SSブログ

反日種族主義との闘争
 [社会・政治・時事]

反日種族主義との闘争
 
李栄薫/編著
出版社名:文藝春秋
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-16-391259-2
税込価格:1,815円
頁数・縦:391p・19cm
 
 前著『反日種族主義』に対する「反日種族主義者(?)」からの反論への再反論集。
 
【目次】
プロローグ 幻想の国(李栄薫)
第1編 日本軍慰安婦
第2編 戦時動員
第3編 独島
第4編 土地・林野調査
第5編 植民地近代化
エピローグ 悪い風俗、浅薄な文化、国家危機(李栄薫)
 
【著者】
李 栄薫 (イ ヨンフン)
 ソウル大において韓国経済史研究で博士学位取得。韓神大、成均館大を経てソウル大経済学部教授に就任。定年退職後は、李承晩学堂の校長として活動している。
 
【抜書】
●明の皇室(p24、李栄薫)
 18~19世紀の朝鮮王朝の国王たちは、大報壇での祭祀を通じて明の皇帝たちの霊魂と接触し、すでに消滅した明の皇室の一員として昇格した。朝鮮の王朝は、その血統が中国化した。
 
●日本に背向(p25、李栄薫)
 「韓半島は、人間が両足を広げて西方の中国に向けて手を広げているような形をしている。韓国と中国は、地理的にも、歴史的にも親しい。しかし、日本とは背を向けているような形だ。韓国と日本は、地理的にも歴史的にも親しくない。」
 『取り戻す我々の歴史』(韓永愚、1997年)からの引用。韓教授の国土生命体論。
 
●就業承諾書(p44、李栄薫)
 従軍慰安婦になるには、戸籍謄本(のような書類)と戸主の就業承諾書が必要だった。
 1942年『在支半島人名録』には、日本人慰安所とそこに所属する慰安婦の名簿が掲載されている。
 朝鮮人同胞社会の一員であるという証。奴隷的存在とはみなしていない。
 慰安婦は自分の名前も書けない無学な者が多かった。名簿に名前が載っているということは、戸籍謄本と就業承諾書が揃っていた可能性が高い。略取や誘拐ではない。
 
●残忍な心性(p53、李栄薫)
 セウォル号事故の発生日が近づくと、全教組の教師たちは、「おい、僕、本当に死ぬの?」などの、事故当時に生徒たちが書いた携帯電話の文字メッセージを読ませ、「もし自分がセウォル号にいたら言ったと思う言葉を想像してみろ」と子どもたちに迫るらしい。ある精神科医師は、「外国では想像すらできない児童虐待」と断言(金泰勲〈きむちふん〉「慰安婦歴史、小学生が学ぶべきか」『朝鮮日報』、2018年7月)。
〔 全教組の教師たちが、セウォル号事故をそんなに執拗に教える理由は何でしょうか。その事故が起きたときの右派政府を攻撃し、呪うための政治的意図からです。その点を否定することは難しいと思います。この国の教育は、そのような政治的な偏りの中で、子供たちに限りなく残忍な心性を教え込んでいます。慰安婦問題に対する教育も同様です。日本との友好は永遠にできないという憎悪心を植え付けるために、そのような教育をしているのです。〕
 
●我々の中の慰安婦(p59、李栄薫)
〔 多くの慰安婦が妊娠の被害にさらされるのは、むしろ解放後の“我々の中の慰安婦”の時代です。韓国軍、米国軍、民間の慰安婦の総数は、なんと解放前の一〇倍以上に膨張しました。彼女たち、即ち”我々の中の慰安婦”の境遇は、労働強度、所得水準、性病感染、妊娠被害、業主との関係などの面で、開放以前の日本軍慰安婦よりはるかに劣悪なものでした。その点を、私は『反日種族主義』の中で納得しやすく伝えたと自負しています。〕
 
●常民(p152、注23)
 「良民」「常人(サンノム)」とも呼ばれる。社会の大多数を占める農民・手工業者・商人ら。
 朝鮮王朝の身分は、支配階級の両班(やんばん:文班・武班)、中人(翻訳や医学等に従事する技術者)、常民、賤眠(奴婢など)に大別される。
 両班と常人との差別的身分制度を「班常(ぱんさん)制」と呼ぶ。
 
●想像の政治的共同体(p153、鄭安基〈チョン・アンギ〉)
〔 果たして民族意識が皇民化政策によって、そんなにもたやすく抹殺されるものなのか、についても疑問です。実は民族とは、二〇世紀初葉に朝鮮人が日本の統治を受けるようになってから発見された、想像の政治共同体です。実体性が欠如した想像の集団意識であるため、民族はむしろ強靭な生命力を持っています。我々は檀君を始祖とした拡大家族としての運命共同体だ、という歴史意識がまさにそれです。朝鮮人は、植民地期を経ながら民族としての“正体/民族的アイデンティティ”を発見し、彼らの歴史と伝統文化に対し自負心を持ち始めました。〕
 
●1万人の密航者(p221、李栄薫)
〔 一九五三年七月に韓国戦争が終わりました。一九五四年四月にはジュネーブ会議で戦後処理の会談が開かれますが、そのとき「大韓民国を解体し韓半島の統一問題をもう一度交渉し直そう」と提案する北朝鮮と中国の攻勢を、李承晩大統領は成功裡に防ぎました。大韓民国が国際社会において国家としての地位を確保するのは、このジュネーブ会議を通じてでした。その後、李承晩大統領が自国民に訴えたのは、大韓民国の精神的独立でした。当時の韓国人たちの精神は、まとまりがなくバラバラでした。多くの人が、南北の分断と戦争による貧困と混乱に疲れ果て、日本に密航しました。日本で逮捕され長崎の収容所に入れられた人たちが、一時期は一万人を超えました。多くの人々が、「日政期のほうが良かった」と過去を偲びました。多くの人々が、日本の歌を好んで歌いました。内心で日本の再統治を望む人々も、少なくありませんでした。〕
 
●一歩ずつ引き下がる(p230、李栄薫)
 〔私は、地理的要件からすれば独島領有の正当性がなくはないが、また、李承晩大統領の独島編入が持つ歴史的意義も大きいが、それだけで国際社会を説得するのは力不足だと思います。于山島は幻想の島でした。“石島=独島”説は有効ではありません。したがって、日本と断交する覚悟でなければ、両国が一歩ずつ引き下がって紛争を封印するのが正しいと思います。一九六五年の独島密約のように、お互いに譲り、尊重し、配慮する姿勢に戻らなければなりません。それからは、両国の政府と国民が協力する中で、明るい未来の東アジアを作っていかなければなりません。そのような姿勢で、独島を海の真ん中にある無用の岩島ではなく、夜空に光る星へと昇格させなければなりません。両国民が共有する永遠不変の理性と自由と道徳律の象徴としてです。〕 
 
