SSブログ

イスラーム文明とは何か 現代科学技術と文化の礎
 [歴史・地理・民俗]

イスラーム文明とは何か: 現代科学技術と文化の礎
 
塩尻和子/著
出版社名:明石書店
出版年月:2021年3月
ISBNコード:978-4-7503-5170-4
税込価格:2,750円
頁数・縦:203p・19cm
 
 世界の中世史をリードし、現代の科学文明の扉を開いた「イスラーム文明」の意義を再定義し、概観する。
 
【目次】
イスラームとは何か
ギリシア科学の受容
ギリシア文明の継承と発展―大翻訳事業
イスラームのイベリア半島征服とヨーロッパへの伝播
商業活動の発展と航海技術
エレガンスと生活文化
錬金術、数学、天文学
医学者と哲学者
西洋中世哲学への影響
イスラーム芸術の世界―アラベスクと建築
十字軍の歴史とレコンキスタ
西洋の発展―脱イスラーム文明
イスラーム文明・近代文明の源流としての意義
 
【著者】
塩尻 和子 (シオジリ カズコ)
 1944年岡山市生まれ。東京大学大学院人文社会科学研究科博士課程単位取得退学(博士(文)東京大学)。筑波大学教授、同大北アフリカ研究センター長、同大理事・副学長(国際担当)、東京国際大学特命教授、同大国際交流研究所所長を経て、筑波大学名誉教授、アラブ調査室室長。専門分野は、イスラーム神学思想、比較宗教学、宗教間対話、中東地域研究。
 
【抜書】
●ハッラーン(p33)
 ビザンツ帝国の皇帝ユスティニアヌスは、529年に、アカデメイアを閉鎖した。
 ギリシアの学問が多神教時代のものであるという理由による。プラトンがアテネに創設して以来、900年間、世界有数の研究機関として続いていた。
 これにより、ギリシア語の文献がおもにハッラーン(トルコ南東部)とジュンディーシャープール(イランの西部)の町に集められ、ビザンツから逃れてきた学者たちが中心となって、ギリシアの哲学書や科学書、医学書などが研究され、また、当時のシリア語に翻訳されていった。
 このシリア語訳のギリシア文献が、アッバース朝期になるとカリフの命令でバグダードへ移され、「知恵の館」の大翻訳事業へとつながった。
 
●学問の奨励(p35)
 アッバース朝以降、各地に展開した小王朝の時代でも、統治者たちは支配地域に科学アカデミー、学校、天文台、図書館を設立して、学問を奨励した。
 イスラームの支配者たちは、異なった民族や宗教の下で発達した科学であっても、人類の利益となる学術であれば、なんでも受け入れるという寛容で現実的な姿勢を持っていた。
 
●知恵の館(p39)
 アッバース朝の第7代カリフのマアムーン(813-833)は、古代ギリシアの学問的写本を収集してアラビア語に翻訳することを命じて、バグダードに「知恵の館」を建設した。
 翻訳事業の担い手は、ネストリウス派のキリスト教徒やユダヤ教徒であり、当初はシリア語に翻訳されていた書物をアラビア語に翻訳することから始められた。
 
●サービア教(p49)
 クルアーンに、「啓典の民とは、ユダヤ教徒、キリスト教徒、サービア教徒である」(第2章62節)と書かれている。
 サービア教徒がどのような宗教の信徒なのかについては不明。
 ハッラーンの人々は、アッバース朝からの弾圧を避け、保護民として認められるために、サービア教徒を名乗ったと言われている。
 
●トレド(p58)
 711年、北アフリカから侵攻したイスラームに征服される。
 11世紀初頭には、ベルベル系のズンヌーン朝が支配。
 1085年、カスティーリャ・レオン国王アルフォンソ6世が制服。
 トレドのムスリムの多くは、信仰の維持を認められて市内にとどまり、ムデーハルと呼ばれることになった。当時のトレドは、モサラベ(アラビア語やアラビア文化を受容したキリスト教徒)、ユダヤ教徒、北方から移住してきたキリスト教徒が存在し、3宗教の共存と軋轢の場となった。
 イスラーム文化の西方での拠点としての機能を維持し、カスティーリャ王国のもとで翻訳学校が設立された。「知恵の館」でアラビア語に翻訳された古代ギリシアの文献が、ラテン語に翻訳された。イスラーム文明を中央ヨーロッパに伝える一大中心地となった。
 
