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中東全史 イスラーム世界の二千年
 [歴史・地理・民俗]

中東全史 ――イスラーム世界の二千年 (ちくま学芸文庫)
 
バーナード・ルイス/著 白須英子/訳
出版社名:筑摩書房(ちくま学芸文庫 ル9-1)
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-480-51001-3
税込価格:2,200円
頁数・縦:754p・15cm
 
 単行本『イスラーム世界の二千年』(草思社、2001年)の文庫版。原著は、“The Middle East: 2000 years of History from the Rise of Christianity to the Present Day”、1995年。
 単なる政治史、帝国史ではなく、中東の歴史と文化がよく分かる1冊である。
 
【目次】
第1部 文明の十字路は今
 西欧化は服装から始まった
 メディアの力
 統治者の肖像画と偶像崇拝禁止の矛盾
 伝統と文化のはざまで
第2部 先人たち
 キリスト教勃興以前
 イスラームの興隆まで
第3部 イスラームの黎明期と最盛期
 イスラームの起源
 アッバース朝カリフ国
 大草原民族の到来
 モンゴル人襲来の余波
 硝煙の匂う帝国
第4部 イスラーム社会の断面図
 中東諸国家の性格
 経済
 エリートたち
 庶民たち
 宗教と法律
 文化
第5部 迫りくる近代化の波
 西欧からの挑戦
 忍び寄る変化
 対応と反発
 新しい思想
 戦争の時代
 自由を求めて
 
【著者】
 ルイス,バーナード (Lewis, Bernard)
 1916年‐2018年。ロンドン大学で近東・中東研究、イスラーム史を専攻。第二次大戦中は英国軍においてカイロ等に駐在し、1949年からロンドン大学アジア・アフリカ学院教授。74年からプリンストン大学付属高等技術研究所教授を歴任し、同大学名誉教授となる。
 
白須 英子 (シラス ヒデコ)
 翻訳家。日本女子大学英文学科卒業。
 
【抜書】
●政府刊行物(p63)
 中東では、かなり長い間、新聞といえば政府刊行物だった。「臣民に政府の意図と命令を伝えるためのもの」。
 
●ガリラヤ(p83)
 現在のイスラエル近辺のローマ時代の名称。
 北部「ガリラヤ」、中部「サマリア」、南部「ユダヤ」。
 
●アラビアの衰退(p116)
 ローマ帝国とペルシア帝国が平和を保っていた384~502年の間、アラビアは衰退した。アラビアも、砂漠やオアシスを経由する長くて費用もかさむ危険の多い隊商路も、顧みられなくなった。
 オアシスの入植者たちでさえ、移住するか、遊牧生活に切り替えた。交易の途絶と遊牧生活への切り替えが生活や文化の水準を全般的に下げ、アラビアを大昔に返ったように文明世界から著しく孤立させてしまった。
 ムハンマドが生まれた6世紀には、再びペルシア帝国とビザンツ帝国との紛争が再開した。アラビアの住民たちは、両方の側から支持を求められたり、礼遇されたり、賄賂を使って買収されたり、うまい汁が吸えるようになった。
 さらに、ビザンツ帝国はペルシア人の影響力が及ばないルートを探さねばならず、北の大草原地帯を通るものと、南の砂漠を経由する二つのルートを再開拓した。
 
●絹の流出(p123)
 中国では、絹の製造は厳重な秘密とされ、蚕を輸出したものは死刑に処せられていた。
 552年、シリアのネストリウス派の二人の修道士が中国からビザンツ帝国へ蚕の卵を密輸することに成功し、7世紀はじめには小アジアで養蚕業が確立された。
 中国の独占に終止符が打たれた。
 
●政治的権力(p132)
 〔ムハンマドは約束の地を征服し、生前に勝利を収めて、預言者としての権威ばかりでなく政治的権力をも行使する実力者になった。神の使徒としての彼は、宗教的な啓示を携えて、それを民に広めた。だが同時に、彼はイスラーム共同体(ウンマ)の長として、法律を発布、施行し、税金を集め、外交の指揮をとり、戦争もし、和議を結んだ。生活共同体として出発したウンマは国家になり、やがて帝国になる。〕
 
●シーア・アリー(p146)
 「アリーの党派」という意味。のちに「アリー」が省略されて「シーア派」と呼ばれるようになった。
 正統カリフの時代、カリフは、非世襲制によって即位した。
 《正統カリフ時代》
 初代:アブー・バクル……2年間の統治。634年に病死。
 二代:ウマル・ブン・アハッターブ……在位634−644年。アブー・バクルが臨終の床で後継者に指名した。アリー(ムハンマドの従兄弟で娘婿)の支持者たちだけが異議を申し立てた。不満をいだいたキリスト教徒の奴隷によって殺された。
 三代:ウスマーン……644−656年。メッカの貴族階級の代表者である名門ウマイヤ家。二人の前任者のような尊敬を得られなかった。ムスリム・アラブ人の謀反によって殺された。
 四代:アリー……656−661年。ムスリム・アラブ人の謀反によって殺された。
 五代(ウマイヤ朝):ムアーウィア……661−680年。ウスマーンの従兄弟で、シリア州総督だった。以降、カリフの後継者は事実上世襲制となった。
 
●イスラーム(p162)
 「真の宗教はただ一つイスラームあるのみ。」(コーラン第3章)
 イスラーム……「絶対的に服従する」という意味。神に対する絶対無条件服従。
 「ムスリム」は、同じ動詞の能動分詞で、「絶対的に服従する者」を意味する。その昔、「そっくりそのままの状態」という別の概念を意味する言葉でもあった。つまり「ムスリム」とは、自分自身を他の一切を除く唯一の神だけにそっくりそのまま捧げる者、という意味。7世紀の異教徒の国アラビアの多神教徒に対して、一神教徒を意味した。(p419)
 
●イラン人の幕間劇(p183)
 9世紀にアラブ人勢力が衰退して、11世紀にトルコ人勢力が最終的に確立されるまでの間に、イラン人の復活する時期があった。イラン人に支持されたイラン人の王朝による国家が、イランを基盤とした地域に興った。
 イラン人の民族精神と文化を新たなイスラームという形で生き返らせた。
 イラン東部のターヒル朝(821−873年)、東方のサッファール朝(867−903年)とサーマーン朝(875−999年)、北方と西方のブワイフ朝(932−1055年)、などのムスリム王朝。
 特にサーマーン朝の首都ブラハは、イラン文化復活のセンターになった。公用語はペルシア語。ペルシアの詩人や学者の活動を奨励し、10−11世紀には、ムスリムの信仰と伝統に大きな影響を受け、アラビア文字で書かれていたが、本質的には明らかにペルシア的な新しいペルシア文学が誕生した。
 
●カリフ(p278)
〔 カリフは教皇と皇帝を一人で兼ねる、国家と教会の長であると言われることがある。西欧的キリスト教用語を使ったこの表現は誤解を招きやすい。たしかにキリスト教徒帝国のような「帝権」と「教権」のあいだの区別はなかったし、また別個に独自の長と位階制をもつ宗教組織としての「教会」も存在していなかった。カリフ位はつねに宗教職と定義され、カリフの至上の目的は、預言者ムハンマドの伝統を守り、聖法を守らせることだった。だが、カリフには教皇や司祭のような機能さえもなく、教育あるいは専門職としての経験を積むことによってイスラーム法・神学者階級(ウラマー)に属することもなかった。カリフの任務は、教義の説明や解釈ではなく、その支持と保護、つまり臣民がこの世でよきムスリムとしての人生を送り、来世への準備を整えられるようにすることにあった。そのために、カリフはイスラーム国家の国境内で、神から与えられた聖法を維持、擁護し、できれば国境を広げ、定めの時までに全世界にイスラームの光明を広げなければならなかった。ムスリムの正史では、初期の征服を、「開通」を意味するアラビア語〈フトゥーフ〉と呼んでいる。
 カリフには、その職務のさまざまな側面と概念を象徴するいくつもの呼び名があった。神学者や法学者はカリフを、本来はムスリムの礼拝の指導者を意味する〈イマーム〉(導師)と呼ぶのが常である。カリフの政治的・軍事的権威は〈アミール・アルムーミニーン〉と呼ばれていたが、これは通常「信徒の長」と訳されていて、もっとも頻繁に用いられた称号だった。〈ハリーファ〉(継承者、代理人)という称号は歴史家がよく用い、硬貨の銘にもしばしばこの言葉が見られる。理論的には、預言者ムハンマドがイスラーム教を創始してからの最初の数百年は、カリフを長とする一つの国家によって統治されたムスリム共同体が一つあっただけだった。〕
 
●カリフの消滅(p299)
 16世紀初頭、中東には三つの大きな国家があった。トルコとエジプトはスルタン、イランはシャーによって統治されていた。
 1527年のオスマン帝国のエジプト遠征後、アッバース朝系の最後の名目的なカリフがカイロからイスタンブールへ連行され、数年後に平民となって帰国した。それ以降カリフはいなくなり、オスマン帝国の歴代スルタンと、あちこちの小国の自称スルタンたちは、同時にカリフを名乗り、各自の領土を支配した。「カリフ」という言葉が、スルタンがその称号に付け加えた無数の称号の一つになった。
 「カリフ」は、18世紀末に全く違った状況のもとで復活するまで、古来の重要性を全く持たないものになってしまった。
 
●形成手術(p342)
 イスラーム法では身体の毀損を禁じていたので、宦官たちは、イスラーム領土へ入る前に辺境地で「形成」手術を受けた。
 
●アル・ムータシム(p384)
 奴隷連隊を導入したのは、アッバース朝カリフのアル・ムータシム(在位833−842年)だったと言われている。
 イスラーム圏以東の草原地帯で若いうちに捕えられ、少年時代から軍事訓練を受けたトルコ人奴隷で構成されていた。
 その後も奴隷兵士の大部分がトルコ人で、トルコ人自身がイスラーム教に改宗して法的に奴隷化できなくなるまで続いた。トルコ人支配者たちは、カフカスやバルカン半島の非ムスリムを奴隷兵に徴用した。
 
●スルーク(p412)
 古代アラビアでは、スルーク(山賊詩人)と呼ばれる人たちが活躍した。
 スルークは放浪者で、部族の組織圏外に生活し、組織によって何ひとつ保護されていなかった。そのような人たちが際だって優れた詩を生み出し、中世のみならず近代の文学史家たちからも称賛された。
 16〜17世紀にかけてオスマン帝国のアナトリア地方を荒らし回っていた「ジェラーリ」と呼ばれる山賊集団は特に有名。除隊された兵士、土地のない農夫、神学校を卒業した失業者などの不満分子の集まりだった。彼らの指導者の中には、アナトリアの民話や民族詩にその名が残っている者もいる。
 
●モスク(p421)
 アラビア語の「マスジド」から出た言葉。「ひれ伏す(スジュード)場所」、すなわち、信者が体をひれ伏して神の前にひざまずく場所という意味。
 キリスト教徒の教会に匹敵するものではなく、モスクは礼拝所、会合や勉強の場所としての建造物であって、それ以上のものではない。彼ら独自の組織や階級制、法律や法的管轄区域をもった機関を指したことは一度もない。
 イスラーム初期には、信者たちが集まる単なる祈りの場としての公共建造物でさえなかった。祈りは個人の家や、公共の場、野外、征服された民族の様々な宗教のために建てられていた礼拝堂で行われることもしばしばあった。
 
●カーディー、ムフティー(p427)
 イスラム法は、神によって定められ、預言者ムハンマドによって公布されたとみなされている。法学者と神学者が別々な観点から同じ仕事に携わっている。
 「聖法(シャリーア)」の専門家たちは官僚ではなく私人であり、彼らの判定には公的な拘束力もなければ、一貫性もなかった。
 ムフティー……法律の解釈を行う法学裁定官。彼の意見もしくは判定は「ファトワー(法的見解)」と呼ばれ、法律ではないが、法的に権威あるものとして引用される。
 カーディー……国家に任命された裁判官。法律を適用することが任務で、解釈することではない。
 
●歴史(p499)
〔 学識を深め、さらに広く科学や知識の伝播に重要な役割を果たしたのは翻訳者の仕事だった。九世紀以降、翻訳者は数学、天文学、物理学、化学、医学、薬学、地理学、作物栽培学その他の哲学を含む広範なジャンルの、おもなギリシア語文献をアラビア語に訳すという一連の画期的な仕事をやりとげた。原典の一部は地元の非ムスリムが所持していたものであったり、ビザンツ帝国から特別に輸入されたものもあった。注目すべきは、彼らがギリシア人歴史家の著書を訳さなかったことである。古代異教徒の込みいった事柄には何の意味も価値も見出せなかったからだ。彼らは詩人の作品も翻訳しなかった。ムスリムには自分たち自身の詩の作品がたくさんあったし、第一、詩は翻訳不可能だったからである。〕
 
●中間の文明(p509)
〔 イスラーム世界は、時間と空間の両方の中間という意味での「中間の文明」と言われる。その外縁はヨーロッパ南部、中央アフリカ、南部・南東部・東部アジアに及び、それらの地域のすべての基本要素を包み込んでいる。時間的にもまた、古代と現代の中間にあって、ヨーロッパとギリシアやユダヤ教徒・キリスト教徒の遺産を共有し、さらにそれを遠隔の地と諸文化の要素を取り入れて豊かなものにしていた。古代ギリシアから現代への道筋のなかで、近代的、普遍的文明への進展をしっかりと約束してくれたのは、ギリシアやヨーロッパ・キリスト教国の文明と言うよりも、アラブ人のイスラーム文明であると思われていたのは無理もない。〕
 
●ミッレト(p594)
 宗教共同体。
 オスマン帝国では、大きな順からムスリム、ギリシア正教徒、アルメニア正教徒、ユダヤ教徒の四つの大きなミッレトがあった。
 
(2021/4/3)KG
 
〈この本の詳細〉

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