英国ユダヤ人の歴史
[歴史・地理・民俗]
佐藤唯行/著
出版社名:幻冬舎
出版年月:2021年7月
ISBNコード:978-4-344-98628-2
税込価格:924円
頁数・縦:210p・18cm
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英国は、ユダヤ人・ユダヤ教徒に対して比較的寛容だった。大富豪やユダヤ社会の指導者を中心に、中世以来のその歴史をたどる。
【目次】
第1章 中世―大富豪登場から追放令まで
英国史上歴代一位の大富豪
女金貸しリコリシア
ほか
第2章 近世―再入国と独自のビジネス展開
再入国の立役者
クロムウェルのユダヤ諜報団
ほか
第3章 近代―宰相ディズレーリとロスチャイルド家
盗品故買の帝王、ソロモンズ
近代拳闘の先導者メンドーサ
ほか
第4章 現代―ユダヤパワーの持続可能性
チャーチルのシオニズム
イスラエル・ダイヤ産業の出発点
ほか
【著者】
佐藤 唯行 (サトウ タダユキ)
1955年、東京都生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程単位取得。獨協大学外国語学部教授。専門はユダヤ人史。
【抜書】
●リンカンのアーロン(p14)
「英国史上歴代長者番付」1位。英紙『サンデータイムズ』による。
12世紀のユダヤ人金貸し。全英25州に配下を派遣し、金融業を営んでいた。今日の金額に換算すると、財産は216億ポンドに相当した。
ウォルター・スコット『アイバンホー』に登場する大物金貸しであるヨークのアイザックのモデルといわれる。
債権者には、スコットランド国王、カンタベリ大司教、王侯貴族が目白押し。軍事遠征費や聖堂建設費がかさんだため所領を抵当に金を借りていた。しかし、農場経営から還元される低い収益の割合をはるかに超える高利(年利43~86%)を返済し続けることは難しかった。
1186年に死んだとき、未回収債権は平常年の国家収入の四分の三に達する金額だった。
英国王は、死亡したユダヤ人の財産(主に債権)の三分の一を相続上納金として慣習上徴収できた。しかし、アーロンの死に際しては、全額を没収してしまった。あまりに莫大な金額のため、アーロンの子供たちが相続上納金の納入期限までに債権回収ができなかったため。
没収した債権を管理・回収するため、国王は財務府の中に「アーロンの財務府」と呼ばれる別部局を設置した。
●反ユダヤ主義の起源(p21)
西欧キリスト教世界における反ユダヤ主義の起源。
(1)12-13世紀、十字軍運動による聖戦意識の発揚。「外なる異教徒」イスラム教徒の手から聖地奪還を目指すため、西欧世界の「内なる異教徒」ユダヤ人を血祭りにあげ遠征費を強奪することは論理的必然であった。
(2)12-13世紀。ユダヤ人が消費者金融の中心勢力として威勢を示し始めていた。一般都市市民が木摺りと漆喰でできた粗末な家に住んでいた当時、金融業で巨利を得たユダヤ人は小城郭のような堅固な石造りの家に住み、貴族並みの生活を送っていた。
(3)反ユダヤ主義の最古の形態は、キリスト教の教義自体に内在した宗教的なもの。「使徒行伝」(90年代に成立)28章28節で、この世の人間をユダヤ人と非ユダヤ人に二分し、キリスト教を非ユダヤ人の宗教と定めた。さらに、十二使徒の一人パウロが書いた「テサロニケ人への第一書簡」(50年頃)2章15節には、「ユダヤ人は主イエスと預言者たちを殺し……神によろこばれず、人類の敵となり」と記されている。
●モーゼ五書(p34)
中世の英国では、国王財政への多大な貢献の褒美として、数々の特権的自由が与えられていた。庶民には、ユダヤ人たちは「国王直属の自由な民」ととらえられていた。
際立っていたのは、キリスト教徒から訴えがなされた民事訴訟(金融活動を除く)において、ユダヤ人の被告は「モーゼ五書」に対し身の潔癖を誓う文言を唱えるだけで嫌疑を晴らすことができた。
キリスト教徒の場合、11人の免責宣誓者と被告本人、計12人が免責宣誓することが免責の条件として定められていた。
この特権待遇は、マグナ・カルタ(1215年)のなかでも改められることなくその後も継続した。様々な濡れ衣からユダヤ人を守り、金融活動に専念させるために与えられたと特権だと考えられる。
●エドワード1世のユダヤ人追放(p48)
1290年7月18日、国王エドワード1世は英国からすべてのユダヤ人を追放する命令を下した。11月1日の万聖節を最終出国期限とし、従わぬ者を極刑に処するよう命じた。
ユダヤ人が持ち出せたものは携行可能な現金と動産だけ。未回収債権と抵当不動産はすべて国王が没収した。
追放令が繰り返されていないので、ユダヤ人は速やかに退去したものと考えられる。
一方、出国の道中、ユダヤ人に危害を加えることは禁じられ、五港市(英仏海峡往来の五つの港町)の知事は、出国者の安全確保と迅速な輸送を命じられた。
●再入国(p54)
1656年、ユダヤ人の英国再入国(リアドミンション)が実現する。
立役者は、アムステルダムのユダヤ教導師マナセ・ベン・イスラエルと、クロムウェル。
マナセは、「パレスチナを再びユダヤ人が取り戻すためには、地球上のあらゆる僻遠の地までユダヤ人が拡散・定住せねばならぬ」という宗教的確信を持っていた。
マナセは、ユダヤ人の英国帰還を求める請願を携え、クロムウェルと会見した。
クロムウェルは、再入国の是非を問う国策会議を招集するが、反対意見が多かったので結論を出さずに会議を解散した。
1655年秋に勃発したスペインとの戦争のため、1656年3月、英国政府は在英スペイン臣民の財産没収命令を発布。これまでカトリック教徒のスペイン人を装ってロンドンに潜伏していた隠れユダヤ教徒の一団が、自分たちはポルトガル出身のユダヤ教徒だと名乗りを上げた。ユダヤ人の定住許可を求め、クロムウェルに請願書を提出。筆頭署名者はマナセだった。
クロムウェルは、この請願に返事をしなかった。黙認。国策会議を招集すると却下される可能性が高かったから。
ユダヤ人側は、ロンドン市の街はずれの共同墓地取得と、礼拝用に一室を借り受ける許可を求め、受理された。これなら、クロムウェルの一存で決められる。「事実上の定住・再入国許可」。
●ユダヤ教徒初の叙爵(p86)
ユダヤ教徒のままで男爵位が授与された初の事例は1885年のナサニエル・ロスチャイルド。ロスチャイルド財閥の創始者ネイサンの孫。
●ダニエル・メンドーサ(p101)
近代ボクシング発祥の地、英国で草創期の1760年代から1820年代にかけて、少なくとも30人のユダヤ人が英拳闘界で活躍し、競技の近代化に貢献した。
最強の選手が、第16代英国チャンピオンとなり、「イスラエルの星」と称えられたダニエル・メンドーサ。1789年の仏革命勃発に際して、英諸新聞は革命よりも彼の試合のほうを優先し、第一面で報道した。
メンドーサは、『拳闘術』を出版、習得すべき第一の原則として、体のバランスを常に保ち続けることを挙げた。
また、ユダヤ人街に拳闘ジムを開設し、同胞の若者たちに護身のための拳闘術を教えた。これにより、ユダヤ人青少年の間に拳闘ブームが沸き起こる。
メンドーサの弟子で、アッパーカットを編み出したサミュエル・エリアスは、体重別のなかった当時、わずか58㎏で大男たちと渡り合った。「最強のハードパンチャー」と評され、あと5、6キロ重かったら王者になれただろうと言われた。
さらに「東洋の星」と綽名されたバーニー・アーロン、ベラスコ四兄弟などを輩出した。
●ベンジャミン・ディズレーリ(p104)
1804-81年。色男の小説家として振る舞い、社交界で裕福な未亡人たちの歓心を買った。
首相の座に登り、ヴィクトリア女王の寵愛を得て伯爵に叙せられた。
表向きは英国国教会に改宗したが、旺盛なユダヤ人意識を持ち続け、それを公言してはばからなかった。選挙に立候補した際、ユダヤ出自であることを攻撃材料とされたが、「ユダヤ人種優越論」を唱えて対抗した。ユダヤ人は英国民のためにふさわしいリーダーシップを行使できる「選ばれし人種」であると主張。
●スエズ運河買収(p108)
1875年、ロスチャイルド家の第2代当主ライオネルは、エジプトの支配者イスマイルがスエズ運河を売りたがっているという情報を得た。
1月14日、別ルートで、盟友の英首相ディズレーリの元にも同じ情報が届いた。月末までに即金で400万ポンド用意するなら、英国に売ってもよいと、イスマイルが打診してきた。
取締役会を招集して承認を得る時間がなかったので、イングランド銀行には頼れなかった。ディズレーリは親友ライオネルに頼み込み、期日までに金を用意してもらった。
●エドワード7世(p115)
ヴィクトリア女王の長男、エドワード7世は、国王時代(1901-10)と30年におよぶ皇太子時代、ユダヤエリートを腹心として側近く侍らせ、重用した。「ユダヤの宮廷」と揶揄されたほど。
ナサニエル・ロスチャイルドと、その弟のアルフレッドとレオポルド……ロスチャイルド家第3代当主。
アルフレッド・バイト……南アフリカのダイヤ・金採掘で800万ポンドの富を築く。
サスーン家の四男ルーベンと五男アーサー……バグダードの出自。ボンベイと上海を拠点とする。インド産アヘンを中国市場に輸出して富の土台を築いた。
アーネスト・カッセル……ドイツ系ユダヤ移民で一代で755万ポンド。
マーカス・サミュエル……初期対日貿易とシェル石油の創業で400万ポンド。
彼らはもともと、女王から疎まれて公務から退けられていたころのエドワードの遊び仲間。競馬、狩猟、海外旅行など、陽気で派手な娯楽に興じていた。自身の御殿「マルボロ―屋敷の面々」と呼ばれた。
●難民児童運動(p159)
難民児童運動(RCM)が、ユダヤ教徒とキリスト教徒の相乗りの民間ボランティア団体として1938年11月末に設立された。キンダートランスポート(独ユダヤ人児童救出作戦)にて、入国時の実務と到着後の世話をする組織。
同年11月9日、「水晶の夜」。ポグロムに直面する独ユダヤ人の救済が急務となった。
17歳以下の子供の入国を移民法の枠外で認め、英国で教育・訓練した後、18歳に達した子は第三国へ出国させる。受け入れ費用は英国ユダヤ社会が負担する。
受け入れにかかる費用は一人100ポンド。元首相ボールドウィンはラジオを通じて献金を呼び掛け、50万ポンドが集まった。
1939年9月1日の第二次世界大戦勃発までの間に、9,354人が英国に出国できた。里親への引き取り手のなかった3,300人余りは、シオニスト団体が運営する施設で集団生活を送り、戦後のパレスチナ移住に備えた。
里親の中には、サッチャーなど3人の歴代首相の実家があった。
(2021/10/23)NM
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