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縄文人と弥生人 「日本人の起源」論争
 [歴史・地理・民俗]

縄文人と弥生人-「日本人の起源」論争 (中公新書 2709)
 
坂野徹/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2709)
出版年月:2022年7月
ISBNコード:978-4-12-102709-2
税込価格:1,034円
頁数・縦:301p・18cm
 
 「明治期から1990年代にいたる日本人起源論の歴史を、人類学者、考古学者の『合作』という観点からながめつつ、同時代の政治・社会状況のなかに位置づける」(p.280、あとがき)。学史研究ということなのだが、人類学よりも考古学の内容のほうが濃い。日本においては考古学のほうが歴史があり、優勢だからであろうか。
 
【目次】
第1章 日本人類学・考古学の誕生と人種交替モデル
第2章 日本人とは誰か
第3章 人種交替モデルを越えて
第4章 土器編年と日本人起源論
第5章 日本に旧石器時代は存在したか
第6章 アジア太平洋戦争と縄文・弥生研究
第7章 敗戦と考古学の時代
第8章 人種連続モデルと縄文/弥生人モデル
終章 縄文/弥生人モデルと縄文の時代
 
【著者】
坂野 徹 (サカノ トオル)
 1961年東京都生まれ。九州大学理学部生物学科卒業。東京大学大学院理学系研究科(科学史・科学基礎論専攻)博士課程単位取得退学。博士(学術)。日本大学経済学部教授。専門は科学史、人類学史、生物学史。
 
【抜書】
●人類学会(p5)
 坪井正五郎(しょうごろう、東大理学部生物学科学生)が、白井光太郎(みつたろう、のちの植物病理学者)、有坂鉊蔵(しょうぞう、予備門生徒、のちの工学者・海軍中将)らと1884年に結成。東大理学部の植物学教場を借り、「じんるいがくのとも」と称するよりあい(研究会)を開催したのが始まり。第5回目以降、「人類学会」を名乗るようになる。2年後には「東京人類学会」と改名。
 坪井たちは、エドワード・モースによる大森貝塚発掘から大きな刺激を受けていた。直接発掘に参加したわけではない。
 坪井正五郎……1863年、両国矢ノ倉(現・日本橋)に幕府の奥医師・坪井信良(しんりょう)の子として生まれる。東京英語学校、大学予備門を経て81年に東大理学部に入学。指導する研究者がいないにも関わらず、人類学専攻という名目で大学院に進学。イギリス留学を経て92年に帝国大学の人類学教授に就任。しかし、人類学教室は、1939年まで正規の所属学生を持つ学科とはなれず、選科生を受け入れるのみだった。
 
●小金井良精(p20)
 こがねいよしきよ。1859年、越後国長岡の中級武士の次男。妻の喜美子は森鴎外の妹、孫が星新一。
 大学南校を経て、15歳で第一大学区医学校(東大医学部の前身)に入学。1880年にドイツに官費留学、シュトラスブルク大学のヴァルダイヤーのもとで解剖学・組織学を学び、1885年に帰国、東大医学部教授に。
 坪井と「アイヌ・コロボックル論争」を展開。
 ジョン・ミルンが、北海道の竪穴住居はコロボックル(コロポクグル)のものであり、北海道ではコロボックル→アイヌ→日本人というように人種交替したと主張。坪井がコロボックル先住民説を支持、小金井は日本の先住民はアイヌだと主張、コロボックル説を否定。
 坪井「コロボックル風俗考」(『風俗画報』、1895-96)。
 
●縄紋(p27)
 モースが大森貝塚の発掘報告書で、出土した土器をその形状から「cord marked pottery」と命名。その邦訳版で矢田部良吉(植物学者)が「索紋(さくもん)土器」と訳した。
 その後、文献上で白井光太郎が「縄紋」という用語を用い(1886年)、これ以降、人類学会関係者の間で「縄紋」の使用が増えていった。
 「縄文」は、神田孝平が使用したのが最初(1888年)というのが定説だが、偶発的な誤植の可能性が高い。里見絢子「「縄紋」から「縄文」への転換の実相」(『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』39号、2015年)。
 
●固有日本人説(p48)
 鳥居龍蔵(1870-1953)……坪井死去後、1922年、東大人類学教室の2代目責任者(助教授)。24年6月、東大辞職。國學院大學、上智大学、ハーバード大学燕京(イェンチェン)研究所(北京)の教授を歴任。「古代の日本民族」(1916年)、『有史以前の日本』(1918年)にて、固有日本人説を説く。
 日本の先住民はアイヌ。「今日アイヌの遺民族は、我が北海道および樺太の南部、ならびに千島等に残っているが、これらはのちに入り込んで来た我々日本人の祖先のため駆逐されて、漸次そうなってしまった」。
 日本人の祖先は、①固有日本人、②インドネジアン、③印度支那民族の三つの集団。混血によって日本人が成立した。
 ① 固有日本人……「日本民族の主要部を形(かたちづく)っているもので、その人数も多く、かつその分布の区域も比較的広く行きわたっている」。古代史のいう国津神。石器時代より土着、弥生式土器を残した。朝鮮半島を経て日本に渡来した。さらに、金属器使用の時代になって、同族が北方から段々と渡来した。「『古事記』『日本紀』等にも現れている所の事実」。
 ② インドネジアン……「極めて原始的の馬来で文化の程度低く」、主としてスマトラ、ボルネオ、セレベス、フィリピン、台湾などに居住する民族。
 ③ 印度支那民族……「南支那に古くより在住する苗族(ミャオ族)系統の印度民族」。銅鐸を日本にもたらした。
 アイヌが縄文土器を残し、日本人の祖先が弥生土器を残した。
 
●京大考古学教室(p59)
 1916年、濱田耕作が京都大学文学部考古学講座(教室)を創設。
 濱田耕作……1881年、大阪府岸和田生まれ。東京帝国大学文科大学史学科で美術史を学ぶ。学生時代に人類学会に入会し、『人類学雑誌』に坪井のコロボックル説批判の論考も発表。1909年、京都帝国大学文科大学講師。37年、京大総長となるが、翌年、急死。
 
●トムセン(p61)
 デンマークのトムセンは、19世紀前半に、考古学の基礎となる三時代法(三時代区分法)を提唱。石器時代、青銅器時代、鉄器時代。
 その後、スウェーデンのモンテリウスが、1880年代にヨーロッパの新石器・青銅器・鉄器時代をさらに細かく区分した。
 
●日本原人(p81)
 清野謙次(きよのけんじ、1885-1955)が唱えた混血説。現代日本人もアイヌも、日本石器時代人(日本原人)がそれぞれ「隣接人種」との混血が進んだ結果として成立したと主張。
 清野謙次……京大医学部を卒業してドイツに留学。帰国後、母校の講師に。21年に微生物学教授、28年から病理学教室の専任に。もともと病理学者だったが、スペイン風邪に罹患して生死の境をさまよい、幼い頃から関心のあった考古学に転向した。収集した人骨は約1400体。津雲貝塚74体、吉胡貝塚(よしごかいづか、愛知県)307体、海外など。
 
●編年学派(p107)
 縄文土器の編年体系を確立した山内清男(やまのうちすがお、1902-70)、八幡一郎、甲野勇の三羽烏。
 いずれも東大人類学教室の選科に学んだ。
 山内は、選科修了後の1924年、東北大医学部の長谷部言人(はせべことんど、1882-1969)のもとで副手となった。しかし、33年に東北大を辞して、34年に八幡、甲野らとともに原始文化研究会(37年より先史考古学会)を主宰。
 
●弥生土器の編年(p118)
 弥生土器の編年の基礎となる研究を本格的に始めたのは森本六爾(もりもとろくじ、1903-36)と小林行雄(ゆきお、1911-89)。
 
●縄文/弥生人モデル(p141)
 縄文人から弥生人へと日本列島の支配者が交替したという「人種交替モデル」を否定。闘争ではなく、平和裡の融合があった。
 
●人種連続モデル(p250)
 敗戦直後の時点では、「人種連続モデル」と「縄文/弥生人モデル」の二つの立場があった。
 人種連続モデル……長谷部、清野、山内らが主張。縄文から弥生(さらにその後)への「人種」的連続性を想定。
 縄文/弥生人モデル……縄文文化と弥生文化の担い手の「民族」的違いを想像。
 
●渡来説(p254)
 渡来・混血説とも。金関丈夫(かなせきたけお、1897-1983)が提唱。
 縄文時代の晩期に、北九州・山口地方に「朝鮮石器時代人」が「より高級な新しい文化」とともに渡来し、土着したところ、これが従来の「縄紋人」の体質に影響を与えて、「土井ヶ浜人」のような体質を生み出した。だが、その渡来は一時的であり、その数は在来の「縄紋人」に比べてはるかに少数であったため、彼らの特徴は土着の「縄紋人」に吸収されて、「縄紋人」に類似する古墳時代人へと移行した。
 金関丈夫……京都大学医学部で解剖学を学ぶ。京大医学部助教授を経て34年に台北医学専門学校教授として赴任。50年に九州大学医学部教授に。53年、三津永田遺跡(佐賀県吉野ヶ里町)や土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)を発掘。三津永田で約30体、土井ヶ浜で計207体の弥生人骨を発掘。甕棺や石棺などに埋葬されていた。
 
(2022/12/6)NM
 
〈この本の詳細〉


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