(2021/3/28)KG
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

神楽坂つきみ茶屋 禁断の盃と絶品江戸レシピ
 [文芸]

神楽坂つきみ茶屋 禁断の盃と絶品江戸レシピ (講談社文庫)
 
斎藤千輪/〔著〕
出版社名:講談社(講談社文庫 さ123-1)
出版年月:2021年1月
ISBNコード:978-4-06-522235-5
税込価格:715円
頁数・縦:290p・15cm
 
 交通事故で亡くなった両親。その遺産として受け継いだ、神楽坂の老舗料亭「つきみ茶屋」。しかし、幼い頃のある出来事がきっかけで、月見剣士(つきみ けんじ)は刃物に恐怖心をもっており、包丁が握れない……。
 そこで、幼馴染の風間翔太とともに、店を改装してワインバーとして開店することにする。先々の計画を練っていた矢先、金の盃に封じ込められていた江戸時代の料理人の玄さんに翔太が取り憑かれてしまい、てんやわんやの騒動に。
 
【目次】
プロローグ 宙を飛ぶ本マグロの大トロ
第1章 禁断の盃と豆腐百珍
第2章 秋の味覚 白葡萄・松茸・鴨
第3章 江戸の定番 あったか箱膳料理
第4章 ハレの日の菊料理と栗ご飯
第5章 腕試しの江戸料理 結び豆腐
エピローグ 幸福なる味噌汁の香り
 
【著者】
斎藤 千輪 (サイトウ チワ)
 東京都町田市出身。映像制作会社を経て、現在放送作家・ライター。2016年に「窓がない部屋のミス・マーシュ」で第2回角川文庫キャラクター小説大賞・優秀賞を受賞してデビュー。「ビストロ三軒亭」シリーズがベストセラーに。最新刊は双葉文庫ルーキー大賞第2回受賞作の『だから僕は君をさらう』。
 
(2021/3/21)
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

めんどくさい本屋 100年先まで続ける道
 [ 読書・出版・書店]

めんどくさい本屋―100年先まで続ける道 (ミライのパスポ)
 
竹田信弥/著
出版社名:本の種出版(ミライのパスポ)
出版年月:2020年4月
ISBNコード:978-4-907582-21-0
税込価格:1,870円
頁数・縦:241p・19cm
 
 双子のライオン堂の店主が、自らの生い立ちと考え方、同店のコンセプトを語るエッセー。そして、お店の常連・支持者による座談会。
 「本愛」が伝わる一冊である。生活するための「(生業としての)本屋」ではなく、本屋をやるための生活(アルバイトや副業)という発想の転換が潔い。「本屋で稼ぐ」のではなく、「本屋を続けるために稼ぐ」という考え方だ。生き方は人それぞれだ。
 
【目次】
第0章 双子のライオン堂と店主の日常―ある1週間の動き
第1章 気がつけば本屋をやっていた
第2章 2足・3足・3足の草鞋を履く男
第3章 100年続ける本屋の現在地
第4章 この場所に集まる人たちと
第6章 双子のライオン堂の「外側」から
 
【著者】
竹田 信弥 (タケダ シンヤ)
 1986年東京都生まれ。双子のライオン堂・店主。高校2年時にネット古書店を開業し、2004年5月に双子のライオン堂へリニューアル。大学卒業後はベンチャー企業勤務などを経て、2013年4月、東京都文京区白山にリアル店舗をオープン。2015年10月に東京都港区赤坂に移転した。「ほんとの出合い」「100年残る本と本屋」を同店のコンセプトに掲げ、店舗運営のかたわら、読書推進活動などにも携わっている。
 
【抜書】
●二つのコンセプト(p108)
 双子のライオン堂、二つのコンセプト。
 (1)ほんとの出合い……「本当」の「本」との出合いを提供したい。
 (2)100年残る本と本屋……本屋が急速に減少していく現象から、本屋が滅亡する、なくなるという嘆きの言葉への応答。
〔 でも、ぼくには本屋が必要なのです。そして、本屋がなくなったら悲しむ人が、数人はいるのではないか。本当に本屋がなくなった世界がきたときに、1店舗だけでも残っていて、「ほら、本屋って大事だったじゃん」と言いたい、その思いからこのスローガンを掲げたのでもあります。〕
 
●生き残る(p232)
〔 人生において大事なことは、負けないことだと思っている。勝つことではなく、負けないこと。負けなければいい。ある一定の時期においてトントンであるなら、それでいい。勝つことを至上命題にすると、勝ち続けないといけなくなる。
 そんな考え方だから、生き残ることを目標に、本屋をやっている。〕
 
(2021/3/21)KG
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

最新DNA研究が解き明かす。日本人の誕生
 [自然科学]

最新DNA研究が解き明かす。 日本人の誕生
 
斎藤成也/編著 河合洋介/著 木村亮介/著 松波雅俊/著 鈴木留美子/著
出版社名:秀和システム
出版年月:2020年8月
ISBNコード:978-4-7980-6022-4
税込価格:1,430円
頁数・縦:239p・19cm
 
 文理融合を目指した学際研究である「ヤポネシアゲノム」プロジェクトの現時点での成果を1冊にまとめた。
 当研究は文部科学省新学術領域研究であり、2018年度から5年間の予定で進められている。
 
【目次】
第1章 ゲノムとは……斎藤成也
第2章 ヤポネシア人の起源と成立をめぐるこれまでの説……斎藤成也
第3章 大規模ゲノムデータから浮き上がるヤポネシア人の遺伝的多様性……河合洋介
第4章 東ユーラシア系集団および日本列島集団の表現型多様性……木村亮介
第5章 ゲノムで検証するオキナワ人の由来……松波雅俊
第6章 ピロリ菌ゲノムからさぐる日本列島への人類移動……鈴木留美子
 
【著者】
 斎藤 成也 (サイトウ ナルヤ)
 1957年福井県生まれ。東京大学理学部生物学科人類学課程卒業。同大学理学系研究科人類学専攻修士課程修了。米国テキサス大学ヒューストン校生物医学大学院修了(Ph.D.)。東京大学理学部生物学科助手、国立遺伝学研究所進化遺伝研究部門助教授を経て、2002年より同研究所集団遺伝研究部門教授(現職)。琉球大学医学部特命教授、総合研究大学院大学遺伝学専攻教授、東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻教授を兼任。
 