●スーフィズム集団(p62)
 イスラームの宗教は、初期には政治的軍事的征服事業によって流布した。
 後には、商人の活動によって、アフリカや中央アジア、東南アジアへ広まっていった。公式には教団組織や宣教制度を持たないイスラームが伝播したのは、政治とは無縁のイスラーム神秘主義(スーフィズム)集団の地道な草の根活動による貢献が大きい。スーフィズムは来世志向が強く、現地の諸宗教に寛容であり、土着の伝統や文化を抵抗なく取り込んでいったために、各地への伝播が促進された。
 イスラームでは、隠遁生活や出家は奨励されていない。彼らも社会の中で就業して生活の糧を得ていた。
 
●バクー油田(p91)
 9世紀に石油産業が開始された。アゼルバイジャンのバクー油田について、885年に当時のカリフが油田収入を住民に与えたことが報告されている。
 原油は蒸留技術によって精製され、燃料としてだけではなく、医薬品としても用いられた。
 マルコ・ポーロの旅行記にも、バクー油田についての記述がある。
 
●フワーリズミー(p95)
 780?-850?。ラテン名アルゴリスムス。
 おもに数学・天文学の分野で活躍した。マアムーンに見いだされ、世界地図製作などのプロジェクトに携わり、『大地の姿の書』を作成した。
 『アル=ジャブル・ワ・アル=ムカーバラ(負項除去と同類項簡約)計算の抜粋の書』は、代数学に関する世界で最初のまとまった書物。代数学をアルジェブラ(algebra)と呼ぶのは、本書が由来。
 フワーリズミーの名前から、アルゴリズム(algorithm)という言葉が生まれた。
 
●イブン・スィーナー(p109)
 980−1037。ラテン名アヴィセンナ。イスラーム世界を代表する医学者・哲学者。
 大小合わせて130点の著作が知られている。哲学や医学の分野のみならず、詩やクルアーン注釈にまで及ぶ。
 代表作は、論理学・自然学・数学・形而上学・実践哲学を含む大著『治癒の書』、理論と臨床的知見とを集大成した『医学典範』(『医学綱要』とも)。『医学典範』は、18世紀に至るまで、ヨーロッパ各地の医学校の基礎教科書として用いられた。
 
●イブン・ルシュド(p111、p115)
 1129−98。ラテン名アヴェロエス。アンダルスで活躍した哲学者・法学者・医学者。コルドバの名門の生まれ。
 『医学大全』は、16世紀までヨーロッパで用いられた。
 パリ大学の神学者たちによってラテン・アヴェロエス主義として大いに学ばれ、スコラ哲学の形成に大きな影響を与えた。
 アリストテレスの全著作の注釈書を執筆。ただし、仕えていた君主によって禁止されたため、『政治学』は未着手。1230年代以降、ラテン語に翻訳されることによって、キリスト教世界に継承されることになった。
 
●フナイン・イブン・イスハーク(p116)
 809/810−877。中世アラブ世界最大の翻訳家。
 「知恵の館」の翻訳事業において、ギリシア学術のアラブ世界への移転に最も功績のあった人物。
 ネストリウス派キリスト教徒で、医者、哲学者、文献学者。
 
●ファーラービー(p116)
 870頃−950。「アリストテレスに次ぐ第2の師」と称される哲学者。アリストテレス『オルガノン』に対する「中注釈」「大注釈」が評価された。
 文法学の見地からアラビア語を普遍的言語哲学として考察した。
 音楽理論の分野でも貢献し、今日のドレミファの音階を確立したと言われている。
 
●カラウイーイーン大学(p123)
 859年にモロッコのフェズに設立された、世界最古の大学。UNESCOとギネス世界記録によって認定。
 978年には、カイロにアズハル大学が設置された。現在もスンナ派イスラームの最高学府とされ、ムスリムでないと入学できない。
 どちらも、新教育体制に組み込まれ、男女共学の総合大学となっている。
 
●奇跡の言葉(p139)
〔 ここでいう「書道」とは聖典クルアーンの章句を書き写すことであり、いわば「写経」を意味する。そのために、書道には宗教的な意味が付与され特別な地位と栄誉とを与えられた。クルアーンはアラビア語の韻を踏んだ優れた散文詩の形式を持ち、翻訳すればその音韻の美しさは失われる。それゆえに、聖典はまさに言葉の芸術の集大成であり、奇跡の言葉とも言われるのである。したがってアラビア書道は神の奇跡を書き写すこととなり、高度な芸術であると同時に、いわば「写経」として信者の篤信的行為となった。時代、場所を問わず今日まで、全世界のムスリムによって続けられ、イスラーム世界で唯一の伝統芸術となった。〕
 
●騎士階級(p147)
 ヨーロッパでは、9世紀から10世紀にかけて「異教徒との戦争は正戦である」という理念が確立した。
 教皇たちは、ノルマン人やムスリムという異教徒に対する戦争で命を失った者は、すべて永遠の命が与えられると確約した。
 異教徒との戦争に従事する役割を持った騎士階級が台頭してきた。教会は、「神の平和」という平和促進運動を展開したが、この運動の中心となったのがクリュニー修道院だった。騎士階級は教会の指導のもとで、「神の平和」を獲得し維持するための平和軍となり、「教会によって是認され、教会のために遂行される聖戦」に従事するようになる。
 「神の平和」の定義によって、1050年からのレコンキスタも聖戦と位置づけられ、1096年以降の十字軍運動を招来することにつながった。
 
●フランク人(p153)
 十字軍に対して、同時代のアラビア語史料には「フランク人」という言葉が使われていた。
 当時のムスリムにとって、キリスト教徒は「啓典の民」で隣人であり、敵とみなしていなかった。
 また、十字軍を宗教的熱意に基づく戦士集団というよりは、異世界からの侵略者としてみていた。
 
●三大騎士団(p154)
 入植者の増大により、エルサレムや十字軍国家に駐屯した騎士修道会(騎士団)。1180年代、十字軍国家におけるヨーロッパ系の人口は10〜12万人になり、新たに入植村も建設されるようになった。
 聖ヨハネ騎士団(1113年認可)、テンプル騎士団(1119年創設)、ドイツ騎士団(1199年認可)。
 マルタ騎士団は、12世紀、十字軍時代のエルサレムで発祥した聖ヨハネ騎士団が現在まで存続したもの。1522年、当時の本拠地ロードス島がオスマン帝国によって陥落し、マルタ島に本拠地を移し、マルタ騎士団と呼ばれるようになった。現在、国土を有さないが、107カ国から主権実体(sovereign entity)として承認され、外交関係を認められている。
 
●イスラーム文明(p169)
〔 イスラーム文明とは、長い時間枠で見れば、7世紀から17世紀頃までの約1000年間にわたって展開した、世界で最も知的完成度が高く人間の社会生活の向上にも役立つ実利的な側面を持った文明であり、ムスリムだけでなく、キリスト教徒、ユダヤ教徒、ヒンドゥー教徒、仏教徒たちがともに協力して関わった真の意味でのグローバルな融合文明であった。この文明はイスラームの教えとアラビア語を基調とし、それにギリシア・エジプト・メソポタミア・インドなどの先進文明を取り入れ、それらの伝統の上に出来上がった文明である。この文明は、ヨーロッパでルネサンスの扉を開き、その成果によって近代科学をもたらすことになった。しかし21世紀の現在、その歴史的な存在も文明史上の意義も、忘れられ、無視され、誤解され、挙句の果てに故意に改竄までされた文明である。〕
 
●8%(p178)
 スペイン語の語彙の約8%がアラビア語起源だとされる。固有名詞に「アル」で始まる言葉が多いのも、アラビア語の影響。
 
【ツッコミ処】
・粗野な僻地(p55)
〔 後ウマイヤ朝時代のアブドゥッラフマーン1世は、故郷のシリアに倣って、イベリア半島全土の都市や農村、生活様式、学術、宮廷などを整備していった。それまで粗野な僻地に過ぎなかったイベリア半島に世界的な都市と文明を創造することになった。〕
  ↓
 「粗野な僻地」とはまたひどい言い様である。西欧に対する対抗意識が著者に感じられる一節。
 
・戦争の正当化(p145)
〔 キリスト教では時代が進むにつれて、徹底して非暴力を説き「あなたの敵を愛し、敵のために祈りなさい」とまで教えたイエス・キリストの説教は省みられなくなり、「神が望めば」神の意志に基づく戦争が正当化されるという「聖戦思想」が定着していった。キリスト教がローマ帝国の国教として採用(392年)されて以降、教皇も宣教の拡大のための有効な手段とみなして戦争を容認し、キリスト教世界には戦争が止むことはなかった。アウグスティヌスの正戦の思想は、その後、13世紀にトマス・アクィナスに受け継がれたが、トマスによって一定の倫理的規程を満たせば、戦争が正当化されるという基準さえも提示された。〕
  ↓
 これもキリスト教に対する悪しざまな表現である。ある程度は正しい認識であるとは思うが……。
 
(2021/6/24)NM
 
〈この本の詳細〉

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで
 [歴史・地理・民俗]

古代メソポタミア全史 シュメル、バビロニアからサーサーン朝ペルシアまで (中公新書)
 
小林登志子/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2613)
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-12-102613-2
税込価格:1,100円
頁数・縦:304p・18cm
 
 メソポタミア文明約3000年間の通史。BC3500の都市文明の始まりから、BC539年の新バビロニア王国の滅亡まで。
 なお、終章では新バビロニア王国滅亡からイスラームの支配までの1100年間をざっと概観する。
 
【目次】
序章 ユーフラテス河の畔、ティグリス河の畔―メソポタミアの風土
第1章 シュメル人とアッカド人の時代―前三五〇〇年‐前二〇〇四年
第2章 シャムシ・アダド一世とハンムラビ王の時代―前二〇〇〇年紀前半
第3章 バビロニア対アッシリアの覇権争い―前二〇〇〇年紀後半
第4章 世界帝国の興亡―前一〇〇〇年‐前五三九年
終章 メソポタミアからイラクへ―前五三九年‐後六五一年
 
【著者】
小林 登志子 (コバヤシ トシコ)
 1949年、千葉県生まれ。中央大学文学部史学科卒業、同大学大学院修士課程修了。古代オリエント博物館非常勤研究員、立正大学文学部講師、中近東文化センター評議員等を歴任。日本オリエント学会奨励賞受賞。専攻・シュメル学。
 
【抜書】
●ニップル(p8)
 メソポタミア南部のバビロニアは、ニップル市(現代名ヌファル)を境に、北部をアッカド、南部をシュメルと呼んだ。
 バグダードより北方は、アッシリア。「アッシュルの地」を意味するギリシャ語。
 アッシリアは、バビロニアと異なり、石灰岩、砂岩、雪花石膏(大理石の一種)のような石材を産出した。
 
●シュメル王朝表(p26)
 ウル第三王朝時代に編纂され、その後にイシン第一王朝(BC2017-1794)第14代シン・マギル王(BC1827-1817)までが追加された。
 古バビロニア時代(BC2004-1595)のいくつかの写本が出土している。
 
●楔形文字(p29)
 楔形文字は、ウルク古拙文字から発展し、シュメル語に始まり、アッカド語、ウガリト語、ウラルトゥ語、エブラ語、エラム語、古代ペルシャ語、ヒッタイト語、フリ語などの表記に使われた。
 BC2400年頃に、古拙文字が整理され、文字数が600に。また同時期に、1本で線、円形あるいは半円形、逆三角形を表記できる葦のペンが考案され、楔形文字が誕生した。
 ウルク古拙文字……絵文字。湿った粘土板にペンでひっかいて書かれた。ドイツ隊がウルクのエアンナ聖域を発掘し、BC3200年頃の世界最古の文書を発見した。約1000の古拙文字が使用されている。
 
●シュメル人(p38)
 1877年、ラガシュ市の発掘により、メソポタミア南部に非セム語を話すシュメル人が実在したことが証明された。楔形文字を考案したのはシュメル人。原郷はどこなのか不明。
 
●アッカド人(p51)
 アッカド王朝のサルゴンはアッカド人。東方セム語族に分類される、歴史に最初に登場したセム語族。
 アラブ人もイスラエル人も、ともにセム語族。
●捨て子伝説(p53)
 アッカドのサルゴン王(BC2334-2279)の伝説によると、サルゴンの母は子供を産んではいけない女神官だった。ひそかにサルゴンを産み、籠に入れてユーフラテスに流した。庭師に拾われ、その後キシュのウルザババ王の近侍の役職である酌人となり、やがて王となった。
 捨て子伝説の最古の例。その後、アケメネス朝ペルシャ初代キュロス2世(BC559-530)、モーセ、初代ローマ王ロムルス、など。
 
●エンヘドゥアンナ王女(p56)
 サルゴン王の娘。シュメル語の読み書きができ、『シュメル神殿讃歌集』を編纂し、『イナンナ女神讃歌』を作った、歴史上最古の才媛。
 
●アッカド語(p63)
 政治力や経済力によって、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、英語が世界の共通語となった。
 アッカド語は、世界で最初に多民族間の共通語となった言語。シュメル人が発明した楔形文字を借用した。楔形文字をそのまま音節文字として使用した。
 
●四方世界の王(p74)
 アッカド王朝のナラム・シン王およびウル第三王朝のシュルギ王の称号。
 地上世界すなわち人間世界をあまねく支配する王の称号。理念上では神々の世界の末端に位置付けられ、現実には軍事的拡大に打って出た証。
 
●アムル人(p86)
 ユーフラテス川上流のビシュリ山(バシャル山)周辺の遊牧民。シュルギ王は、アムル人の侵攻を阻止するために、バクダードの北方80kmの地に、チグリス川からユーフラテス川にいたる城壁を作っていた。
 アムル人はバビロニアに定住すると、アッカド語の名前を名乗る例が多かった。アムル語の記録は残さず、アッカド語を使用。両者の違いは方言程度。
 「ハンムラビ」は、「ハンム神は偉大である」を意味するアムル語の名前。
 
●アッシリア王名表(p100)
 シャムシ・アダド1世(BC1813-1776)は、『シュメル王朝表』を手本に、『アッシリア王名表』を編纂した。初代シャムシ・アダドから109代シャルマネセル5世(BC726-722)まで、1000年にわたって書き継がれていった。
 
●ミタンニ王国(p142)
 ミタンニ王国がBC16-14世紀のメソポタミア北部を支配した。
 フリ人の国。フリ語は膠着語で、BC9世紀中期〜BC6世紀前期、アナトリア東部及びアルメニアを支配したウラルトゥ王国の言語、ウラルトゥ語と類縁関係にある。
 ミタンニは、新しい軍事技術を導入して優位にたった。木、動物の骨あるいは金属を張り合わせた強い弓(複合弓)、馬に引かせた戦車(車輪にスポークを採用)をもっていた。さらに、馬の調教に長けていた。
 ヒッタイトに滅ぼされた。
 
●アマルナ文書(p153)
 アマルナ文書……エジプトのアマルナで、アッカド語で書かれた手紙が多数発見された。多くは「文書庫」と見られるアマルナ中心部の建物から出土した。350点が手紙、32点は学校で使用された文学文書や語彙集など。エジプト王にあてられた手紙がほとんど。
 アマルナ……古代エジプトの都アケト・アテン。アケト・アテンは、「アテン神の地平線」を意味する。カイロ市からナイル河を280kmさかのぼった位置にある。第18王朝のアメンヘテプ4世(アクエンアテン、BC1351-1334)が、治世6年に国家神アメンを厚く祀っているテーベから遷都して造営した。アケト・アテンに都があった約20年間を「アマルナ時代」という。
 
