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苦学と立身と図書館 パブリック・ライブラリーと近代日本
 [ 読書・出版・書店]

苦学と立身と図書館 パブリックライブラリーと近代日本
 
伊東達也/著
出版社名:青弓社
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-7872-0074-7
税込価格:2,860円
頁数・縦:262p・19cm
 
 江戸時代から明治・大正期にかけての公共図書館の歴史と意義、利用のされ方をたどる。
 
【目次】
序章 “public library”と日本の図書館
第1章 日本的図書館観の原型
第2章 パブリック・ライブラリーを日本に
第3章 東京遊学と図書館の発見
第4章 読書装置としての貸本屋と図書館
第5章 苦学と立身と図書館
第6章 勉強空間としての図書館の成立
 
【著者】
伊東 達也 (イトウ タツヤ)
 1965年、福岡県生まれ。九州大学大学院人間環境学府教育システム専攻博士課程単位取得退学。博士(教育学)。山口大学人文学部講師。専攻は図書館学、日本教育史。
 
【抜書】
●文庫、神社(p32)
〔 「文庫」と「貸本屋」それぞれの社会的機能を、近代公共図書館へと展開する可能性をもった読書施設に伝統的に備わるものと捉えたとき、書籍の貸借だけでなく、書庫や閲覧室といった読書空間を備えた建物としての図書館により近いのは「文庫」であり、その内容と機能では近世の文庫は近代の図書館と同質の要素をもっていたといえる。こうした性格と機能の類似性があったからこそ、近代公共図書館が制度上に登場した際に、人々はそのコンセプトを受け入れることができたのであり、現在の日本図書館協会の創設時(一九〇七年)の名称が日本文庫協会だったことにもあらわれているように、読書施設としての図書館は主に「文庫」に対する概念を底流として受容されたと考えることができる。
 基本的に武家のための文庫だった藩校付属の文庫を除き、一般庶民にも公開された文庫には、古来、神社に対する贄の一種として奉納されてきた図書を基礎として成立した神社文庫が多くあった。神社は市井を離れて森林や山中にあるのが普通であるために火災の被害がまれで、冒すことができない神域として万人に崇敬されているため破壊や戦禍を受けることがなく、図書を保存して文庫を設けるのに適していた。神社文庫のなかには、神職である国語学者による古典の収集・保存運動を起源とするものが多いことが指摘されている。〕
 
●櫛田文庫(p34)
 櫛田文庫(桜雲館)は、1818年(文政元年)、福岡藩大目付だった岸田文平によって筑前博多の櫛田神社内に設けられ、一般に公開された。
 利用が盛んになってくると、市中の若者たちが「読書に耽り家業怠り勝ち」になり「風紀面白からず」という状況になったため、藩命で「御取り止め」になった。神職を中心とした神道復興運動の拠点となってしまい、東学問所修猷館、西学問所甘棠館に匹敵するような学問所・桜雲館として発展させることができなかった。
 
●図書館令(p50)
 1899年(明治32年)、図書館令が公布される。
 この頃、都市部に次々と大規模な私立図書館が造られた。設立者が外遊し、当時欧米で盛んだった公共図書館に直接接したことが契機となって、私費を投じて設立された。
 南葵文庫(1899年、東京)、成田図書館(1901年・千葉)、大橋図書館(1902年、東京)、など。
 福岡図書館は、これらと異なり、福岡に存在した国学者のネットワークの中から発生した。
 
●納本制度(p127)
 1875年(明治8年)に始まった制度。
 出版物を公刊する際、出版条例に基づく検閲のために内務省に提出された数冊のうち一部が東京図書館に納本される。法律学校や医学校の講義録、資格試験の問題集なども含まれていた。
 
東京図書館(p131)
 1872年(明治5年)、書籍館として設立された。
 1875年(明治8年)、東京書籍館となる。書籍館が博物館とともに太政官の博覧会事務局に移管された後、文部大輔田中不二麿によって設立された。文部省所管。入館料(閲覧料)無料。77年から3年間、東京府に移管された。
 1880年(明治13年)~、東京図書館として、文部省の所管に戻る。
 1897年(明治30年)より、帝国図書館となる。
 東京図書館では、開館から85年(明治18年)まで、湯島聖堂にあったあいだは入館料(閲覧料)無料だった。上野に移転してから有料になった。
 
●物之本(p146)
 江戸時代、商品としての本は、おおきく「物之本」と「草紙」の2種類に分かれていた。
 物之本……教養書、実用書。販売を目的とした書店で扱われる。「本屋」という語は、「物之本屋」の略語。
 草紙……挿絵が入った読み物や物語。主に貸本屋が扱う。
 
●黙読(p160)
 人々の読書習慣の主流が音読から黙読に移行した時期は、1900年前後(明治30年代)ごろ。
 1909年に出版された『読書力の養成』では、「汽車の中や、電車の中や、停車場の待合室にて、をりをり新聞、雑誌の類を音読する人あるを見受く。調子のよき詩歌や美文ならともかく、普通の読物を音読するにても、其の人の読書力は推して知るべし」と記す。音読することが読書能力の低さの表れと見なされている。
 
(2021/2/27)KG
 
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長州ファイブ サムライたちの倫敦
 [歴史・地理・民俗]

長州ファイブ サムライたちの倫敦 (集英社新書)  
桜井俊彰/著
出版社名:集英社(集英社新書 1039)
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-08-721139-9
税込価格:924円
頁数・縦:238p・18cm
 
 幕末にイギリスに密航した5人の長州人留学生の足跡と功績をたどる。5人のなかでも、日本の「鉄道の父」、井上勝を中心とした物語となっている。
 
【目次】
プロローグ 英国大使が爆笑した試写会での、ある発言
第1章 洋学を求め、南へ北へ
第2章 メンバー、確定!
第3章 さらば、攘夷
第4章 「ナビゲーション!」で、とんだ苦労
第5章 UCLとはロンドン大学
第6章 スタートした留学の日々
第7章 散々な長州藩
休題 アーネスト・サトウ
第8章 ロンドンの、一足早い薩長同盟
第9章 「鉄道の父」へ
エピローグ 幕末・明治を駆けた長州ファイブ
 
【著者】
桜井 俊彰 (サクライ トシアキ)
 1952年、東京都生まれ。歴史家、エッセイスト。1975年、國學院大學文学部史学科卒業。1997年、ロンドン大学、ユニバシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)史学科大学院中世学専攻修士課程(M.A. in Medieval Studies)修了。
 
【抜書】
●密航時の年齢(p28)
 井上馨29歳、遠藤謹助28歳、山尾庸三27歳、伊藤博文23歳、井上勝21歳。
 数え年。以下同様。
 
●井上勝(p29)
 1848年(天保14年)8月1日、長州萩城下町土原(ひじはら)に三男として生まれる。
 父の勝行は藩の上級武士で、長崎藩邸に努める傍ら、オランダ人から西洋の兵学(具体的には銃で武装した兵による陣形)を学んだ。その後、長州に戻り、藩校明倫館の頭人(とうにん。責任者)を務める。
 勝は、6歳の時、養子となり、野村弥吉と名乗ることになる。
 1855年(安政2年)、13歳の時に、勝行に連れられて相模に。長州藩が相州の沿岸警護を命じられていたため。そこで勝は伊藤利助(後の博文)と出会う。
 
●武田斐三郎(p34)
 1827-80年。伊予大洲藩士。適塾で学んだ後、江戸に出て伊東玄朴の下で蘭学を、佐久間象山の下で西洋兵学を学ぶ。ペリー来航時には、吉田松陰とともに象山に率いられて浦賀で黒船を見る。
 語学に明るく、ロシアのプチャーチンが来航した際には幕府に命じられた蘭学者に随行して長崎に赴き、ロシア御用取調掛として対応に当たった。
 1854年(安政元年)、幕臣の堀利煕、村垣範正とともに蝦夷地調査に赴き、そのまま箱館に残って幕臣となる。箱館に奉行所が置かれ、10年間、箱館に留まる。
 箱館港に停泊中のイギリス船でストーブをスケッチし、鋳物職人に日本初のストーブを造らせた。
 箱館に来航したフランス船の軍人から教えられた方法を基に7年をかけて五稜郭を建築する。斐三郎が箱館を離れた後に完成。
 幕府が箱館に開設した洋式学問所「諸術調所」の塾頭(教授)となる。教育内容は、航海術、砲術、造船、測量、化学など多彩。士族と平民とを区別せず、志のある者は誰でも入学させた。前島密、吉原重俊(日本銀行初代総裁)など。
 1861年(文久元年)、洋式帆船の亀田丸を操って、塾生を乗せてアムール川河口を遡ってロシア沿海州のニコライエフスクまで航海。
 維新後は明治政府に出仕し、日本の近代兵制の整備に努め、1874年(明治7年)からは陸軍大佐(砲兵)兼兵学大教授、士官学校教官などを務めた。
 
●山尾庸三(p36)
 1837年(天保8年)生まれ。父忠次郎は、繁沢石見の給領地を管理する庄屋(給庄屋)だった。繁沢は、優秀な庸三を萩の自分の家の奉公人として抱えるようになる。
 20歳の時、江戸へ出て、斎藤弥九郎の指導する練兵館(神道無念流)に入門。練兵館で、桂小五郎と知り合い、その弟分のように親しくなる。
 江川太郎左衛門(英敏)の私塾で西洋砲術や航海術を学ぶ。
 亀田丸に乗ってニコライエフスクまで行く。
 明治元年、井上勝と同じ船でイギリスから帰国。工部省設立、工学寮設立など、日本の工業技術発展に努める。
 
●人の器械(p42)
 周布政之助は、「大攘夷」を実現させるため、できる藩士を外国へ派遣し、「人の器械」となって戻ってこさせるという考えを持っていた。
 人の器械……西洋の文化と技術を完全に理解し身につけた人間。
 
●井上馨(p44)
 1836年1月16日生まれ。17歳で藩校明倫館に入り、21歳に250石取りの中級藩士志道慎平の養子になる。
 参勤交代と共に江戸に出て、長州藩江戸屋敷内の藩校有備館で学ぶ。さらに練兵館に通って剣術修行をし、肥前藩の学者岩谷玄蔵から蘭学を学び、江川坦庵の下で洋式砲術も学んだ。また、藩の海軍力強化策に沿って、英語の習得にも努めていた。
 26歳の時に、藩主毛利敬親の小姓役、28歳で世子定広(毛利元徳)の小姓役となる。聞多という名は、小姓時に敬親からもらったもの。
 ジャーディン・マセソン商会から買ったばかりの壬戌丸に遠藤謹助とともに船員として乗り込み、世子定広の江戸湾一周巡りの供をしている。
 
●遠藤謹助(p52)
 天保7年(1836年)2月15日、萩城下町で生まれる。504石取り。長州ファイブの中で最も家禄が高い家の出身。
 1866年1月、肺の病を理由に帰国。
 維新後は、造幣寮、造幣局にて、日本人の手による造幣に力を尽くす。明治22年(1889年)1月以降、日本の貨幣はすべて日本人の手で製造できるようになった。
 「桜の通り抜け」を提案し、完成させる。(p209)
 
●ナビゲーション(p80)
 5人は、欧州行きの帆船の中で、こき使われた。その原因は、誤解だった。
 ジャーディン・マセソン商会の上海支店の支配人ケズウィックにロンドンに行く目的を聞かれたとき、「海軍(Navy)の研究をしに行く」というべきところを、「ナビゲーション(Navigation=航海術)」と言ってしまった。そのため、ケズウィックは航海中も実際の航海術の訓練ができるよう、5人が分乗した二つの船の船長に申し送りしていた。
 「ナビゲーション」と言ったのは、井上勝か、井上馨か、二つの説がある。
 
●オートアイコン(p105)
 UCL(University College of London:ロンドン大学)のメイン・ビルディング南回廊のコーナーに逗子のような木製の特別キャビネットが置かれており、その中には往時の服を着て椅子に腰かけるジェレミー・ベンサムがいる。
 19世紀当時の最先端の医療・解剖学技術を駆使し、防腐処置が施された、本物の遺体。頭部だけは処置に失敗したので、蝋製レプリカの首が胴体の上に載っている。
 ジェレミー・ベンサム……Jeremy Bentham、UCL建学の精神的父。「最大多数の最大幸福」を唱えた法学者、哲学者。オックスフォードとケンブリッジの両大学を「二つの社会的大迷惑物」「政治的腐敗の宝庫かつ温床」とこき下ろした。
〔 ベンサムは、教育というものは人々に広く享受されるべきものでなければならず、富のある者たちやアングリカンだけのものでもなければ、既存の二つの伝統校だけのものでもないとの強い信念を抱いていた。そしてベンサムは、「自由主義者たちの組織」(an association of liberals)として、一つの大学を創らなければならないと説いた。このベンサムの考えを具現化したのがUCLである。イギリスで初めて人種、宗教、政治的信条を問わずあらゆる人々に門戸を開いた、学問の自由を存立理念とする大学の登場だった。〕(p97)
 
●ウィリアムソン教授(p110)
 ロンドンで長州ファイブの面倒を見たのは、アレキサンダー・ウィリアム・ウィリアムソン教授。UCLの化学教授。
 1824年、ロンドン南西部のワンズワースに生まれた。医学を学ぶため、ドイツのハイデルベルク大学に入学。化学に魅せられ、ギーセン大学に移る。1849年、UCLの化学教授に。
 1850年、「ウィリアムソン・エーテル合成」を発表。イギリスを代表する著名な学者であり、ロンドン化学協会会長に2度就任している。
 井上勝と伊藤俊輔、遠藤謹助の3人を自宅に下宿させる。
 井上馨と山尾庸三は、画家だったアレキサンダー・M・クーパーのフラットに住む。
 
●アーネスト・サトウ(p152)
 1843年6月30日、ロンドンの北東部、クラプトンで生まれる。父親は、リガ(ラトビアの首都?)からロンドンに移り、イギリス国籍を取得した19世紀の典型的な新興中産階級の人間。
 Satowは、東部ドイツ近辺にしばしば確認される苗字。
 アーネストは、16歳でUCLに入学。『エルギン卿の中国と日本への使節記』(1857、58、59年発行)を読んで、日本に興味を持つ。
 
●武田久吉(p157)
 アーネスト・サトウと事実上の妻だった兼との間に生まれた次男。1883-1972年。
 東京外国語学校を卒業後、札幌農学校、東北帝国大学予科の講師を務めながら、植物採集のための登山の記録・研究を盛んに発表。1905年には、登山家の小島烏水らと日本山岳会を創立する。
 1910年4月、勉学のためロンドンに行き、王立キュウ植物園で植物学の研究に従事するとともに、10月からインペリアル・カレッジ(UCLと同じロンドン大学を構成するカレッジの一つ)の植物科に入学。修了すると、2年間、同大学の講師として教鞭をとる。その後、バーミンガム大学に赴き、淡水藻の研究に従事する。
 1916年、帰国。東京帝国大学にて理学博士号を受け、京都帝国大学、北海道帝国大学、九州帝国大学などで植物学を教える。
 日本山岳会会長、日本植物学会名誉会員、日本自然保護協会理事などを歴任。
 水力発電所を作ろうという計画に反対し、尾瀬の自然保護に尽力した。
 
●盲唖学校(p175)
 庸三は、ネピア造船所で職工の中に指を使って巧みにコミュニケーションをとり、見事な作業をする聾唖の人たちに出会い、心を揺さぶられた。
 言葉が話せず、聞くことができなくても、手話を使えば意思の疎通ができ、高い技術を持った職工になれるし、生活者として自立できる。庸三は、聾唖の人たちの能力を引き出す適切な教育の重要性を痛切に感じた。
 明治13年、日本で最初の盲唖学校「楽善会訓盲院」を作った。
 
●蛍の光(p205)
 庸三は、日本人の技術者・専門家を育てることが急務と考え、最初の工学校である工学寮を明治6年(1873年)10月に開校した。のちの工部大学、現在の東京大学工学部。
 工部大学の学長を務めたのは、庸三と同じスコットランドのアンダーソンズ・カレッジ出身のヘンリー・ダイアーだった。ここで教鞭をとった外国人教師たちが帰国する際に歌っていたのが、スコットランド民謡の「Auld Lang Syne(オールド・ラング・サイン)」。「蛍の光」である。
 
(2021/2/24)KG
 
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宇宙考古学の冒険 古代遺跡は人工衛星で探し出せ
 [歴史・地理・民俗]

宇宙考古学の冒険 古代遺跡は人工衛星で探し出せ
 
サラ・パーカック/著 熊谷玲美/訳
出版社名:光文社
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-334-9244-9
税込価格:2,640円
頁数・縦:478p・19cm
 
 宇宙考古学とは、宇宙に存在する遺跡を探査するのではなく、衛星画像など、先端技術を使って地球上の遺跡を探索すること。その最先端にいる女性エジプト考古学者が、宇宙考古学の現在地を語る。
 
【目次】
第1章 歴史は「積み重なる」
第2章 宇宙考古学とは何か
第3章 宇宙考古学の可能性
第4章 危ない仕事
第5章 間違った場所を掘っている
第6章 世界一周“新”考古学の旅
第7章 巨大王国の崩壊
第8章 首都の発見
第9章 未来の考古学
第10章 乗り越えるべきもの
第11章 盗まれた遺産
第12章 誰でも参加できる宇宙考古学
 
【著者】
パーカック,サラ (Parcak, Sarah)
 アラバマ大学考古学教授。エジプト学者。衛星画像から遺跡を探すクラウドソーシングのプラットフォーム「グローバルエクスプローラー(GlobalXplorer)」を2016年に創設。現在までに約10万人のボランティアが参加し、南米などでの遺構の探索に貢献している。リモートセンシングを考古学研究に応用した活動には世界中のメディアが注目し、英国BBCはエジプト、ローマ、ヴァイキングの古代文明について著者をプレゼンターとして番組を製作した。2016年TED Prizeを受賞。ナショナルジオグラフィック協会のエクスプローラーでもある。
 
熊谷 玲美 (クマガイ レミ)
翻訳家。東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻修士課程修了。訳書多数。
 
【抜書】
●LIDAR(p61)
 ライダー。Light Detection And Ranging(光検出と測距)の略。遺蹟を探すときに使用するレーザーイメージング技術。
 
●クロップマーク(p65)
 作物痕。作物の成長が周囲より早くなったり、遅くなったり、まったく育たなかったりすることを示す痕。
 石壁の基礎部分が土に埋もれていたりすると、その上の植物は根を深く張ることができず、周囲の植物より生育が悪くなる。逆に、水路の跡などは、時間とともに腐敗した植物がたまっていき、肥沃な腐葉土となり、地上に周囲より草丈の高い植物が筋状に育つ。
 2018年夏、英国の降水量が例年より少なかったせいで、国中の畑でクロップマークが大量に出現した。考古学者たちは、クロップマークが消えてしまう前にドローンを飛ばして、短い間だけ現れる遺構の手がかりを撮影しようとした。(p217)
 
●ヴィンランド(p132)
 『赤毛のエイリークのサガ』『グリーンランド人のサガ』には、999年から1017年にかけて5回行われた、ノース人(ヴァイキング)が「ヴィンランド」と名付けた土地への旅について記されている。北米大陸への遠征?
 彼らは、特徴が異なる三つの土地に出会った。
 ヘルランド……「平らな石の土地」の意味。海岸が岩場になっていて、木のない土地。カナダのバフィン島だと考えられる。
 マークランド……「森の土地」の意。ヘルランドの南にあって、現在のラブラドル半島だとされる。
 ヴィンランド……謎。Vinlandは、ノース人のためのブドウを育てるための場所? vineというのは、ブドウの木ではなく、だたのつる草?
 ニューファンドランド島のランス・オ・メドー遺蹟が、ヴィンランドかもしれない?
 
●イースター島(p202)
 ラパ・ヌイ(イースター島)の先住民が絶滅したのは、彼ら自身が文明崩壊の原因を作ったからではない。ヨーロッパ人が病気を持ち込んだせい。
 農業目的で森林を破壊した場所では、ラパ・ヌイの先住民は火山岩を砕いて、腐葉土のように畑にまくことで、土地の生産性を保っていた。
 アフ(複数のモアイを載せられる巨石の土台)を、淡水の水源のそばに建設していた。おそらく、限りある天然資源とつながっている領知を誇示したかったから。
 
●リーキー一族(p207)
 ケニアのトゥルカナ盆地の周辺は、リチャード・リーキーと妻のミーブ・リーキーによる有名な発見の多くの舞台となっている。
 リチャードは、ルイス・リーキーとマリー・リーキー夫婦の息子。
 現在では、リチャードたちの娘であるルイーズが、リーキー家に伝わる仕事を引き継いでいる。
 
●5000万か所(p220)
〔 陸上と水中を合わせた地球全体では、大きな集落から小さな野営地まですべてを合わせると、五〇〇〇万カ所以上の未知の遺跡があると私は考えている。そしてこれは、控えめに計算した結果の数字である。〕
 
●ナイロメーター(p241)
 ナイル川の水位を測るために、古代からナイロメーターが作られていた。
 普段の水位だけでなく、毎年の増水水位が記録されている。
 ちょうどよい水位であれば、農作物の収穫量が増え、魚がたくさん取れるようになり、牧草が十分に育ち、土に水を与えるとともに、泥と一緒に栄養分を運んでくれる。租税は、その水位で決められていた。
 
●4.2kaイベント(p246)
 4200年前。kaはkilo annum(千年)。
 BC2200年頃をピークに、モンスーンパターンや地中海の偏西風の変化が起こり、アフリカやアジアで旱魃や寒冷期につながった。太陽放射の変動によって引き起こされた可能性がある。
 エジプト古王国の終焉の時期。
 
●位相差X線イメージング(p316)
 位相差X線イメージングを使うと、開いて読むことが不可能な、焼けた巻物の中を見ることができる。
 
(2021/2/21)KG
 
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新宗教を問う 近代日本人と救いの信仰
 [哲学・心理・宗教]

新宗教を問う: 近代日本人と救いの信仰 (ちくま新書)  
島薗進/著
出版社名:筑摩書房(ちくま新書 1527)
出版年月:2020年11月
ISBNコード:978-4-480-07351-8
税込価格:1,034円
頁数・縦:317p・18cm
 
 幕末維新期から現在まで、隆盛する「新宗教」について論じる。
 
【目次】
序章 新宗教とは何か
第1章 新宗教としての創価学会
第2章 創価学会―弾圧と戦後の変容
第3章 法華系宗教―霊友会系の新宗教教団
第4章 大本の誕生と背景
第5章 二度の大本事件
第6章 新宗教発展の社会背景
第7章 新宗教の思想と信仰
第8章 江戸時代に形づくられた発生基盤
第9章 明治維新期の新宗教の展開
第10章 救済宗教としての新宗教
第11章 現代日本人の宗教意識の変容
第12章 新宗教の後退とオウム真理教
第13章 新宗教と新宗教以後のスピリチュアリティ
終章 「救い」にかわるものを求めて
 
【著者】
島薗 進 (シマゾノ ススム)
 1948年生まれ。宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長。専門は日本宗教史。日本宗教学会元会長。
 
【抜書】
●神々のラッシュアワー(p9)
 1945年から60年代にかけて、「神々のラッシュアワー」と呼ばれるような、数多くの新宗教教団の発展がみられた。大教団になったものの多くは、1930年代にすでに基盤が作られたものが多い。
 1920年代から60年代までが新宗教の最盛期。
 
●創価学会(p15)
 1930年、牧口常三郎(1871-1944)が『創価教育学体系』第1巻を発行。最終巻の第4巻は1934年に刊行。弟子の戸田城聖(1900-58)が大きな役割を果たした。発行所として「創価教育学会」という名を付けた。
 「社会的な特権から疎外された人間でも努力をして主体的に生き方を深めれば良い人生が送れる」ということを教えるのが、学校教育の目標。算数、国語、理科、社会を統合し、そのような学び方を身につける科目として、「郷土科」を位置付けようとした。当時、ドイツなどで始められていた新しい科目。
 本書の考え方を学びながら、教育実践を改善していこうとする教員たちが集い、牧口を囲み、座談会が行われるようになる。
 牧口が50代の頃、日蓮正宗に入信。同時期に戸田も入信。協力して『創価教育学体系』を出版する。
 
●人間革命(p27)
 創価学会において、「南無妙法蓮華経」と唱え、本尊に「唱題」することで生命力を充実させ、利他の実践を通して最高の状態に近づいていくこと。
 本尊とは、日蓮宗の富士門流(明治時代になると日蓮正宗と改称)の板曼荼羅。日蓮の没後に身延山の池の中から見つかったとされる、板に書かれた曼荼羅本尊(「大御本尊」と呼ばれる)。日蓮正宗では、その板曼荼羅こそが日蓮が後世に残した唯一の本尊であり、その曼荼羅を安置する大石寺こそが、日蓮が説いた仏法の本流であると主張。(p23)
 
●霊友会(p60)
 久保角太郎(1892-1944。九十九里の漁師の四男)と小谷喜美(こたにきみ、1901-71。角太郎の義姉)が創設。法華経系の教団。西田無学の「在家による先祖供養」を重視。
 霊友会から派生した教団……孝道教団、立正佼成会、妙智會教団、霊法会、思親会、佛所護念会、妙道會、大慧会、正義会、など。多くが男女のリーダーがペアを組んでいる。男性の指導者と、女性の霊能者。
 
●新日本宗教団体連合会(p73)
 1951年、立正佼成会は、さまざまな新宗教の指導者たちと協力して、新日本宗教団体連合会(新宗連)を設立した。庭野日敬(1906-99)は、PL教団の御木徳近とともに、リーダー的役割を担う。
 立正佼成会は、1938年に霊友会から独立した教団。庭野が開祖。霊能を持った女性の長沼妙佼(みょうこう、1889-1957)が脇祖と呼ばれる。
 
●読売菩薩(p78)
 1956年、読売新聞が立正佼成会を攻撃するキャンペーンを開始。同会が杉並区和田本町の教団用地の買収と宅地転用にあたって不正を行ったと主張。これまでの研究では、根拠の薄い攻撃だったと捉えられている。
 教団は、告訴などの対抗手段を取らなかった。その批判をむしろ自分たちが反省するための良き助言であるというように捉えて、攻撃者を「読売菩薩」と呼び、感謝の気持ちを持つようにメンバーに働きかけた。
 立正佼成会は、他者に対して攻撃的ではなく、融和的な態度を求めるという特徴が顕著。
 
●社会参加仏教(p82)
 人類共通の普遍的な社会問題に積極的に取り組む仏教の姿勢を、20世紀の末頃から「社会参加仏教」(Engaged Buddhism)と捉える見方が国際的に広がっている。菩薩行・利他行を強調する法華経に縁が深い新宗教教団のなかに社会参加仏教の傾向が目立つ。立正佼成会や孝道教団、妙智會教団、など。
 
●大本(p91)
 大本は、1892年、出口なお(1837-1918)が神がかったことにより始まる。のちに出口王仁三郎(1871-1948)によって書き直された神がかりの言葉は、「初発の神諭(しょっぱつのしんゆ)」と呼ばれるようになる。「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の金神(こんじん)の世に成りたるぞよ。……」
 発祥の地は、京都北部の綾部。
 〔金光教による「誤解され隠されていたよき神が現れる」という「艮の金神」のメッセージ、天理教による「これまでは道にはずれた人たちが支配していた世界だったが、これからは正しい世の中に変わっていくのだ」というメッセージの両方を引き継ぎながら、なおの独自の世直しの予言が発せられていったのだ。〕
 鎮魂帰神の行……男女を問わず信徒に神がかりを体験させ、霊界の実在を強く信じさせる。
 世直し……〔大本は日本の新宗教の中でも世直し的な要素をもっとも濃厚にはらんだ団体として位置づけることができる。〕(p115)
 
●生長の家(p120)
 大本から派生した宗教団体。
 谷口雅春(1893-1985)が、米国で広まっていたニューソートの思想に惹かれて影響を受け、「神想観」という実践を編み出す。
 1930年、『生長の家』を創刊。教団の設立年。
 日本教文社という出版社を運営するようになる。
 強度の天皇崇敬を鼓吹するようになる。
 1964年、生長の家政治連合を結成し、全国の大学に学生組織を作る。
 生長の家の青年組織に所属した者たちが、日本会議(1997年設立)や、日本を守る会(1974年設立)という組織を支えた。
 谷口雅春が没すると、90年代以降、孫の雅宣(まさのぶ)が方向転換し、右派政治色を脱し、天皇信仰の側面も弱まる。生長の家政治連合も活動を停止。
 
●世界救世教(p125)
 岡田茂吉(もきち、1882-1955)のもと、大本の第一弾圧(1921年)以後に大本から分かれ、熱海と箱根を本拠に独自の信仰集団を形成。
 手かざしによる癒しの信仰。神霊が宿る御守り(「お光さま」)を首にかけ、他者に向かって手をかざして「浄霊」を行う。それによって、他者の体内の罪穢れや薬毒を清め、神霊の生命力が付与される。
 美の重視、芸術活動の重視。熱海のMOA美術館。
 1950年代以降、崇教真光(すうきょうまひかり)・世界真光文明教団、神慈秀明会、救世神教、大日本光明協会、世界浄霊会、天聖真美会、救世主教、など多くの教団に分派した。
 
●PL教団(p133)
 御木徳近(1900-83)……1937年に弾圧を受けた「ひとのみち教団」の創始者御木徳一の息子。PL(パーフェクト・リバティー)教団を形成し、1954年から大阪府羽曳野市に本部を置く。
 「PL処世訓」二十一ヶ条を掲げる。第一ヶ条には、「人生は芸術である」とある。本部施設には、ゴルフ場や遊園地や病院とともに大平和祈念塔を持つ。毎夏、大きな花火大会が行われた。
 
●伝統仏教との共存(p154)
 新宗教の現世中心主義は、〔多くの教団が伝統仏教と対立関係をもとうとしなかったこととも関わりがある。信者に伝統仏教との二重帰属を認め、新宗教に入信しても伝統仏教の檀家をやめるようには勧めず、信者は人が死ぬと伝統仏教にのっとって儀礼を行える。これには親族や近隣の人たちとのトラブルを避ける面もあったと思われる。死に対処する状況では、伝統仏教に任せる。つまり、ふだんの信仰生活が死に向かっていない、死を強調する方向ではなかったことも大きく影響している。この時期の新宗教は、死についての儀礼を伝統仏教に委ね、葬式仏教との分業関係にあったとも捉えられる。〕
 
●日本会議(p162)
 日本会議には、念法眞教(ねんぽうしんきょう)、佛所護念会教団、解脱会、霊友会、キリストの幕屋(まくや)など、右派の新宗教団体も多くメンバーとなっている。これらの教団は、平和主義的な考え方や共同行動に向かうことなく、国防や天皇崇敬につながるようなテーマに強い関心を示してきている。
 「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」(1981年設立)が合同して1997年に設立。日本を守る会は、右派の宗教団体が主なメンバーだった。
 
●新宗教、セクト(p170)
 新宗教の登場は、19世紀の初めくらいから。近世から近代にかけて、民衆が自律性を強め、エリート層から独立して政治的・経済的・文化的な営みを行う傾向が強まっていく。
 セクト……宗派、教派。欧米では、近世・近代の民衆的な信仰集団はほぼキリスト教の枠内にとどまった。
 新宗教……日本の場合、既存の仏教や神道、儒教やキリスト教の枠組みにはまらないものが多かった。
 
●教派神道(p171)
 19世紀の初めから明治維新期の初めに登場してきた新宗教団体群。
 独立した宗教教団……天理教、金光教、黒住教。
 独立した教派にはならなかったが、宗教団体として自律性を持っていた教団……丸山教(神道色が濃い)、如来教(仏教色が濃い)。
 
●修験道(p177)
 山岳信仰の修験道は、役小角(伝634-701)を開祖とする。神仏習合の代表的な信仰集団。
 江戸時代になると修験者(山伏)の中には半分農民という人もかなりて(里山伏)、結婚もできるので、俗人と僧侶の間くらいの人が宗教活動を行った。
 本山派……天台宗に属する。聖護院が総本山。
 当山派……真言宗に属する。醍醐寺三宝院が総本山。
 
●食行身禄(p178)
 食行身禄(じきぎょうみろく、1671-1733)、伊勢の商人で、本名は伊藤伊兵衛。江戸に出てきて油売りなどをしていた。
 富士講を熱心に行うようになり、インスピレーションを受けて独自の教えを説くようになった。
 富士山で入定。世を救う行為だと信じ、烏帽子岩(現在の八合目)で瞑想をし、言葉を唱えながら死んでいった。世直しを祈願してなされる犠牲死の行。
 
●金光教(p190)
 教祖は赤沢文治(1814-83)。岡山県大谷村出身。のちに金光大神(こんこうだいじん)という神名で呼ばれるようになる。
 1859年、46歳の時に神の「お知らせ」を受け、農業をやめて神前での取次に専念するようになる。
 取次……「広前(ひろまえ)」と呼ばれる屋内の神前の空間の「結界」右手に教祖が坐し、左の耳の側から信徒の悩みや願いを聞き、それを目の前の机で書き写し、右の耳の側に祀られている神の応答と答えを聞いて信徒に「ご理解」を伝えるというやりとり。この「結界取次」が金光教の救いの信仰の活動の核となる。
 弟子たちにも、「出社(でやしろ)」を開いて結界取次を行うことを認めるようになる。
 55歳の時、自らの神名を「生神(いきがみ)金光大神」とするようになる。
 
●天理教(p194)
 教祖は中山みき(1798-1887)。大和盆地の大庄屋、前川家という農家に生まれた。
 ひとり息子が足の病にかかり、修験道に関わるようになる。内山永久寺という大寺の市兵衛という山伏に祈禱をしてもらうようになる。
 1838年(天保9年)、代役で加持台(かじだい)になった時、天下った神が「我は元の神、実の神である。この世を救うために天下った」と言った。山伏の統御できる信仰領域から外れてしまった中山みきは、長期にわたる苦難の生活と神との対話の時期を経て、「天の将軍、普通の神とは違う偉大な神であり、人々を救う」と語り始める。
 やがて中山みきは、「みかぐらうた(御神楽歌)」という、踊りの付いた祈りの歌を作る。これが天理教のもっとも重要な儀式である「おつとめ」になった。すべての信徒が朝晩に行ったり、記念日の祭典に行ったりする祈り。八つある心のほこり(惜しい、欲しい、憎い、かわいい、恨み、腹立ち、欲、高慢)をはらう。
 加持台……「憑(よ)り祈禱(ぎとう)」(寄加持《よせかじ》)では、男の修験者が女性の修験者に神を降ろす。その降ろされる側のことを加持台という。
 おふでさき……中山みき自身が、神の言葉をすべてひらがなで書いたもの。天理教の主要な経典。「元始(もとはじ)まり」という、『古事記』に似た人間創造の神話もある。人類の始まりの場所は、中山家のあった場所。「ぢば」と呼ばれる。
 
●現世救済(p219)
〔 現世否定的ということと対応するものに独身聖職者の存在がある。仏教やカトリック教会の聖職者は職業生活をせず、家族をもたない。この世の快楽や生命増殖に関わらない。経済活動や性行為に関わらず、生命を保ち次代へ継承することに携わらない。生涯独身を貫くことが規範とされる。だが、イスラームはその制度がなく、ヒンドゥーもそうだ。ユダヤ教も日本の浄土真宗でも独身制は求められていない。だが、キリスト教や仏教のような救済宗教における独身を保つ聖職者の存在は、現世否定的な価値観に通じている。永遠のものがこの世を超えた所にあるという考え方に対応している。
 ここに日本の新宗教の発生が関わってくる。日本の新宗教は救済を解く。けれどもその救済はこの世で実現する。この世こそが真の実在であり、その中でこそ救いが実現する。現世救済こそが目標なのだ。それはまた、現世に対して否定的な姿勢をとらない、あるいは否定が弱いということでもある。そのような救済宗教は世界宗教史の中にないわけではないが、この側面がとても明確に発展したのは日本の新宗教の際立った特徴といえる。〕
 
●新新宗教(p232)
 1970年以降の「新新宗教」は、新宗教の時代区分では第4期になる。真如苑、幸福の科学、オウム真理教、など。現世肯定的ではない教団が増えてくる。現代まで続いている。
 第1期……天理教、金光教、本門佛立講、など
 第2期……大本、など
 第3期……霊友会、生長の家、創価学会、立正佼成会、など
 
●真如苑(p236)
 山梨県出身の伊藤真乗(しんじょう。開祖。1906-89)と友司(ともじ。摂受心院。1912-67)の夫婦(またいとこでもある)によって創始された。
 1936年、真乗が勤務先の石川島飛行機製作所を退職し、不動明王を祀る立川の立照閣で宗教活動を始めた。成田山新勝寺に属する立川立照講として届け出。友司の霊能が原動力となった。真乗は、修験道の本拠である真言宗醍醐寺の三宝院で得度。
 1938年、真言宗醍醐派「立川不動尊教会」とし、翌年には、真澄寺に移る。
 戦後は、真言宗から離脱し、「まこと教団」として活動を進める。
 1951年、教団名を「真如苑」に。
 
●統一教会(p240)
 世界キリスト教統一神霊協会の略称。
 現在では、世界平和統一家庭連合と称している。韓国では1994年より、日本では2015年に改称。
 
●阿含宗(p256)
 1954年、桐山靖雄(せいゆう、1921-2016)によって横浜市で創設。
 当初は、現世利益の追求や心なおしが大きな位置を占めていた。
 1970年ごろからは、『変身の原理――密教の神秘』(1971年)、『密教・超能力の秘密』(1972年)において、瞑想による密教的=ヨーガ的な修行を行うことによって、記憶力をはじめとする知的能力を拡大し、超能力を得て自らを普通人より進化した超人的存在に変身させることができると説くようになる。脳生理学への言及が大きな部分を占める。
 平河出版社にて、精神世界と東洋思想の領域で出版活動を行っている。(p276)
 
●幸福の科学(p266)
 東大法学部を卒業し、商社に勤めていた大川隆法が1986年に創始した教団。1987年に、『太陽の法』『黄金の法』『永遠の法』を刊行、基本的な信仰が語られている。
 霊界と霊的存在の実在性を強く主張。霊界は何次元にも分かれており、四次元の霊界までは普通の人が帰っていく世界。五次元が善人界、六次元が光明界、七次元が菩薩界、八次元が如来界。九次元が宇宙界で、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)、イエス・キリスト、モーゼ、ゼウス、マヌ、ニュートン、ゾロアスター、孔子、エンリル、マイトレーヤの十の存在がいる。
 釈迦の本体意識が「エル・カンターレ」で「最高大霊」とされる。この意識はさまざまに転生してきており、いま、大川隆法として地球―日本に下生(げしょう)している。
 
(2021/2/17)KG
 
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ゼロからつくる科学文明 タイムトラベラーのためのサバイバルガイド
 [自然科学]

ゼロからつくる科学文明 タイムトラベラーのためのサバイバルガイド
 
ライアン・ノース/著 吉田三知世/訳
出版社名:早川書房
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-15-209967-9
税込価格:3,080円
頁数・縦:549p・19cm
 
 レンタルタイムマシン「FC3000[トレードマーク]」が過去のある時点に漂着した時、一から文明を作るためのガイドブック、という体裁の科学の雑学蘊蓄集。
 
【目次】
1. あなたがどの時代に閉じ込められたかを判別する方法:便利なフローチャート
2. あなたが紀元前20万年から紀元前50,000年のあいだに閉じ込められたとお考えで、「ここの人間たちはイカれていて、私はもう間違いなく永遠に絶望的だ」と思われている場合に特にお伝えしたいこと
3. あなたの文明のために必要な5つの基本技術
4. 測定単位は何でもいいとはいえ、本書で使われている標準的な測定単位を発明しなおす方法
5. われらは農民なり。世界を貪る者なり
6. 人間は進化したけれど、まだ農業や品種改良は行われていない時代に閉じ込められたとすると、ほかの人間たちは何を食べているのでしょうか?それに、古代人はとんでもなくばかなものを食べているに違いないので、それが毒かどうかどうやって見分ければいいのでしょう?
7. 過去に閉じ込められたタイムトラベラーに役立つ植物
8. 過去に閉じ込められたタイムトラベラーに役立つ動物
9. 基本的な栄養:少しでも長く生きるために何を食べるべきか
10. 技術で解決できる、人間が抱きがちな不満
11. 化学:物とは何か?どうやって物を作ればいいのか?
12. ハイタッチについての小洒落た文章で、哲学の主要学派をまとめて紹介
13. 視覚芸術の基本。あなたに真似できるスタイルもいくつか。
14. 体を癒す:薬とその発明の仕方
15. 基本的な応急(あなたの場合、唯一の)処置
16. 音楽、楽器、音楽理論の作り方。あなたが盗作に使える、すごくいい歌もご紹介。
17. コンピュータ:あなたがあまり一生懸命考えなくても、ハンドルかなにかを回すだけで済むように、頭脳労働を肉体労働に変える方法
 
【著者】
ノース,ライアン (North, Ryan)
 トロント在住の作家。「Dinosaur Comics!」シリーズは漫画のアカデミー賞と呼ばれるアイズゴー賞とハーヴェイ賞を受賞。
 
吉田 三知世 (ヨシダ ミチヨ)
翻訳者、京都大学理学部物理系卒。
 
【抜書】
●フロギストン(p55)
 西暦1700年代には、物が燃えるのは、それがフロギストンでで満たされているからだと考えられていた。
 フロギストンが多く含まれているもの(木など)は素早く燃え、あまり含まれていないものはよく燃えず、灰はすでにフロギストンが完全になくなってしまって全く燃えない。
 フロギストン……目に見えず、触れることもできず、抽出することもできないが、他の物質が燃えるには必要な物質。
 
●マーズ・クライメイト・オービター(p65、注)
 1999年、アメリカの火星探査機。度量衡の単位を間違えて軌道を計算したために、誤って火星に衝突させてしまった。
 
●根粒菌(p79)
 ヒヨコマメ、エンドウマメ、ダイズ、ソラマメ、アルファルファ、クローバー、レンズマメ、ビーナッツなどは、根粒菌を根の中に寄生させて共生しているので、窒素を土壌に戻してくれる。
 これらの植物を根を残したまま収穫すれば、窒素と根粒菌が土壌に残り、他の作物を栽培した時に不足した窒素を補うことができる。
 
●四圃式(p80)
 農地を四つに区切り、次の作物を順番に植える。頻繁に作物が変わるので、害虫も避けられる。
 小麦……人間の食糧。
 カブ……人間と家畜のための食糧。家畜に草を食べさせる。
 大麦……人間と家畜のための食糧。
 クローバー……家畜に食べさせる。家畜の糞が肥やしになる。
 
●ピンク・グレープフルーツ(p86)
 1950年代、米国で行われた「アトムズ・フォー・ピース(原子力平和利用)」の実験で生まれた。
 「ガンマ・ガーデン」にて、庭の中央部に放射性物質が置かれ、その周囲に同心円状に植物が植えられた。中央に近い植物は死に絶え、もっとも外側の植物は影響を受けなかった。その中間の植物に突然変異が起き、その一つとしてピンク・グレープフルーツが誕生した。
 
●サトウキビ(p107)
 サトウキビは、最も効率よく光合成を行う植物。
 
●萌芽更新(p112)
 ヤナギは、セイヨウトネリコと同様、成長が著しい木である。燃料用に最適。
 木が休眠状態にある冬に切っても、切り株を残しておけば死なない。春になると、その根を使って再成長する。萌芽更新。
 ヤナギは、2~5年ごとに萌芽更新を行うことによって、繰り返し収穫することができる。
 
●猫(p124)
 1346~1353年、ヨーロッパでペストが大流行。人間の半分が亡くなった。
 猫がペストを媒介していると考えられ、流行を食い止めるために猫の大量殺処分が行われた。実際には、主要媒介生物はネズミについたノミだった。皮肉なことに、猫がいなくなり、ネズミが爆発的に増殖してペストの被害を拡大した。
 
●カストリウム(p140)
 カストリウム(海狸香)……ビーバーが縄張りのマーキングに使う物質。骨盤と尾の間の皮膚の下にある空洞内の香嚢から分泌される。バニラに似た香り。
 抗炎症薬や、消炎剤として使えるサリシンが含まれている。
 サリシンは、ヤナギの樹皮にも含まれている。
 
●鬘(p144)
 昔の裕福なヨーロッパ人は、大きな鬘(かつら)をかぶっていた。
 当時、シラミが大流行していたため、彼らは自毛を剃っていた。
 
●アカシア(p295)
 古代エジプトの女性は、はちみつ、アカシアの葉、糸くずを混ぜたものを、精子に対する物理的障壁として、セックスの前に挿入した。
 アカシアは、殺精子作用をもつ乳酸を生じるので、ある程度有効だった。
 
●鋼鉄(p311)
 鋼鉄は、炭素を0.2~2.1%含む。
 高炉から出てくる、炭素の含有量が多い(4.5%ほど)鉄は銑鉄(または鋳鉄)と呼ばれ、もろい。融点が低いため、溶かして型に注ぎ、フライパン、パイプなどを鋳造するには便利。
 
●活字合金(p325)
 印刷業者たちは、標準的な合金を使って活字を鋳造することにした。鉛、スズ、アンチモン。「活字合金」と呼ばれ、丈夫で長持ちする活字を作ることができる。
 合金の比率は印刷所ごとに異なるが、鉛54%、アンチモン28%、スズ18%が伝統的に使われていた。より長時間の連続印刷のための活字は、78%、15%、7%。
 
●消石灰(p486)
 炭酸カルシウム(チョーク)……CaCO?。カルサイト(方解石。純粋な炭酸カルシウム)、石灰岩、チョーク(白亜)、大理石、卵の殻(約94%)、貝殻に含まれる。卵の殻を洗浄し、乾燥したのち、砕く。土壌に混ぜると、植物にカルシウムを与えることができる。土の酸性度を下げることができる。
 酸化カルシウム(生石灰)……CaO。炭酸カルシウムを含む物質を窯の中で850℃以上に熱すると、生石灰と二酸化炭素を生じる。生石灰を加熱した時に生じる光がライムライト。劇場の照明に使っていた。
 水酸化カルシウム(消石灰)……Ca(OH)?。酸化カルシウムを水と混ぜる。モルタル、漆喰として使うことができる。カルシウムのサプリメントに使える。水の浄化、下水処理にも。
 
(2021/2/13)KG
 
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一億三千万人のための『論語』教室
 [哲学・心理・宗教]

一億三千万人のための『論語』教室 (河出新書)
 
高橋源一郎/著
出版社名:河出書房新社(河出新書 012)
出版年月:2019年10月
ISBNコード:978-4-309-63112-7
税込価格:1,320円
頁数・縦:533p・18cm
 
 髙橋源一郎流論語解釈、ってとこか。
 20年ほど前、ある編集部から『論語』の翻訳の依頼があった。「世界の大古典」というような企画だったらしいが、その企画はなくなってしまったものの、それがきっかけで『論語』を読み始め、ほそぼそと『文藝』に連載を続けてきたものを書籍化した、ということらしい。
 
【目次】
レッスン1 学而
レッスン2 為政
レッスン3 八佾(いつ)
レッスン4 里仁
レッスン5 公冶長
レッスン6 雍也
レッスン7 述而
レッスン8 泰伯
レッスン9 子罕
レッスン10 郷党
折り返し地点で
レッスン11 先進
レッスン12 顔淵
レッスン13 子路
レッスン14 憲問
レッスン15 衛霊公
レッスン16 季氏
レッスン17 陽貨
レッスン18 微子
レッスン19 子張
レッスン20 堯曰
 
【著者】
高橋 源一郎 (タカハシ ゲンイチロウ)
 1951年生まれ。81年、『さようなら、ギャングたち』で群像新人賞長編小説賞を受賞しデビュー。2002年『日本文学盛衰史』で伊藤整文学賞、2012年『さよならクリストファー・ロビン』で谷崎潤一郎賞を受賞。著書多数。
 
【抜書】
●関雎(p74)
 60 子曰く、関雎(かんしょ)は楽しんで淫せず、哀しんで傷(やぶ)らず。
 関雎……「(詩経の第一篇の名。その詩の冒頭の「関関雎鳩」の句の略。「関関」は鳴く声の和らぐさま。「雎鳩(しょきゅう)」はみさごで、夫婦仲がよいとされる水鳥。詩は五章で、君子と淑女の愛情をうたっている) 夫婦の道のこと。また、夫婦が和合してかつ礼儀正しいこと。」
 "かん‐しょ[クヮン‥]【関雎】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2021-02-06)
 
●音楽の四要素(p80)
 63 子、魯の大師(たいし)に楽を語りて曰く、楽は其れ知るべきない。始め作(おこ)すや翕如(きゅうじょ)たり。之に従うこと純如たり。皦如(きょうじょ)たり。繹如(えきじょ)たり、以て成る。
 音楽の四要素を語っているが、その中身は?
 〔儒家が、というか、センセイが「礼楽」一致を説いていたことはよく知られている。音楽の論理と、「礼」の論理が一致することを、センセイは知っていたわけだ。「翕如」、「純如」、「皦如」、「繹如」と、センセイは、音楽の四要素について語っているが、その中身はわからない……と宮崎先生もお手上げだとしてる。〕
 宮崎先生=宮崎市定。
 
●法の支配(p256)
 「折り返し地点で」にて。
〔 そうやって比較していくと、先生のいっている「仁」とか「礼」というものの正体が、なんだかわかってくる(気がする)。政治というものを、王様の恣意に委ねない。もっと、きちんとしたものに基礎をおかなきゃならない。それが、現代では、憲法であったり民主主義だったりするわけですね。ひとことでいえば「法の支配」です。だとするなら、センセイのいっているのも同じことかもしれない。堯や舜はすごい王様だった(実在してないかもしれないけど)。あの統治を再現すれば、みんなが幸せになる。でも、不幸なことに、誰もが堯や舜になれるわけでない。だから、民主主義にしよう、ということになると、ペリクレスです。でも、センセイは、少しちがった考えだった。堯や舜のようになれる「考え方」を定めたのです。〕
 
【ツッコミ処】
・たくさんありすぎて割愛。
 
(2021/2/6)KG
 
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