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苦学と立身と図書館 パブリック・ライブラリーと近代日本
 [ 読書・出版・書店]

苦学と立身と図書館 パブリックライブラリーと近代日本
 
伊東達也/著
出版社名:青弓社
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-7872-0074-7
税込価格:2,860円
頁数・縦:262p・19cm
 
 江戸時代から明治・大正期にかけての公共図書館の歴史と意義、利用のされ方をたどる。
 
【目次】
序章 “public library”と日本の図書館
第1章 日本的図書館観の原型
第2章 パブリック・ライブラリーを日本に
第3章 東京遊学と図書館の発見
第4章 読書装置としての貸本屋と図書館
第5章 苦学と立身と図書館
第6章 勉強空間としての図書館の成立
 
【著者】
伊東 達也 (イトウ タツヤ)
 1965年、福岡県生まれ。九州大学大学院人間環境学府教育システム専攻博士課程単位取得退学。博士(教育学)。山口大学人文学部講師。専攻は図書館学、日本教育史。
 
【抜書】
●文庫、神社(p32)
〔 「文庫」と「貸本屋」それぞれの社会的機能を、近代公共図書館へと展開する可能性をもった読書施設に伝統的に備わるものと捉えたとき、書籍の貸借だけでなく、書庫や閲覧室といった読書空間を備えた建物としての図書館により近いのは「文庫」であり、その内容と機能では近世の文庫は近代の図書館と同質の要素をもっていたといえる。こうした性格と機能の類似性があったからこそ、近代公共図書館が制度上に登場した際に、人々はそのコンセプトを受け入れることができたのであり、現在の日本図書館協会の創設時(一九〇七年)の名称が日本文庫協会だったことにもあらわれているように、読書施設としての図書館は主に「文庫」に対する概念を底流として受容されたと考えることができる。
 基本的に武家のための文庫だった藩校付属の文庫を除き、一般庶民にも公開された文庫には、古来、神社に対する贄の一種として奉納されてきた図書を基礎として成立した神社文庫が多くあった。神社は市井を離れて森林や山中にあるのが普通であるために火災の被害がまれで、冒すことができない神域として万人に崇敬されているため破壊や戦禍を受けることがなく、図書を保存して文庫を設けるのに適していた。神社文庫のなかには、神職である国語学者による古典の収集・保存運動を起源とするものが多いことが指摘されている。〕
 
●櫛田文庫(p34)
 櫛田文庫(桜雲館)は、1818年(文政元年)、福岡藩大目付だった岸田文平によって筑前博多の櫛田神社内に設けられ、一般に公開された。
 利用が盛んになってくると、市中の若者たちが「読書に耽り家業怠り勝ち」になり「風紀面白からず」という状況になったため、藩命で「御取り止め」になった。神職を中心とした神道復興運動の拠点となってしまい、東学問所修猷館、西学問所甘棠館に匹敵するような学問所・桜雲館として発展させることができなかった。
 
●図書館令(p50)
 1899年(明治32年)、図書館令が公布される。
 この頃、都市部に次々と大規模な私立図書館が造られた。設立者が外遊し、当時欧米で盛んだった公共図書館に直接接したことが契機となって、私費を投じて設立された。
 南葵文庫(1899年、東京)、成田図書館(1901年・千葉)、大橋図書館(1902年、東京)、など。
 福岡図書館は、これらと異なり、福岡に存在した国学者のネットワークの中から発生した。
 
●納本制度(p127)
 1875年(明治8年)に始まった制度。
 出版物を公刊する際、出版条例に基づく検閲のために内務省に提出された数冊のうち一部が東京図書館に納本される。法律学校や医学校の講義録、資格試験の問題集なども含まれていた。
 
東京図書館(p131)
 1872年(明治5年)、書籍館として設立された。
 1875年(明治8年)、東京書籍館となる。書籍館が博物館とともに太政官の博覧会事務局に移管された後、文部大輔田中不二麿によって設立された。文部省所管。入館料(閲覧料)無料。77年から3年間、東京府に移管された。
 1880年(明治13年)~、東京図書館として、文部省の所管に戻る。
 1897年(明治30年)より、帝国図書館となる。
 東京図書館では、開館から85年(明治18年)まで、湯島聖堂にあったあいだは入館料(閲覧料)無料だった。上野に移転してから有料になった。
 
●物之本(p146)
 江戸時代、商品としての本は、おおきく「物之本」と「草紙」の2種類に分かれていた。
 物之本……教養書、実用書。販売を目的とした書店で扱われる。「本屋」という語は、「物之本屋」の略語。
 草紙……挿絵が入った読み物や物語。主に貸本屋が扱う。
 
●黙読(p160)
 人々の読書習慣の主流が音読から黙読に移行した時期は、1900年前後(明治30年代)ごろ。
 1909年に出版された『読書力の養成』では、「汽車の中や、電車の中や、停車場の待合室にて、をりをり新聞、雑誌の類を音読する人あるを見受く。調子のよき詩歌や美文ならともかく、普通の読物を音読するにても、其の人の読書力は推して知るべし」と記す。音読することが読書能力の低さの表れと見なされている。
 
(2021/2/27)KG
 
〈この本の詳細〉


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