●前12世紀の危機(p189)
 BC12世紀頃、西アジア及び東地中海世界は大きな民族移動の波に襲われた。原因は気候変動であった可能性が高い。
 ギリシア共和国のペロポネソス半島にはドーリア人(ギリシア人の一派)が侵入し、東地中海を海の民が荒らし回り、アラム人がシリア砂漠からメソポタミア方面に移動した。
 エジプトの記録によれば、BC1200年頃に、約500年続いたヒッタイトが海の民の襲撃によって滅ぼされた。これを機に、ヒッタイトが国家機密にしていた鋼(はがね)の製法が近隣に伝播していく。鉄器時代の始まり。
 
●騎兵(p196)
 新アッシリア帝国では、ラクダを荷役獣として使用するようになった。BC1100年頃にフタコブラクダをメディアからの山岳交通用に、BC700 年頃にヒトコブラクダを砂漠での輸送用に導入した。
 さらに騎兵を本格的に導入した。アッシリアは、「馬の背で帝国を作った」と言われている。
 
●アラブ人(p204)
 BC853年、カルカル市(シリアのオロンテス河畔の都市。現代名テル・カルクル)にて、シャルマネセル率いるアッシリア軍を、反アッシリア同盟軍が迎え撃った。アラブ人ギンディブが1000頭のラクダを連れて同盟軍に加わった。
 アッシリアの資料における「アラブ」の初出。
 
●新アッシリア帝国(p193)
 新アッシリア帝国、BC1000-609。
 サルゴン2世(BC721-705、第110代)ーセンナケリブ(BC704-681、第111代)ーエサルハドン(BC680-669、第112代)ーアッシュル・バニパル(BC668-627、第113代)。父子相続。
 センナケリブ……BC689年にバビロン制服、徹底的に破壊した。バビロニアの最高神マルドゥク神像がアッシリアへ捕囚された。
 
●文字の神聖化(p234)
 楔形文字を考案したシュメル人は、文字を実用的なものと考えていた。
 時代が下るにつれて、文字は神聖化されていった。BC2000年紀後半以降のメソポタミアでは、「文字には過去の英知が宿っている」といった神秘的な考え方が生まれた。武力で切り取った帝国を守るためにも、王たちはいわば護符のような役割を期待して粘土板文書を集めることに執着した。
 
●カルデア人(p244)
 アラム人と同じ西方セム語族といわれるが、特定できない。原郷不明。アラム人と並んで、BC1000~900年ごろに、バビロニアに侵入。
 しだいにバビロニア化、バビロニアの独立を主導していく。新バビロニア王国は、カルデア王朝とも言われている。初代ナボポラッサル王(BC625-605)は、カルデア人と言われるが、実際の出自は不明。
 
●騎馬民族(p257)
 アケメネス朝ペルシア帝国(BC550-330)は、ナイル河からインダス河までの広大なオリエント世界のほぼ全域を支配。
 イラン系のペルシア人は、BC1000年頃にイラン高原に入り、BC7世紀にはイラン高原南西部パールサ地方(現代ペルシア語ファールスの語源)に定着した。出自は騎馬民族。騎馬弓兵の突撃隊の組織化に成功し、BC559年にキュロス2世(BC559-530、初代)が「アンシャンとパールサの王」と称し、パールサ地方を中心にペルシア人勢力を結集した。
 BC539年、キュロス2世がバビロン市に侵攻、新バビロニア王国は滅びた。
 
●アルサケス朝パルティア(p268)
 アルサケス朝パルティア(BC247-AD224)が、イラン北西部からトルクメニスタンにかけて建国された。中国の史書に安息(あんそく)として登場。
 BC141年に、バビロニアを支配。
 アルサケス朝の支配以降、バビロニアでは楔形文字が使われなくなった。
 
(2021/6/24)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ: