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新・資本主義論 「見捨てない社会」を取り戻すために
 [社会・政治・時事]

新・資本主義論:「見捨てない社会」を取り戻すために
 
ポール・コリアー/著 伊藤真/訳
出版社名:白水社
出版年月:2020年9月
ISBNコード:978-4-560-09787-8
税込価格:3,520円
頁数・縦:317, 15p・20cm
 
 イデオロギーとポピュリズムを廃したプラグマティズムを根底に据え、社会民主主義に根差した倫理的な資本主義こそが、今後構築すべき世界の姿である。グローバル化と新自由主義によって傷ついた社会について論じ、それを乗り越えるための新しい資本主義について提案する。
 
【目次】
第1部 危機
 第1章 新たなる不安
第2部 倫理を回復するには
 第2章 道徳の基礎―利己的遺伝子から倫理的集団へ
 第3章 倫理的な国家
 第4章 倫理的な企業
 第5章 倫理的な家族
 第6章 倫理的な世界
第3部 包摂的な社会を回復するには
 第7章 地理的格差―繁栄する大都市と破綻した都市
 第8章 階級格差―すべてを「持てる者」たちと崩れゆく「持たざる者」たち
 第9章 グローバルな格差―勝者と落伍者
第4部 包摂的な政治を回復するには
 第10章 二極分化を超えて
 
【著者】
コリアー,ポール (Collier, Paul)
 オックスフォード大学ブラヴァトニック公共政策大学院教授。『最底辺の10億人』『民主主義がアフリカ経済を殺す』(以上、日経BP)、『収奪の星』『エクソダス』(以上、みすず書房)の著書で知られる政治経済学者。アフリカをフィールドワークの中心としながら、世界の最貧国の最底辺で暮らす人びとに寄り添い、先進諸国の政治・経済政策やグローバリズムの弊害に厳しい批判の目を向けてきた。また、途上国援助や民主主義といった理念的には望ましい政策も、運用を間違えればかえって救うべき人びとに不幸をもたらす現実を鋭く指摘。
 
伊藤 真 (イトウ マコト)
ノンフィクションを中心に翻訳に従事。
 
【抜書】
●六つの価値観(p21)
 ジョナサン・ハイトは、世界中の人々が抱く根本的な価値観を測定した。その結果、私たちはほぼ誰でも六つの価値観を重視しているという。『社会はなぜ左と右にわかれるのか』高橋洋訳、紀伊國屋書店。原著は2012年刊。
 忠誠、公正さ、自由、権威の尊重(ヒエラルキー)、気遣い(ケア)、神聖さ。
 
●ロールズ主義(p23)
 ジョン・ロールズ、1921-2002年。
 ある社会が道徳的であるかどうかは、もっとも不利な立場にある集団の利益のためにその法制が設計されているかどうかで判断すべきだ、という主張。弁護士たちが率先した。
 
●社会的母権主義(p34)
 ソーシャル・マターナリズム。社会的父権主義に対抗する概念。
 〔国家は社会と経済の両方の領域で積極的に役割を果たすが、過度に自らの権力を増大させることはしない。租税政策は強者たちが分不相応な利益を持ち去ることがないように抑制するが、喜び勇んで富裕層から所得を奪い取って貧困層に配るようなことはしない。さまざまな規制はするが、それはまさに資本主義が驚異的なダイナミズムを発揮する活動を挫くためではなく、「創造的破壊」――それは競争によって経済発展を促進する――の犠牲者たちが補償を求めることができるようにするためだ。「社会的母権主義」のもとでは、愛国心が人びとを結束させる推進力となり、不平不満に基づく個々にばらばらなアイデンティティは重視されなくなる。この指針の哲学的基盤となるのはイデオロギーの排斥だ。とはいえ、雑多な思想のごった煮というわけではなく、私たちの多様かつ本能的な道徳的な価値観と、その多様性に当然ながら伴うプラグマティックな妥協とを、進んで受け入れることを意味している。何か特定の単一な絶対的な理性的原理でもって多様な価値観を退けるというやり方は、必然的に対立をもたらすだけだ。互いの多様な価値観を認め合うことは、デイヴィッド・ヒュームとアダム・スミスの哲学に根差しているのだ。左右両極の対立は二十世紀の最悪の時期の特徴であり、目下猛烈な勢いで復活しつつあるが、本書が提示する諸政策はそれを乗り越えるのである。〕
 
●プラグマティズム(p48)
 〔プラグマティズムはイデオロギーの対極にあるのと同様に、大衆迎合主義(ポピュリズム)とも対極にある。イデオロギーは数々の豊かな人間的価値観よりも、何らかの「理屈」を優先する。一方、ポピュリズムは証拠に基づく実際的な推論を払いのけ、いつだって臆面もなく激情にまかせて一足飛びに政策へと飛躍する。私たちが抱く価値観は、実際的な論理的思考と組み合わされば、心と頭を組み合わせたものになる。それに対してポピュリズムが提示するのは心ばかりで頭がなく、イデオロギーによる価値観は頭ばかりで心がないのだ。〕
 
●最高コミュニケーション長官(p62)
〔 家族、企業、そして国家は、私たちの生活を成り立たせるのに不可欠な舞台(アリーナ)だ。それらを構築するもっとも手っ取り早い方法はヒエラルキー型の構造にすることだろう。そこではトップの連中が下層の連中に命令を下す。ただし、つくるのは簡単でも、効率的に運営することはきわめて難しい。司令官たちが部下たちの行動を監視て(ママ)いるときしか、人びとは命令に従わないからだ。これまでも多くの組織では、ヒエラルキー構造を緩めるほうが効率的だということに気づいてきた。明確な目的意識のある相互に依存した役割を人びとのためにつくり出し、それを実行する自主性と責任を人びとに与えるのだ。こうして、力によって運営されるヒエラルキー型組織から、目的意識によって運営される相互依存型の組織へと移行することは、同時にそれに応じてリーダーシップのあり方を変えることでもある。リーダーは「最高司令官」ではなく、「最高コミュニケーション長官」となったのだ。「飴と鞭」に「ナラティブ」が取って代わるのである。〕
 
●倫理的な資本主義(p70)
 イデオローグともポピュリストとも異なる道。
 私たちの価値観に基づく規準に合致し、実際的な推論によって研ぎ澄まされ、社会自体によって再生産さる。
 「社会自体によって再生産される」とは、社会の種々の規範は自らを破壊するようなものであってはならない、という意味。
 
●持ち家(p104)
 〔若い人たちが帰属意識を失いつつある理由の一つは、家を買うことがきわめて難しくなってしまったことだ。人口に占める持ち家率は、帰属意識の中心部を知るための実用的な指標となる。そして後述するように、持ち家率を回復させるには賢明な公共政策が必要なのである。〕
 
●経済的レント(p203)
 ある人に何らかの行為を行わせる誘因となる収入を超過する収入。
 集積による利益は経済的レントである。そのため、効率性という基準に照らして理想的な課税のターゲットとなる。
 
●幼稚園無償化(p234)
 幼稚園教育こそ、国家が提供すべき根拠が他のどんなレベルの教育よりも強い。
 幼稚園がもっとも標準化しやすい。規模が大きくなればコストも下がる。国家が運営する利点が大きい。
 社会が主として幼稚園に期待するのは、幼い子供たちが社会の幅広く多様な背景出身の他の子供たちと出会えるように、標準的な場を提供してくれること。
 望ましい結果として、(1)子供たちの人格が社会的影響によって最も形成されやすい時期に、社会的に多様な子供たちと交わることができること、(2)もっとも就学前教育を必要としている子供たちが通園する可能性が高くなること。
 
●ティーチ・ファースト・プログラム(p237)
 大学を卒業したての優秀な学生に、ほかの職業に就く前に卒業後から数年間、教員をさせること。
 当初はロンドンに限られていたが、最も必要としているのは地方の都市や町の学校。優秀な教員たちはそこで孤立して置き去りになることを恐れ、そうした学校への赴任には及び腰である。一生教員をしようという人たちが行きたがらないからこそ、ずっと教員をするつもりのない人材こそ、ふさわしい。
 
●金融、法曹(p264)
〔 きわめて生産性の高い多くの高学歴者たちは社会にとってきわめて有益である。だがその多くは他人を犠牲にして自分たちが稼ぐためにスキルを使っている。〕
 金融界と法曹界を結ぶさまざまな職。
 金融資産の活発な取引は資産の流動性を高めるのに有効だが、その取引の大部分はゼロ・サム。
 〔ではそんなゼロ・サム式の取引がどうして行われるのか? 答えは、ひどく頭の切れる連中がわずかに頭の切れが劣る連中を出し抜けるからだ。〕
 ドイツ銀行は、スター行員のボーナスに710億ユーロを支払った。株主には190億ユーロ。
 弁護士は数が多すぎる。イギリスの弁護士の収入の70%は住宅取引の法的手続きを独占していることによる。弁護士はもっぱら経済的レントを追い求めている。
 こうした人材を、社会的に価値のあるイノベーションに向かわせるべき。イノベーションによって生み出した利益の96%は、イノベーター以外の人々が享受できる。
 
●コミュニタリアニズム(p287)
 最後に資本主義がまともに機能していた時期は1945-70年。
 この時期の政策は、主要政党に満ち満ちていた共同体主義(コミュニタリアニズム)的な社会民主主義を指針としていた。
 社会民主主義の源は19世紀の共同組合運動。
 
(2021/8/26)NM
 
〈この本の詳細〉


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