地は、その後、近世徳川政権による二百数十年間の管理・温存を経て、一九世紀半ば過ぎにあらためて登場したロシア、アメリカ、イギリス等欧米諸国との交渉場面に応用された。中国に三跪九叩頭〈さんききゅうこうとう〉する必要を伴わない外交の実現が、東アジアの日本という国から起こったことで、この圏域内の伝統的国際秩序は終焉へと向かうことになった。一九世紀以降の東アジアにおいて、中国や朝鮮が社会の近代化に苦しむなか、日本がいち早くそれを成し遂げることができたのは、その三〇〇年前の一六世紀に、大内、大友、相良らの戦国大名がある時は「日本国王」を偽証し、またある時には倭寇的扱いを受けながらも、中華世界へのアプローチに腐心した「経験」が、潜在的に受け継がれたからに他ならない。その経験によって、古代から室町時代までの日本の各政権にとって絶対的存在だった「中華」を世界のなかで相対的に見る思想が芽生え、その外交思想が、やがて数百年後の近世末期に再び訪れた外圧に対する主体的な対処を誘発し、東アジア諸国のなかで比較的早いスピードでの近代的な「国家」形成に結実したのである。〕 
 
(2024/2/6)NM
 
〈この本の詳細〉


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