河合 洋介 (カワイ ヨウスケ)
 1978年岡山県生まれ。東京理科大学理工学部応用生物科学科卒業、同大学院応用生物科学専攻修了。博士(理学)。国立遺伝学研究所、立命館大学、前橋工科大学、東北大学、東京大学を経て現在、国立国際医療研究センターゲノム医科学プロジェクト上級研究員。専門は分子進化学・集団遺伝学。ヒトを対象とした集団ゲノムの集団遺伝解析を行っている。「ヤポネシアゲノム」では日本人の過去の人口動態の変化を明らかにする研究に取り組んでいる。
 
木村 亮介 (キムラ リョウスケ)
 1974年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部理学科生物学専修卒業。東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻修了。博士(理学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、東海大学医学部助教、琉球大学亜熱帯島嶼科学超域研究推進機構特命准教授を経て、琉球大学大学院医学研究科准教授。専門は分子人類学、集団遺伝学。人類の拡散と適応をテーマに、ゲノムと表現型双方の多様性について研究を行っている。
 
松波 雅俊 (マツナミ マサトシ)
 1983年大阪府生まれ。北海道大学理学部卒業。総合研究大学院大学生命科学科遺伝学専攻博士課程修了。博士(理学)。現在、琉球大学大学院医学研究科先進ゲノム検査医学講座助教。専門は、分子進化学・集団遺伝学。琉球列島人のゲノム解析を進めている。また、ヒトに限らず、さまざまな動物の比較ゲノム解析をおこなっている。
 
鈴木 留美子 (スズキ ルミコ)
 奈良女子大学理学部生物学科卒業。一般企業勤務を経て、総合研究大学院大学生命科学研究科遺伝学専攻博士課程修了。2010年から2019年まで大分大学医学部環境・予防医学講座でピロリ菌ゲノムデータの解析を担当。ピロリ菌の病原性や薬剤耐性解析のほか、世界各地から採取された菌をマーカーとして、人類集団の移動経路推定を行う。2019年から国立遺伝学研究所集団遺伝研究室に所属し、ヒトゲノムのデータ解析に携わる。
 
【抜書】
●非コード領域(p17)
 ヒトゲノムは、約32億の塩基対を持つ。約2万1000種類のタンパク質と、数千種類のRNA分子を作るための遺伝子が含まれる。あわせて全体の2%弱。
残りの98%以上は、遺伝子をコードしていない(遺伝情報を持っていない)非コード領域。このうち、ある部分は遺伝子の発現時期や発現量を調整する役割がある。
 つまり、ヒトゲノムの90%ほどは、何の情報も持っておらず、単に4種類の塩基がつながっているだけ。
 
●100世代(p32)
 生物の生存に有利に働くものであっても、突然変異の大部分は消えてしまう。
 長期的な進化に寄与するためには、突然変異遺伝子が100世代以上にわたって存続しなくてはならない。
 
●オキナワ人とアイヌ人(p67)
 2012年発表の論文(斎藤成也ら)により、アイヌ人とオキナワ人のクラスターのブーツストラップ値が100%となり、1911年にベルツの提唱したアイヌ・沖縄同系説は証明された。
 ブーツストラップ確率……系統樹の枝の信頼性を推定する値。
 
●ビタミンD仮説(p152)
 高緯度地域において明るい皮膚色が積極的に選択された理由として、二つの仮説がある。ビタミンD仮説と性選択仮説。
 ビタミンD仮説……紫外線量の少ない高緯度地域では、紫外線が透過しない暗い皮膚色はビタミンD合成の不足を引き起こしやすく、不利に働く。ビタミンD欠乏による骨格異常であるくる病にちなみ、「くる病仮説」とも呼ばれる。
 
●沖縄、宮古、八重山(p188)
 琉球大学を中心とした研究グループが、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島出身者のゲノムDNAを採集し、約60万SNPsの遺伝型を決定した。
 沖縄・宮古・八重山集団は、互いに祖先を共有する近縁な集団であり、隣接する台湾先住民との間に直接の遺伝的つながりはない。
 また、主成分分析の結果、沖縄諸島人と宮古諸島人がそれぞれ異なる遺伝集団を形成し、八重山諸島人が両者の中間に位置している。
 ヘテロ接合度に注目すると、宮古諸島の遺伝集団のヘテロ接合度が、他の諸島より小さいことが分かった。宮古集団は、集団が分化した初期に集団サイズの大きな減少(ボトルネック)を経験したため、遺伝的浮動の効果を大きく受けて中立なバリアントが蓄積し、その影響が現在の集団に引き継がれている。
 おそらく、宮古諸島への移住は1万年前以降。宮古・八重島諸島で発見された、約2万6000年前のピンザアブ洞人(宮古島)や、約2万7000年前の白保竿根田原洞人(石垣島)は、両諸島の主要な祖先ではないと考えられる。
 
●PRS(p196)
 ポリジェニック・リスク・スコア(PRS: polygenic risk score)。既知のGWAS(genome-wide association study:ゲノムワイド相関解析)の結果をもとに、疾患の発症を予測すること。
 数十万規模のGWASが多数行われている欧米人集団では高い精度が得られている。しかし、欧米人集団で構築されたPRSの発症予測精度は、日本人ではあまり高くない。
 
【ツッコミ処】
・100km(p169)
〔 琉球列島は、ユーラシアプレートの東側に位置し、地殻変動が激しい地域である。プレートの活動により、約1500万年から1000万年前には、現在の琉球列島と呼ばれる地域は陸地化していたと考えられる。この頃には、中国大陸・九州との間に陸橋が存在し、現在、琉球列島に生息する動物の祖先の多くは、この陸橋を通じて大陸から渡ってきたのだろう。約1000万年~200万年前には琉球列島は再び切り離され、約150万年前に中国大陸と陸橋で繋がったのち、約2万年前に三つの島嶼群に別れ、氷河期の終了で海水面が約100kmほど上昇したあと、現在のような姿になったといわれている。〕
  ↓
 海水面が100kmも上昇することがあり得るだろうか? マリアナ海溝でも、最深部で10km(1万912m)ほどである。
 それとも、100kmとは深さではなく、水平方向の長さのことか?
 
(2021/3/18)KG
 
〈この本の詳細〉

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

世界の「住所」の物語 通りに刻まれた起源・政治・人種・階層の歴史
 [歴史・地理・民俗]

世界の「住所」の物語:通りに刻まれた起源・政治・人種・階層の歴史
 
ディアドラ・マスク/著 神谷栞里/訳
出版社名:原書房
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-562-05791-7
税込価格:2,970円
頁数・縦:357p, 26p・20cm
 
 人々は、なぜ住所を必要とするのか。住所は、どのような規則によって命名されるのか。
 世界中の住所に関する蘊蓄を披露しながら、住所の役割や歴史を語る。発展途上国ならいざ知らず、いまだに「住所」のない地区が米国にもあるそうだ。ウエスト・ヴァージニア州マクドウェル郡。たかが住所、されど住所なのである。
 
【目次】
発展 
 第1章 コルカタ―住所はスラム街に変革をもたらすか
 第2章 ハイチ―住所は疫病を防げるか
起源
 第3章 ローマ―古代ローマ人は何を頼りに移動していたのか
 第4章 ロンドン―通りの名称の由来は何か
 第5章 ウィーン―家屋番号は権力の象徴か
 第6章 フィラデルフィア―アメリカ人はなぜ番号名の通りを好むのか
 第7章 日本と韓国―通りに名称は必要か
政治
 第8章 イラン―通りの名称はなぜ革命家を信奉するのか
 第9章 ベルリン―ナチス時代の通りの名称は「過去の克服」について何を語るのか
人種
 第10章 フロリダ州ハリウッド―南部連合の通りの名称は歴史の真実を語るのか
 第11章 セントルイス―マーティン・ルーサー・キング・ジュニア通りがアメリカの人種問題について語ること
 第12章 南アフリカ共和国―南アフリカの道路標識は誰のものか
階級と地位
 第13章 マンハッタン―通りの名称の持つ価値はどれほどか
 第14章 ホームレス生活―住所不定でどのように生きるのか
 結び 未来―住所は滅亡に向かっているのか
 
【著者】
マスク,ディアドラ (Mask, Deirdre)
 作家。ノースカロライナ州出身、ロンドン在住。『ハーバード・ロー・レビュー』の編集者を経て、3年間弁護士や連邦司法事務員として働いた後、アイルランド国立大学で修士課程修了。ハーバード大学でライティング、ロンドン・スクール・オブ・エコノミックスで社会科学の教鞭を執った。NYタイムズ、アトランティック、ガーディアンなどに通りの名称に関する記事を寄稿。
 
【抜書】
●地図のない地域(p71)
〔 問題は患者の居所がわからないことだった。地震発生前も、ハイチの詳しい地図は入手困難だった。それはハイチだけに言えることではない。世界のおよそ七〇パーセントがまだ詳細な地図を持たず、そこには一〇〇万人以上の人口を抱える都市も含まれている。意外なことではないが、そうした場所は地球上で最も貧しい地域となる。科学者マウリシオ・ロッチャ・エ・シルヴァは、ブラジルにおける蛇咬傷の統計値を訊かれたとき、そんなものはないと答えた。「蛇がいるところに統計値はなく、統計値があるところに蛇はいない」同じく、疫病が発生するところに地図がない、ということが多々ある。〕
 
●古代ローマ(p84)
 最盛期のローマの人口は100万人。そのほとんどが市の中心から約3km以内に住んでいた。
 上流階級の人々は広々とした一軒家に住んでいたが、市民の多くは寝るのがやっとの広さの集合住宅に住んでいた。火災の危険があったため、家屋内での煮炊きは鞭打ちの刑。屋外で食事をした。おそらく道端の屋台を活用。一般市民は、通りをキッチンや居間やオフィスとして代用せざるを得なかったと推測される。
 
●マンナ・ハッタ(p147)
 マンハッタンは昔、マンナ・ハッタと呼ばれる緑豊かな島だった。レナペ族の言葉でおそらく「丘の多い島」という意味。クロクマやガラガラヘビ、ピューマ、オジロジカなどがうろついていた。
 
●ペンシルヴェニア(p158)
 ペンシルヴェニアの都市計画は、グリッドプランだった。
 ウィリアム・ペンは、北から南に走る通りに番号名を付けた。セカンド・ストリート、サード・ストリート、……。
 東西を走る通りを、「アメリカで自然に育つもの」にちなんで命名した。チェリー・ストリート、チェスナット・ストリート、マルベリー・ストリート、……。
 
●罫線と枡(p174)
 都市デザインの専門家であるバリー・シェルトンは、西洋と日本の住所の付け方の違いについて考察した。それは、小学生が文字を学習するときのノートに現れている。
 西洋人は、罫線の入ったノートで文字の練習をする。小文字用に補助線も引いてある。 ⇒ 線である通りに名前を付けたがる。
 日本では、マス目のあるノートで文字の書き方を練習する。 ⇒ 街区に名前を付ける。
 
●クークターヨレ語(p177)
 オーストラリア北部のポーンプラアーというコミュニティに住むアボリジニには、「右」「左」という語彙がない。彼らのクークターヨレ語では、東西南北を使って場所を説明する。
 「あなたの南東側の足に蟻が這っているよ」「茶碗をもう少し北北西に置いてくれる?」といった具合。
 彼らはそうして注意力を訓練した結果、通常レベルを超えるナビゲーション力を身につけた。5歳児に「北はどちらかわかる?」と訊いてみると、すぐに正しい方向を指した。(認知学者のレラ・ボロディツキーの実験)
 一連の写真を順番通りに見せて、その物語を説明した。たとえば、男性が年老いていく様子、食べているバナナが減っていく過程、など。そして写真をシャッフルし、実験の被験者に流れどおりに写真を並べてもらった。英語話者は左から右に、ヘブライ語話者は右から左に並べた。クークターヨレ語話者は、東から西に向かう順番で写真を並べた。つまり、自分が向いている方向によって並べ方が変わる。南向きなら左から右へ、北向きなら右から左へ。
 
●FAX(p172)
 〔通りに名前がないと道案内が困難だ。それは日本人にとってもである。道に迷った人のために、東京にはあちこちに交番があり、警官が詳しい地図や案内図を使って道案内してくれる。世界ではFAX機はずいぶん前に廃れたが、日本では地図を送るのに便利だという理由でまだ使われている。〕
 
●韓国の住所システム(p180)
 韓国では、2011年に政府が住所システムを変更すると発表した。欧米式の通りの名称と家屋番号を採用することになった。
 それまでの66年間は、日本の区画式住所システムを使っていた。日本の統治時代の遺産。
 
●ワシントンDC(p201)
 ワシントンDCでは、東西に走る通りには番号が付けられた。
 南北を走る通りにはアルファベットが付けられた。「W」までくると、次は新しいパターンで「A」から始まる。たとえば、Adams、Bryantのように2音節の単語がつく。その次は3音節。Allison、Buchanan、……。
 グリッドを横切る斜めのアヴェニューには、州の名前が付けられた(当時は15州)。最も長い3本のアヴェニューには、当時最も大きかった州「マサチューセッツ」「ペンシルヴェニア」「ヴァージニア」の名前が付けられた。
 現在、ワシントンDCの通りの名称は、すべての州名を網羅している。
 
(2021/3/13)KG
 
〈この本の詳細〉
 

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

印刷博物館とわたし
 [ 読書・出版・書店]

印刷博物館とわたし  
樺山紘一/著
出版社名:千倉書房
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-8051-1220-5
税込価格:3,080円
頁数・縦:291p・20cm
 
 著者は、2020年10月に創立20周年を迎えた印刷博物館の第2代館長である。ちなみに初代はグラフィック・デザイナーの粟津潔。
 中世西洋史の専門家である館長が、企画展の図録に執筆した文章によって構成されているのが本書の第2部である。ちなみに第1部は印刷博物館小史、といったところか。
 いずれの文章も、単に展覧会の紹介とPRにとどまらず、西洋史家の視点で書かれた歴史エッセーとして読みどころ十分である。
 
【目次】
第1部 わたしと印刷博物館の二〇年
 長い助走、短い序章
 博物館プロジェクトへ
 新設のミュージアム
 館長のスタート台
 印刷文化学のシステム化を
  ほか
第2部 印刷文化学をめざして
 大印刷時代の到来
 天文学と印刷
 ルネサンス教皇の夢
 スタンホープ、ふたつの革命の体現者
 活字人間「徳川家康」の謎
  ほか
 
【著者】
樺山 紘一 (カバヤマ コウイチ)
 印刷博物館館長、渋沢栄一記念財団理事長、東京大学名誉教授。1941年、東京生まれ。主著に『歴史の歴史』(千倉書房、2014年、毎日出版文化賞受賞)などがある。
 
【抜書】
●印刷文化学(p19)
 〔本来であれば印刷博物館が成立するためには、印刷にかかわる広範な研究体制が先行して成立しているべきである。けれども、わが国にあっては印刷産業にかかわる学術分野は、きわめて狭小である。わずかな国立大学内の研究室が存在するばかりであり、他方では企業内にある研究所は、もっぱら最先端の技術開発が課題となっているから。こうして、博物館は、学術分野からの支援を受けることなく、独力で出発した。〕
 
●COMIC(p21)
 COMIC=産業文化博物館コンソーシアム。2008年3月に発足。
 出入り自由、会員制度なし、会費なし。
 参加館は大小合わせて数十施設。
 
●本木昌造(p38)
 1824-75年。長崎で公式のオランダ語通詞をやっていた。
 1853年秋、安政大地震によってロシアのプチャーチンの旗艦が大破した。その修理・新造のため、伊豆・戸田に逗留していたロシア人のもとに通訳として動員された。数か月に及ぶ交友にあって、本木は日本で初めて洋式造船術を目撃した。
 長崎に帰還した本木は、洋式造船所を創設。明治初年までには長崎造船所として大成。
 アメリカ人宣教師・印刷事業者ガンブルの助言のもと、1869年(明治2年)までに、日本初の本格的日本語活字の製作に成功。
 
●ニコラウス・クザヌス(p56)
 1401年、ドイツのライン川の支流モーゼル川流域の町、クースで生まれる。1464年没。
 ハイデルベルク、ケルンの大学で哲学と神学を学ぶ。
 1440年バーゼル公会議に参加。「和解」や「合一」を合理的に説明するニコラウスの柔軟さは、広く注目された。教皇庁にも重用され、司教職に任用され、また枢機卿にも任命された。
 天体観測にも特別の関心を寄せ、「無限宇宙論」と呼ばれる宇宙観念を唱える。宇宙は際限を持たず、それゆえ中心点も存在しない。地球はほかの天体と同じく、その宇宙の中にあって中心を外れた位置にある。しかも静止しているわけではなく、円形軌道ともいえぬ、固有の規則に従って運動している。
 現行の太陽暦が、天体現象でずれていることを確信(11~12世紀から言われていた)。このため、復活祭をはじめとするキリスト教上の重要な祭儀日の特定が誤りを犯している。暦の修正に関する短期的な暫定措置を、そして長期的には閏日の再設定を提案する。1573年のグレゴリオ暦の先駆け。
 1460年、マインツで開かれたベネディクト修道会の総会に、教皇代理として出席する。マインツで開発されたばかりの活版印刷術とその成果(『四二行聖書』など?)を直接目撃。この技術を「神の業(わざ)」と命名。
 マインツ市内の政争の混乱で、印刷技術者が流出した際、シュヴァンハイムとパンナルツというドイツ人職人をローマに受け入れ、スビアコの地に印刷工房を作る。1965年には、キケロ『弁論家について』を印刷。
 
●印紙法(p100)
〔 1765年、イギリス政府は財政難を回避するために、アメリカ植民地に印紙法を公布した。文書や書物の発行に税金を課すことによって増収をはかるばかりでなく、無用な政府批判を事前に防止することができる、一挙両得の政策であった。しかし、この手段は植民地住民の怒りに火をつけた。みずからは、母国の議会に代表をおくっていないにもかかわらず、一方的な課税をひきうけよという不条理に、我慢がならなくなったのである。印紙法は、こうして植民地に自由を保障せよという政治スローガンを生みおとすことになる。〕
 
●駿河版(p120)
 徳川家康は、「関ヶ原」直前から木活字による出版を励行していた。伏見版。江戸に移ったのち、伏見版はさらに盛況をみた。
 駿府に隠棲したのち、鋳造活字による印刷出版「駿河版」を始めた。『群書治要』などが印刷された。
 キリシタンの印刷術によってか、もしくは朝鮮出兵の結果として朝鮮の印刷技術者によってもたらされた。
 1616年の家康の死後、しだいに金属活字による活版印刷の熱は冷めていった。わずか20年余りの短いピークだった。
 
●法服貴族(p138)
 絶対王政以降、国務を遂行するにあたって、軍事上の執行者である伝統貴族(帯剣貴族)と並んで、王政の実務を管掌する身分、とりわけ司法上の重要実務を志向する高等法院の司法官が高位の場を占めるようになる。下級判事から評定官、法院長にいたる法実務者。相当の処理能力を保有し、またその職務に由来する巨額の定期収入をも保障されて、確実に閉鎖的な身分団体を構成した。法服貴族。
 特定の条件を満たすことで獲得できる受爵身分であるとともに、官職売買が可能な流動性のある身分だった。主に、土地や動産の蓄積によって社会的実力を養った新興ブルジョワがこの身分に参入した。最盛期の18世紀には数千家系に配当されるほどの身分として、フランス国内に普遍化していった。
 法服貴族は、財務官僚も合わせ、多様な職階の上昇ルートが存在した。〔この身分の獲得の容易さ、あるいはいったん受爵したのちの世襲継承の安定など、制度的な硬直化をまねきがちであったため、ありかたをめぐって議論をよんだとはいえ、またこの新身分によって清新なエネルギーが注入されたことも事実である。「帯剣貴族」の対極にあって、軍事と絶縁した法服貴族は、まさしく「文治」の象徴ともいえるが、この新身分のなかから、フランス社会の新規の担い手が選抜されていくことににもなった。〕
 パスカル、デカルト、モンテスキュー、など。
 
●ヨーロッパの漢字活字(p167)
 19世紀前半、ヨーロッパでは中国漢字の活字化が進み、知識人たちが中国事情を紹介するにあたって部分的に利用するようになった。
 イギリスの東インド会社は、帯同するキリスト教ミッション団と協同して、本格的な漢字活字の製作に取りかかった。1815年のリチャード・モリソン『華英・英華辞典』など。モリソンによる最初の中国語聖書は1845年に広東で刊行された。
 ミッション系印刷所である英華書院は、1860年代から積極的な事業を展開した。
 
●百学連環(p181)
 西周(1829-97)、日本における最初の哲学者。石見国津和野藩の藩医の家系に生まれた。森鴎外の縁戚にあたる。
 儒学を学んだ後、24歳にして江戸に勉学の旅に出る。英語の学習を選択し、1857年、蕃書取調所教授手伝並に就任。1862年、幕府派遣留学生としてオランダに。
 ライデン大学で法学から哲学に及ぶ諸学について広範に学習。イギリス、フランス、ドイツなどにおける哲学思考を体得。
 1865年に帰国、開成所教授として洋学を講義。維新後も新政府の中軸にあって高等教育体制の新設に献身する。
 1868年、『万国公法』を翻訳・刊行。
 公務の傍ら、私塾・秀英塾を開設。中心となったのは、「百学連環」という講義。Encyclopediaの和訳。「其の辞義は、童生を周輪の中に入れて教育なすの意なり」。一定の分野の知識を整理したうえで、百般にわたる学科を記述・口授するもの。
 
●100万部(p225)
 大正14年(1925年)、大日本雄弁会講談社が総合雑誌『キング』を創刊。政論や評論より、世事一般に広く目を向け、適度の娯楽性を持たせる。
 昭和2年(1927年)、日本で初めて発行部数が100万部を突破する。
 『キング』と同じ年に発行された『家の光』も昭和10年代に100万部を超える。
 
●婦人参政権(p264)
 第一次世界大戦時、銃後の社会では、女性たちの力が求められた。連合国側、同盟国側両陣営とも女性による愛国運動や救援活動が活発になった。
 終戦後、こうした事態は婦人参政権運動にとって強い追い風となった。ドイツでは1919年のワイマール憲法において、イギリスや米国でも数年のうちに婦人参政権が実現する。
 
【ツッコミ処】
・350年(p33)
 〔グーテンベルクが開発した最初の手動印刷機は、その時点から三五〇年も経過した一九世紀末にあっても、寸分たがわぬ仕様で再生産・使用されていた。〕
  ↓
 グーテンベルクの発明は1445年頃とされいるから、350年後とは1800年。つまり、18世紀末となるはずだが……。
 おお、p169には〔「グーテンベルク・パラダイム」とも称される体系は、根本において不変である。むろん、印刷物にたいする需要の増大によって、刊行物の数量の増加はあったにせよ、一八世紀末にいたるまで、本質的には同一の作業システムが維持されてきた。〕とある。
 やはり18世紀末が正しいのだろう。
 
(2021/3/10)KG
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

ホンモノの偽物 模造と真作をめぐる8つの奇妙な物語
 [歴史・地理・民俗]

ホンモノの偽物――模造と真作をめぐる8つの奇妙な物語 亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ
 
リディア・パイン/著 菅野楽章/訳
出版社名:亜紀書房(亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ 3-15)
出版年月:2020年11月
ISBNコード:978-4-7505-1671-4
税込価格:2,420円
頁数・縦:333p・19cm
 
 日本語の「の」は難しい。助詞として所有、所属、同格、属性を示すことになっているが、「の」の前後の関係がそのどれにあたるのかは簡単には分からない。文脈から判断するしかない場合が多い。
 本書のタイトルにある「の」も曲者である。ホンモノ「の」偽物。一見、何のことやら分からない。「ホンモノ」と「偽物」が対立する意味を持つからだ。それを「の」で結ばれてもなぁ、ということになるのである。
 著者は、「二人の贋作者の傑作はとりわけ魅力的な『ホンモノの偽物』として際立っている。スペインの贋作者(スパニッシュ・フォージャー)とウィリアム・ヘンリー・アイランドの作品である」(pp.22-23)と書いている。「スパニッシュ・フォージャー」は、19世紀末から中世絵画の模造品を描いて売っていた正体不明の人物、ウィリアム・ヘンリー・アイランドは18世紀にシェイクスピアの署名を偽造し、戯曲をでっち上げた人物とのこと。どちらの「作品」も、「偽物」と分かっていてオークションなどで高値で取引されているらしい。
 どうやら「正真正銘の偽物」、「初めから偽物と分かっているもの」というような意味らしい。なるほど、原初のタイトルは“Genuin Fakes"だ。
 というわけで、「ホンモノではない」「偽物」であることを意図して作られたことによって価値を生み出したものを八つのテーマに沿って集めて論じる。その倒錯した世界を。
 
【目次】
第1章 厳粛なる嘲り
第2章 嘘石の真実
第3章 炭素の複製
第4章 異なる味わいの偽物
第5章 セイウチカメラを通して見ると
第6章 大いなるシロナガスクジラ
第7章 そしていま、それは本物だ
第8章 旧石器時代を生き返らせる技法
 
【著者】
パイン,リディア (Pyne, Lydia)
 1979年生まれ。著述家・歴史家。アリゾナ州立大学で歴史学と人類学の学位、科学史・科学哲学の博士号を取得。現在テキサス大学オースティン校・歴史学研究所で客員研究員をつとめる。
 
菅野 楽章 (カンノ トモアキ)
 1988年東京生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業。
 
【抜書】
●アーケオラプトル(p78)
 1997年7月、中国の農民が珍しい化石を見つけた。羽毛の痕跡のある、歯の生えた鳥のような生き物。
 翌年、国外に密輸された化石は、ユタ州ブランディングの恐竜博物館のオーナーであるツェルカス夫妻が8万ドルで購入。
 1999年、テキサス大学オースティン校の古生物学者ティム・ロウのチームによるCTスキャン分析の結果、いくつかの化石をつなぎ合わせた合成物と判明した。
 その後のさらなる分析で、三つの恐竜の種の五つの個体からできていることが判明した。
 偽物とされたにもかかわらず、アーケオラプトル・リアオニンゲンシスという名前は、科学文献に残っている。
 
●ダイアモンド(p114)
 19世紀末まで、ダイヤモンドは主にインドとブラジルで発見されていた。何世紀もの間、宝石用ダイヤモンドの総生産量は年間数ポンドしかなかった。
 1870年代、南アフリカ北部のオレンジ川近くで巨大なダイヤモンド鉱山が見つかった。ダイヤモンドは「トン単位」ですくい出せるようになった。
 1888年、デビアス・コンソリデーテッド・マインズ(初代社長セシル・ローズ)が設立され、市場に出回るダイヤモンドを統制するようになる。
 20世紀中ごろの絶頂期、デビアスはアフリカ南部のダイヤモンド鉱山のすべてを所有あるいは管理し、イギリス、ポルトガル、イスラエル、ベルギー、オランダ、スイスでダイヤモンド貿易会社を所有していた。さらに、世界中のほぼすべての場所で、新たに見つかるダイヤモンドを先買いできる金銭的及び政治的力を持っていた。交渉は一切なかった。
 
●メモリアル宝石(p124)
 愛する人の火葬された灰をダイヤモンドに変えたもの。
 〔テキサス州オースティンのスタートアップ、エターネヴァをはじめとする企業は、メモリアルダイヤモンドは「代々伝わっていく家宝」になると約束している。わたしはエターネヴァの広報担当者に話を聞いたが、同社はそれを弔いの行為のひとつとして、愛する人の人生を称え、懐かしむ前向きな選択肢として考えているようだった。メモリアルダイヤモンドは、非天然ダイヤモンドの婚約指輪と同じように、ダイヤモンドの文化的規範が――たとえ数千年後であれ――どのように書き換えられるかを選択する権利を消費者に与えている。〕
 
●酢酸イソアミル(p128)
 バナナフレーバー。この香料が合成されたころのバナナはほとんどがグロスミッシェル種。高濃度で酢酸イソアミルが含まれていた。
 現在主流のキャベンディッシュには、絶滅したグロスミッシェルほど酢酸イソアミルが含まれていない。そのため、現在の人工バナナフレーバーは、前世紀のバナナの名残。
 
●味覚地図(p151)
 長いこと、フレーバー専門家は、甘味は舌の前部、苦味は後部、酸味は側部で味わっている、と考えていた。
 最近の研究によって、すべての味蕾が基本的な味覚のすべてに反応していることが明らかになった。苦味、甘味、うま味はGタンパク質共益受容体に左右される。酸味の受容体はまだ判明していない。
 味覚地図の思い違いの起源は、ドイツ語の誤訳だとされる。最初に現れたのは、1942年に出版されて評判になったエドウィン・ボーリングの心理学の教科書。
 
●ドキュソープ(p177)
 ドキュメンタリー形式のリアリティーショー。
 
●シロナガスクジラ(p197)
 生物学者の見積では、1800年代中頃、シロナガスクジラの個体数は25万~35万頭。
 1904~67年に、計35万頭が南極海で捕獲された。
 1920~70年の50年間に、商業捕鯨が原因となって、年平均で20%減少した。
 現在の個体数は、捕鯨前の1%。
 
●砂浜のクジラ(p217)
 1969年に、アメリカ自然史博物館でシロナガスクジラの模型(ザ・ホエール)が公開された。
 どのように現代的な展示をするかについて、長い間、議論された。正確で真正な、どのようなポーズにするかで、費用の問題があった。
 キュレーターのリチャード・ヴァン・ゲルターは、議論に飽き飽きして、シロナガスクジラを展示する最適で最も真正な方法は、砂浜の死骸の模型を作って、その肉をもぎ取るカモメやシギのさえずりを流すことではないですか、と上司たちに提案した。幻のシロナガスクジラを人が自然界で見るとしたら、だいたいはこの姿だ。つまり、真にリアルな姿。
 この方法であれば、桁違いに安く展示できるため、上司たちはゴーサインを出した。
 ヴァン・ゲルダーは、女性委員会に砂浜のクジラの展示方法についてリアルに「詩的に」語り、この展示方法を撤回させた。
 
●キュヴェルヌ・デュ・ポンダルク(p259)
 ショーヴェ洞窟のレプリカ。製作費用は5,500万ユーロ。
 1994年12月18日、フランスの洞窟学者ジャン=マリー・ショーヴェ、エリオット・ブリュネル・デシャン、クリスチャーン・イレールは、フランス南東部のアルデシュ県で3万~3万2千年前、2万6千~2万7千年前の二つの時代の壁画が描かれた洞窟を発見した。
 500mほどの長さがあり、四つの部屋に絵や彫刻があり、天井の高さは15~30m。
 保存のため、入り口に鉄の扉が設けられ、勝手に入れないようした。
 その洞窟のレプリカが造られ、2015年4月25日に一般公開された。
 
●ズビアルデ洞窟(p267)
 偽物の旧石器時代の洞窟壁画。スペイン・バスク地方にある。「発見者」は、若いアマチュア洞窟学者のセラフィン・ルイス。贋作者と推測されている。
 1991年3月、この洞窟芸術の写真がヨーロッパのメディアで流れると、大半の専門家が怪しいと感じた。
 そこに描かれたサイトマンモスは、スペインではまず見られないモチーフだった。
 専門家が壁画を調査した時、最初の写真になかったものが出現した。
 顔料が現在のものだった。昆虫の脚などの非常に腐りやすい物質、更新世から現在まで生き残っているはずのない生物由来の物質が含まれていた。現代の台所のスポンジの合成繊維まで含まれていた。
 
●オクロコニス・ラスコーゼンシス(p272)
 1940年に発見されたラスコーの壁画は、1948年に観光目的で公開された。そのため、旧石器時代の壁画の一部が劣化し始めた。カビ、菌、バクテリアが壁で成長しはじめ、絵の一部を覆い、色素を侵食した。
 1958年に換気装置が設置され、温度は14℃に固定され、決まった来場時間用の新たな照明も設けられた。
 やがて、1963年に閉鎖された。しかし、その後も破壊は進んだ。
 2012年5月には、新種の菌が発見され、ラスコーにちなんで「オクロコニス・ラスコーゼンシス」と命名された。
 
●ペッカム・ロック(p294)
 2005年5月、イギリスのアーティスト、バンクシーは、大英博物館の49番展示室の壁に、「ペッカム・ロック」を粘着テープで貼り付けた。誰にも気づかれずに3日間、撤去されずにおかれた。
 大きさ15×25cm、サザーク・ロンドン自治区ペッカムのものとされるコンクリートの破片でできている。バンクシーが取り付けたラベルによれば、この図像は「後期カタトニア期」の「原始的なアート」であり、「初期の人間が町の外の狩猟場に出かけていく」ところが描かれている。アーティストは、「後期カタトニア期」の著名な画家、「バンクシム・マクシムス」で、バンクシムス・マクシムスの壁画の「大多数」は、「壁にいたずら書きをすることの芸術性、歴史的価値を理解しない熱心な役所職員によって破壊された」。
 
(2021/3/7)KG
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

オスマン帝国英傑列伝 600年の歴史を支えたスルタン、芸術家、そして女性たち
 [歴史・地理・民俗]

オスマン帝国 英傑列伝 600年の歴史を支えたスルタン、芸術家、そして女性たち (幻冬舎新書)   
小笠原弘幸/著
出版社名:幻冬舎(幻冬舎新書 お-29-1)
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-344-98598-8
税込価格:1,056円
頁数・縦:328p・18cm
 
 600年続いたオスマン帝国で特筆すべき偉人を9名取り上げ、彼らを中心とした帝国史を概説。10人目のアタチュルクは、帝国の終焉と現代の共和国との結節点として特別に選ばれた。
 男性中心のイスラム世界の歴史を語るに際して、女性を3名も加えたことは注目に値する。宮廷を語るうえで、寵姫や母后は欠かせない存在、ということか。また、9人目のハリデに関しては、新しい世の中を迎えるにあたり、女性闘士の活躍も見逃せない、という証だろう。
 
【目次】
第1章 オスマン一世―王朝の創始者たる信仰戦士
第2章 メフメト二世―帝国をつくりあげた征服王
第3章 ヒュッレム―壮麗王スレイマンの寵姫
第4章 ミマール・スィナン―「オスマンのミケランジェロ」と呼ばれた天才建築家
第5章 キョセム―ハレムで殺害された「もっとも偉大な母后」
第6章 レヴニー―伝統と革新をかねそなえた伝説の絵師
第7章 マフムト二世―帝国をよみがえらせた名君
第8章 オスマン・ハムディ―帝国近代の文化をになった巨人
第9章 ハリデ・エディプ―不撓不屈の「トルコのジャンヌ・ダルク」
第10章 ムスタファ・ケマル―トルコ建国の父アタテュルク
 
【著者】
小笠原 弘幸 (オガサワラ ヒロユキ)
 1974年、北海道北見市生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、九州大学大学院人文科学研究院イスラム文明史学講座准教授。専門はオスマン帝国史、トルコ共和国史。『オスマン帝国―繁栄と衰亡の600年史』(中公新書、2018年。第一四回樫山純三賞受賞)など著書多数。
 
【抜書】
●セム、ハム、ヤペテ(p26)
 ノアの箱舟後の人類は、すべてノアの3人の息子の子孫。
 ユダヤ人やアラブ人はセム、黒人はハム、それ以外の民族はヤペテの子孫とみなされる。
 
●オトマン(p29)
 「オスマン」の名は、もともと「オトマン」であった。トルコ系の名前。
 ヨーロッパの言語では、「オットマン(英:Ottoman)」と呼ばれていた。
 「オスマン」は、アラビア語の発音では「ウスマーン」となるが、帝国の創始者の名は、イスラム教第三代正統カリフとは関係がない。
 オトマンの率いる集団が、のちにイスラム教を奉じる強国として発展していった際に、オトマンと音の似た、よりイスラム的な由緒を持つオスマンという名前が用いられるようになった。
 
●イラン(p175)
 イランは、イスラム教としては、肖像画の崇拝に対して比較的寛容である。
 現在でも、預言者ムハマドや正統カリフであるアリーのポスターが貼られている。
 この地域では肖像画は広く受容され、イスラム世界の細密画文化が受け継がれている。
 オスマン帝国における肖像画も、もともとイラン地域の影響を受けて発展した。メフメト2世は、イタリアの画家を招聘した。15世紀後半から16世紀後半までは、西洋に影響を受けた写実的な画風を持つ細密画が描かれることもあった。
 
●アブド(p177)
 「アブド」はアラビア語で「奴隷」の意味。
 「アブドゥッラー」「アブドゥッラフマン」「アブデュルジェリル」(ジェリルは「栄光」の意)など、「アブド~」という名のほとんどは、「神の奴隷」という意味。
 イスラム教では、アッラーは99の美称を持つとされている。
 
●鳥籠制度(p205)
 17世紀初頭、オスマン王家の慣習だった「兄弟殺し」は廃止された。
 代わって、王族男子はトプカプ宮殿のハレムに閉じ込めるよう定められた。いわゆる鳥籠(カフェス)制度。鳥籠の王子は、外界との接触を断たれ、子をなすことを禁じれらて、即位する日をひたすら待つ。
 ただし、次のスルタン位を継ぐと見込まれた王子は、一定の教育を受けていたし、スルタンが許せば宮殿の外に出ることもできた。
 マフムトは、異母兄のムスタファ4世が即位したのちは、従兄のセリム2世とともにハレムに幽閉された。ムスタファ4世の治世は短命で、1808年、23歳でマフムト2世として即位した。
 
●そこそこの地位(p210)
 マフムト2世は、改革を断行するために、信頼のおける部下をすぐに政府や軍隊の要職に就けず、そこそこの位に任命させ、彼らの昇進を待つという手段を用いた。
 すぐに要職に任命すると守旧派の反感を招くため、迂遠な方法をとった。
 
●オスマン主義(p271)
 ハリデ・エディプは、オスマン主義の申し子であった。
 オスマン主義……タンズィマート改革以降推進された、民族・宗教に関わらずすべての臣民は平等であるとする思想。
 タンズィマート……再秩序化。マフムト2世のすぐのちの時代に推進された、オスマン帝国における近代化改革の総称。(p223)
 
●ケマル(p290)
 「ケマル」とは、「完全な」という意味。ムスタファ・ケマルが陸軍幼年学校予科で学んでいたころ、得意だった数学の教師がムスタファといい、同名だった。彼の才能を喜び、自らと区別するために「ケマル」というあだ名で呼ぶようになった。
 ムスタファ少年は、19世紀後半に活躍した愛国詩人ナームク・ケマルと同じ名をいたく気に入ったらしく、彼はこののち「ムスタファ・ケマル」という名を用いるようになる。
 
(2021/3/3)KG
 
〈この本の詳細〉

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ: