SSブログ
歴史・地理・民俗 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

武家か天皇か 中世の選択
 [歴史・地理・民俗]

武家か天皇か 中世の選択 (朝日選書1038)
 
関幸彦/著
出版社名:朝日新聞出版(朝日選書 1038)
出版年月:2023年10月
ISBNコード:978-4-02-263123-7
税込価格:1,870円
頁数・縦:254p・19cm
 
 中世期の朝廷と武家との関係について考える。
 
【目次】
序 謡曲『絃上』の歴史的回路―虚構を読み解く、「王威」そして「武威」
1 武家か天皇か
 「本朝天下ノ大勢」と天皇
 「本朝天下ノ大勢」と武家
2 内乱期、「王威」と「武威」の諸相
 東西両朝と十二世紀の内乱
 南北両朝と十四世紀の動乱
3 近代は武家と天皇をどう見たか
 近代日本国の岐路
 武家の遺産
 再びの武家か、天皇か
 
【著者】
関 幸彦 (セキ ユキヒコ)
 日本中世史の歴史学者。1952年生まれ。学習院大学大学院人文科学研究科史学専攻博士課程修了。学習院大学助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年に日本大学文理学部史学科教授就任。23年3月に退任。
 
【抜書】
●九変五変(p32)
 新井白石『読史余論〈とくしよろん〉』より。天皇の流れ「本朝大勢の九変観」と、武家を主軸とした「当代に及ぶ五変観」。
《九変》
 一変……藤原義房、摂政就任(幼帝・清和天皇:在位858-876)。外戚政治の始まり。
 二変……藤原基経、関白就任(宇多天皇:在位887-897)。藤原氏の外戚専権。
 三変……冷泉(在位967-969)~後冷泉(在位1045-1068)の八代、藤原氏による外戚専権の定着。
 四変……後三条天皇(在位1068-1073)の政治(親政)。
 五変……白河上皇の政治(院政)。
 六変……武家(鎌倉殿)による兵馬権の分掌。
 七変……北条氏の政治。
 八変……後醍醐天皇の政治(親政)[建武の新政]。
 九変……南北朝、分立の時代。
《五変》
 一変……源頼朝の鎌倉開府。
 二変……北条義時の執権政治。
 三変……足利尊氏の室町開府。
 四変……織田信長・豊臣秀吉の治世。
 五変……当代=徳川家康の江戸開府。
 本朝の六変と武家の一変、本朝七変と武家二変、本朝九変と武家三変が対応。 
 光孝天皇(在位884-887)以前の上古は、天皇が文武を兼ねる理想の時代として解されている。上古聖代観。
 
●天皇名の変化(p43)
 宇多天皇以下、醍醐、村上といった京都の地名や御所名を冠する天皇が続く。諡号から追号へ。50代桓武天皇までが大枠では漢風諡号、51代の平城は、縁の深い場所が天皇名に付された。52代嵯峨および53代淳和も別邸や後院に由来。54代仁明〈にんみょう〉および55代文徳は漢風諡号、56代清和および57代陽成の幼帝が追号、となっている。
 当該期の律令システム(中国的グローバリズム)から王朝システム(日本的ローカリズム)への推移と対応。摂政・関白の登場とも関係している。
 三変の冷泉院の号に示されるように、天皇に対しても「~院」の表現が一般化する。
 
●健全なる野党(p164)
〔 そもそも武家とは武力を職能とした権門の呼称で、武士の個々を統括する役割を担っていた。その点では武家の使命の一つは、京都王朝と対峙しつつ、武家に結集する個々の武士たちの権益を保護することだった。武家が朝家との関係で公的に認知された幕府は、その限りでは武士たちの剝き出しの暴力的欲望を統御する役割も担った。武家とは個々の武士にとって、敵とも味方ともなり得る存在だった。そこに“健全なる野党”としての武家の存在意義があった。武家はかくして自己の存在意義をかけて闘うことになった。道理主義と対峙する、綸旨主義に対してである。〕
 
(2024/1/4)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

図説日本人の源流をたどる! 伊勢神宮と出雲大社
 [歴史・地理・民俗]

図説 日本人の源流をたどる!伊勢神宮と出雲大社 (青春新書)
 
滝音能之/監修
出版社名:青春出版社(青春新書 Intelligence PI-267)
出版年月:2010年3月
ISBNコード:978-4-413-04267-3
税込価格:1,210円
頁数・縦:220p・18cm
 
 日本の「二大神宮」とも言うべき伊勢神宮と出雲大社について、図説を豊富に用いて紹介する(記・紀では両神社と石上神宮にのみ「神宮」の文字を使っているという《P.220 》)。
 著者が「島根県古代文化センター客員教授」だけあって、比重は出雲大社に置かれている。「全国区」「天孫」である伊勢神宮に対して、「地方区」「国津神」出雲大社の意義を強調する狙いがあるか?
 
【目次】
序章 伊勢と出雲
1章 伊勢神宮と出雲大社の原像
2章 日本の創世と祭祀
3章 ヤマト政権と出雲の興亡
4章 日本神話と出雲神話
5章 大和と出雲の文化の伝播
6章 信仰を育んだその風土
7章 ヤマト政権から見た伊勢神宮と出雲大社
 
【著者】
瀧音 能之 (タキオト ヨシユキ)
 1953年生まれ。現在、駒澤大学教授、島根県古代文化センター客員研究員。日本古代史、特に『風土記』を基本史料とした地域史の研究を進めている。
 
【抜書】
●国津神(p40)
〔 本来の国譲り神話は、各地の王がヤマト政権に服従し、屯倉を差し出す。その代わりに自治権を認めるという国造体制を投影したものだった。つまり国土は高天原の神に献上するが、自分たちが政治と国津神の奉斎をするという形だったのだろう。
 ところが中央集権体制への移行に伴い、地方の政務も祭祀も国家が統括することになった。つまり、国津神はお隠れになり、代わって天孫である大王が国を治めていくのである。それゆえ国津神に隠れて(鎮まって)もらう場所として設けられたのが出雲大社だったのだ。これまで信仰を集めてきた国津神の象徴オオクニヌシが自らの宮殿建築を条件に国譲りを承認したという神話に反映され、出雲大社は国津神すべての祭祀の象徴となった。〕
  ↓
 10月に全国の神が集まるのはそのためか。
 
●2000年以上(p60)
 伊勢神宮の神嘗祭の一年の流れ。
〔 四月上旬には神嘗祭などの神事にお供えするお米の稲をまく「神田下種祭〈しんでんげしゅさい〉」が行なわれる。神田は伊勢市楠部〈くすべ〉町と志摩市磯部町恵利原〈いそべちょうえりはら〉の二箇所にあり、主となる楠部の「おみた」は三万平方メートルの作付面積を誇る。由来は倭姫がこの地でアマテラスにお供えする米を作るよう定めた「大御刀代〈おおみとしろ〉」であり、二〇〇〇年以上前から作られてきた。〕
 
●アワビ真珠(p189)
 出雲のアワビは、御埼(現・日御碕)の海人が獲るものが一番だとされた。古代は貢上品、神饌として珍重された。
 アワビの体内で作られる真珠を海人が採取して貢納していたことが知られる。
 
(2023/12/28)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:

桓武天皇 決断する君主
 [歴史・地理・民俗]

桓武天皇 決断する君主 (岩波新書 新赤版 1983)
 
瀧浪貞子/著
出版社名:岩波書店(岩波新書 新赤版 1983)
出版年月:2023年8月
ISBNコード:978-4-00-431983-2
税込価格:1,166円
頁数・縦:286, 4p・18cm
 
 桓武天皇の事績をたどりながら、平安京遷都前後の日本の歴史を綴る。
 
【目次】
第1章 ルーツ――白壁王の長男
第2章 皇位への道――「奇計」によって誕生した皇太子
第3章 桓武天皇の登場――「聖武系」の皇統意識
第4章 平安朝の“壬申の乱”――早良親王との確執
第5章 神になった光仁天皇――長岡京から平安京へ
第6章 帝王の都――平安新京の誕生
第7章 政治に励み、文華を好まず――計算された治政
終章 桓武天皇の原点――聖武天皇への回帰
  
【著者】
瀧浪 貞子 (タキナミ サダコ)
 1947年大阪府生まれ。京都女子大学大学院修士課程修了。京都女子大学文学部講師等を経て、1994年同大学教授。現在、京都女子大学名誉教授。文学博士(筑波大学)。専攻は日本古代史(飛鳥・奈良・平安時代)。
 
【抜書】
●親王禅師(p67)
 早良親王は、幼いころから仏道を志し、東大寺の等定〈とうじょう〉を師として11歳で出家、21歳(もしくは22歳)で受戒し、その年に東大寺から大安寺〈だいあんじ〉に移住した。東大寺では法華宗を極め、大安寺に移住後は華厳宗を広めることに尽力した。東大寺の開山・良弁〈ろうべん〉は、臨終に際して早良に華厳宗を伝授。
 宝亀元年(770年)、父の光仁の即位に伴い、「親王禅師〈しんのうぜんじ〉」と呼ばれることになる。僧籍を持ったまま親王号を称したため。正倉院文書に「親王禅師」「禅師親王」と見える。
 桓武天皇の即位とともに皇太子に立てられ、還俗した。
 
●宮内遷宮(p85)
 きゅうないせんぐう。
 飛鳥時代には、天皇ごとに宮殿が遷された。歴代遷宮。
 藤原京以後も、宮城内(大内裏内)に殿舎〈でんしゃ〉を建て替える「宮内遷宮(遷都)」という縮小形態で継承されてきた。
 桓武を継いだ平城天皇は、遷都せず、旧宮にとどまることを決定した。平安京造営や兵役のために民が疲弊していたため。
 
●不改常典(p127)
 天智天皇が定めたとする皇位継承法。それまでの慣例だった兄弟継承をやめ、直系(嫡系)への継承を原則とする。大海人皇子への皇位継承を反故にする手段として、直系(嫡系)への継承、すなわち大友即位の正当性を定めた。口勅〈こうちょく〉の類で、成文化されていない。
 慶雲4年(707年)、元明天皇即位の詔に出てくる、「天地と共に長く、日月と共に遠く、改まるまじき常の典〈のり〉と立て賜い、敷〈しき〉賜える法」。略して「不改常典」と称する。
 それ以前、持統女帝が、草壁皇太子の子の珂瑠皇子の即位を実現するために援用、依拠したのが最初。
 
●刪定(p230)
 さんてい。文章や語句を改正すること。
 延暦10年(791年)3月に『刪定律令』24条が施行されたが、これは『養老律令』を修正・補訂したもの。
 神護景雲3年(769年)、称徳天皇時代に吉備真備・大和長岡らが時代にそぐわない条文や不必要な語句を削り修正し、まとめていた。しかし、頒下〈はんか〉されず放置されたままになっていた。桓武がその施行を命じた。
 延暦16年6月には、大納言神王〈みわおう〉らが奏上した『刪定令格〈さんていりょうきゃく〉』45条を諸司に下し、遵用を命じている。
 格……律令の不備を補うための法令。
 
(2023/10/22)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

海賊たちは黄金を目指す 日誌から見る海賊たちのリアルな生活、航海、そして戦闘
 [歴史・地理・民俗]

海賊たちは黄金を目指す: 日誌から見る海賊たちのリアルな生活、航海、そして戦闘
 
キース・トムスン/著 杉田七重/訳
出版社名:東京創元社
出版年月:2023年7月
ISBNコード:978-4-488-00398-2
税込価格:2,970円
頁数・縦:367, 13p・20cm
 
 1680年春、コロンビアとパナマの間に横たわる未開のジャングル、ダリエン地峡を越えて太平洋に躍り出たバッカニアたちの冒険の物語。無法者たちは、クナ族の王アンドレアスに頼まれ、スペイン人にさらわれた孫娘を救出するため、南海(太平洋)側要塞サンタ・マリアに進撃する。
 冒険に加わった7人の海賊たちの航海日誌をもとに綴ったノン・フィクションということである。バジル・リングローズ(『アメリカのバッカニアの歴史第2巻』、1685年)、バーソロミュー・シャープ、ウィリアム・ダンピア(『最新世界周航記』、1697年)、ライオネル・フェイファー、ジョン・コックス(『バーソロミュー・シャープ船長の航海日誌と冒険』、1684年:実際にはコックスの日誌)、ウィリアム・ディック、エドワード・ポウヴィー、の7人である。
 
【目次】
第1部 黄金への渇望
 プリンセス
 黄金の剣士
 地峡
 ゴールデン・キャップ
 決死隊
 西半球で二番目に大きい都市
 根っからの海賊
 気楽なカヌーの旅
 漂流者たち
 奇襲
 ドラゴン
 運任せの勝負
 甲板を流れる奔流のような血潮
 叛乱
第2部 南海
 我らが銃の銃口
 海に呑みこまれる
 高潔であっぱれな勇者
 ヘビの髪を持つ姉妹
 浮かれ野郎ども
 水、水
 代償金
 八十五人の屈強な仲間たち
 ロビンソン・クルーソー
 非常に美しく堂々とした町、セント・マーク・オブ・アリカ
 うずき
第3部 苦境
 射殺を覚悟する
 積み薪
 瀉血
 温められた甲板
 ホーン岬
 陸地初認
 銀のオール
 続編
 
【著者】
トムスン,キース (Thomson, Keith)
 セミプロの野球選手や風刺漫画家、脚本家などさまざまな職業を経て作家に。現在はアラバマ州バーミングハムに家族と暮らす。
 
杉田 七重 (スギタ ナナエ)
 東京都生まれ。東京学芸大学卒。英米文学翻訳家。
 
【抜書】
●プライベーティア(p24)
 私掠船。他国の船舶を略奪する免許を政府から公式に与えられた船。
 
●バッカニア(p24)
 海賊のこと。
 イスパニョーラ島やトルツガ島で猪や雄牛を狩るboucaniersとして知られる猟師たちに、イングランドやフランスの植民地長官が委任状や「他国籍商船拿捕免許状」を発行し始めた17世紀後半に端を発する。boucaniersとは、もともとブラジルの先住民トゥピ族が使っていた、木製のグリルを意味するフランス語のboucanに由来。猟師たちが好んで使っていた。
 ただし、「堕落した人間たちとつるむ」「下劣な雄山羊のような振る舞いをする」という意味のフランス語boucanerからきているという説もある。
 
●ワグナー(p350)
 海事用語。海図や地図を集めた本。
 1584年に、この種の収集物を初めて出版した、オランダ人の地図製作者ルーカス・ワグナーにちなんだ名前。
 
(2023/10/12)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む
 [歴史・地理・民俗]

戦国日本を見た中国人 海の物語『日本一鑑』を読む (講談社選書メチエ)
 
上田信/著
出版社名:講談社(講談社選書メチエ 788)
出版年月:2023年7月
ISBNコード:978-4-06-532574-2
税込価格:1,870円
頁数・縦:245p・19cm
 
 16世紀に鄭舜功〈ていしゅんこう〉が著した『日本一鑑〈にほんいっかん〉』を紐解き、当時の日本と中国との関係を探る。
 鄭舜功は、「大倭寇」が頂点を極めた1556年に日本に渡り、大友義鎮〈よししげ〉(宗麟)のもとで日本の言語・地理・文物・文化について調査し、帰国後、『日本一鑑』にまとめた。
 
【目次】
はじめに―忘れられた訪日ルポには何が書かれているのか
序章 中世の日本を俯瞰する
第1章 荒ぶる渡海者
第2章 明の侠士、海を渡る
第3章 凶暴なるも秩序あり
第4章 海商と海賊たちの航路
終章 海に終わる戦国時代
 
【著者】
上田 信 (ウエダ マコト)
 1957年東京都生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、立教大学文学部特別専任教授。専攻は中国社会史。
 
【抜書】
●日本刀(p15)
 明朝は日本から大量の刀を輸入した。モンゴル高原に追いやった元朝の残党たちの軍事侵攻に対して、日本刀が有効な武器となったのである。
 元寇のとき、モンゴル兵と対峙した日本では、日本刀の改良が行われ、遊牧民が着込む皮革製の防護服を切り裂けるようになっていた。
 
●寄語(p24)
 『日本一鑑』巻五「寄語」は、一種の日本語辞典となっている。日本語の発音を漢字の音で表記。
  ア押 イ易 ウ烏 エ耶 オ堝
  カ佳 キ気 ク固 ケ杰 コ課
  サ腮 シ世 ス自 セ射 ソ梭
  タ太 チ致 ツ茲 テ迭 ト大
  ナ奈 ニ乂 ヌ怒 ネ業 ノ懦
  ハ法 ヒ沸 フ付 ヘ穴 ホ荷
  マ邁 ミ密 ム慕 メ蔑 モ目
  ヤ耀    ユ右    ヨ欲
  ラ剌 リ利 ル路 レ列 ロ六
  ワ歪 ヰ異    ヱ琊 ヲ阿
  ン乂
 
●倭寇(p28)
 「倭寇」という言葉は、もともと名詞ではなかった。13世紀に日本の方面から武装した一群の人びとが朝鮮半島沿岸で襲撃・略奪を繰り返した。これを「倭が寇〈あだ〉する」と記載したことにさかのぼる。
 記録に残る最初の事件は、1223年、朝鮮半島南部の金州(現在の金海)が襲われた出来事。『高麗史』世家、巻22、高宗10年5月甲子条。
 
●閩人三十六姓(p44)
 明朝が建国されると、朱元璋は積極的に周辺国に使節を送り、朝貢するよう求めた。
 沖縄本島の按司たちはその求めに応じた。明朝は、使節を無事に送り出せるよう、造船や航海の技術を持った職人や、外交文書を作成できる人材を琉球に派遣した。彼らは「閩人三十六姓」として伝説化された。交易に関する職能集団の子孫たちは、那覇港近くの久米村〈クニンダ〉に定住し、その後も明清時代を通じて中国との交流を支えた。
 
(2023/10/5)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

通訳者と戦争犯罪
 [歴史・地理・民俗]

通訳者と戦争犯罪
 
武田珂代子/〔著〕
出版社名:みすず書房
出版年月:2023年6月
ISBNコード:978-4-622-09617-7
税込価格:4,950円
頁数・縦:282p, 26p 20cm
 
 第二次世界大戦後、対日英軍戦犯裁判でBC級戦犯として起訴された39人のうち、38人が有罪判決を受け、9人が死刑となった。ほとんどが日本占領地の地元住民や連合軍捕虜に対する虐待に「関与した」罪に問われた。有罪となったうちの17人、死刑となったうちの6人は台湾人だった……。
 本書では「言語変換機」(p.4)であり、「通訳しただけ」「媒介」「機関」「機械」「オウム」「メッセンジャー」(p.119)たる通訳者を、戦犯として裁けるのか、ということが大きなテーマである。それは、通訳者は通訳によって知り得た秘密を第三者に漏らしてはいけないということともに、通訳者の倫理規定にも関係する。プロとして雇われた通訳者は、機械のように言葉を「媒介」する義務があり、その業務に関して裁かれるべきではない、という考え方である。通訳者がいなければ、裁判も、警察の取り調べも、戦犯裁判も、順調に進まない。そこで罪に問われたら、質の高い通訳者を雇うことはできないし、通訳を引き受ける者はいなくなる。日本軍のように半強制的に徴収するしかなくなる
 ところで、有罪となった者のうち、台湾人以外にも海外で生まれ育った日本人が多数存在した。これらの被告人たちは、部隊のなかでは蔑まれ、尋問を受けた地元民からは恨みを買った。板挟みであったと言えよう。戦争が引き起こしたもう一つの悲劇なのかもしれない。
 
【目次】
序論 「伝達人」が罰されてしまったのか?
第1部 対日英軍戦犯裁判における被告人・証人としての通訳者
 第1章 被告人となった通訳者
 第2章 通訳者の罪状
 第3章 通訳者の抗弁
 第4章 判決とその後
第2部 戦争・紛争における通訳者のリスク、責任、倫理
 第5章 通訳者と暴力の近接性
 第6章 通訳者の可視性と発話の作者性
 第7章 戦争犯罪における通訳者の共同責任
 第8章 犯罪の目撃者としての通訳者
結論 通訳者を守るために
 
【著者】
武田 珂代子 (タケダ カヨコ)
 熊本市生まれ。専門は翻訳通訳学。米国・ミドルベリー国際大学モントレー校(MIIS)翻訳通訳大学院日本語科主任を経て、2011年より立教大学異文化コミュニケーション学部教授。現在、同学部特別専任教授。MIISで翻訳通訳修士号、ロビラ・イ・ビルジリ大学(スペイン)で翻訳通訳・異文化間研究博士号を取得。
 
(2023/9/30)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く
 [歴史・地理・民俗]

日本、中国、朝鮮 古代史の謎を解く (PHP新書)
 
関裕二/著
出版社名:PHP研究所(PHP新書 1357)
出版年月:2023年6月
ISBNコード:978-4-569-85490-8
税込価格:1,243円
頁数・縦:213p・18cm
 
 日本と中国の大きな違いを指摘し、序章にある「アジアは一つ」という幻想を打ち砕く……、という大げさな内容でもないのだが。日本と中国の古代に関する異説を紹介する、といったところか。
 たとえば、ヤマト建国は、西(北部九州)から強い王が攻めてきたのではなく、東の政権が出雲、吉備、北部九州を飲み込んだのが真実であるという。だとしたら、「神武東征」の物語が『古事記』『日本書紀』で語られている意味がわからない。このナゾも解明してほしかった。
 
【目次】
序章 アジアは一つか?
第1章 中国文明の本質
第2章 日本の神話時代と古代外交
第3章 中国の影響力と朝鮮・日本の連動
第4章 日本は中国と対等に渡り合おうとしたのか
第5章 中国の正体と日本の宿命
 
【著者】
関 裕二 (セキ ユウジ)
 1959年、千葉県柏市生まれ。歴史作家。武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー。仏教美術に魅せられて足繁く奈良に通い、日本古代史を研究。文献史学・考古学・民俗学など、学問の枠にとらわれない広い視野から日本古代史、そして日本史全般にわたる研究・執筆活動に取り組む。
 
【抜書】
●仰韶文化、竜山文化(p48)
 氷河期が終わると、BC13000~BC8000年頃、黄河流域、長江流域、東北の三つの地域に人々が住み、それぞれ異なる生業を持っていた。
 新石器時代前期から後期にかけて、渭水流域と黄河中流域で二つの文化圏が形成された。仰韶〈ぎょうしょう〉文化と竜山〈りゅうざん〉文化である。
 BC4500年頃は高温湿潤で、農耕が発達し、環濠集落を形成するようになる。
 新石器時代中期末期のBC3000年頃になると、環濠集落が発展し、城壁で囲まれた集落(城塞集落、城郭集落)が出現。都市の雛形。銅器や土器、文字らしきもの(記号状)も見つかっている。
 新石器時代後期(BC2000年頃)に至り、城壁集落の中では、階層と格差が生まれていた。墓の規模が異なり、土器、玉器、彩色の施された木器などが副葬された。祭祀と軍事を司る首長が誕生した。
 この後、二里頭文化、二里岡文化、殷墟文化が登場する。初期国家の時代。
 
●二里岡遺跡(p51)
 1950年、河南省鄭州市で、殷代前期(BC16~BC14世紀)の遺跡が見つかった。二里岡遺跡。
 殷王朝(BC17世紀頃~BC1046年)の実在が証明された。
 農耕社会と牧畜型農耕社会の接触地帯。二つの文化がまじりあって、化学反応を起こした。
 殷代史は、前期(二里岡期)、中期(鄭州期)、後期(安陽期)に分かれる。文字資料(甲骨文字)が残っているのは後期だけ。中心は、殷墟。青銅器文化が最盛期を迎えた。
 
●欲(p83)
 中国文明の本質は、「礼」が「人間の欲望を抑えるためのシステム」となっていること。
〔 中国文明の本質は「欲望」であり、それをいかにコントロールするか、どうやって民の欲を満たせるか、あるいは欲に箍〈たが〉をはめるかが、中国歴代王朝の最大の課題だった。〕
 
●強い王(p90)
〔 弥生時代の最後に銅鐸を祭器に用いた地域は、銅鐸を巨大化させていた。理由は、威信財をひとりの強い首長(王)に独占させないためで(強い王を望まなかった)、集落のみなで、銅鐸を祭器に用い、勝手に首長が墓に副葬できないようにしたのだ。北部九州のような、銅剣や鉄剣、鏡を副葬して首長の権威を誇っていた地域とは、異なる発想で、しかも「強い王を求めない地域の人びと」が、三世紀の初頭に、奈良盆地の南東の隅に拠点を作り、それがヤマト建国のきっかけとなっていく。これが、纏向遺跡(奈良県桜井市から天理市の南端)の誕生である。忽然と、三輪山山麓の扇状地に、政治と宗教に特化された都市が誕生したのだ。〕
 纏向遺跡には外来系の土器が多い。伊勢・東海49%、山陰・北陸17%、河内10%、吉備7%、関東5%、近江5%、西部瀬戸内3%、播磨3%、紀伊1%。東海と近江を合わせると過半数、北九州の土器がほとんどない。
 ヤマトを含む銅鐸文化圏の人びとは、縄文時代から継承されてきたネットワークを利用して、交易を行う人々。
 
●タニハ(p108)
 タニハ……但馬、丹波(8世紀以降は丹波と丹後)、若狭。
 出雲とタニハは反目していた。タニハが銅鐸文化圏(近畿地方南部と近江、東海)と手を結び、反撃に出た。出雲を圧迫し、明石海峡争奪戦に勝利した。このため、吉備と出雲は北部九州と手を切り、ヤマト建国に参加した。
 ヤマト政権は、北部九州沿岸部になだれ込んで奴国に拠点を構えた。
 ヤマト建国と言えば、北部九州の強い王家が東に移ったと信じられていたが、実際はその逆。ヤマトが北部九州の富と流通ルートを奪いに行った。大量の東の土器が北部九州に集まっていた。
 
●珍物(p125)
 「新羅・百済は、皆倭を以て大国にして、珍物多しと為し、並に之を敬仰して、常に使いを通じて往来す。」『隋書』倭国伝の一節。
〔 新羅と百済が本心でヤマト政権を敬仰していたかどうかはわからない。ただ、高句麗や隣国の脅威に身を晒していたから、ヤマト政権の軍事力をあてにしていたことは間違いない。少なくとも、かつて信じられていたような「常に倭国は朝鮮半島から見て、遅れた風下の国」という単純な決め付けは、改めた方がよい。〕
 
●蘇我氏(p131)
 古墳時代を通じてヤマト政権の中心に立っていたのは物部氏。瀬戸内海の吉備出身。
 日本海勢力に属する継体天皇の出現以降、蘇我氏が台頭し、物部氏の勢力は削がれていく。継体天皇が育った越は、蘇我系豪族の密集地帯であった。継体を支えたのは蘇我氏。 
 
●日本という国号(p168)
〔 「日本」は、古代の東西日本の東側を指していたと思う。『旧唐書』倭国伝に、「倭国は古の倭奴国〈わのなこく〉なり」とある。「奴国」は、福岡市周辺のことで、中国の言う「倭国」は、もともと弥生時代後期の北部九州やその周辺だった可能性が高い。そして『旧唐書』日本伝は、次の記事を載せる。
 日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て号となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、あらためて日本となすと。あるいはいう、日本は旧くは小国なれども、倭国の地を併せたりと。〕
 ヤマト建国は、奈良盆地周辺を中心とする「東(銅鐸文化圏)」が、「西の北部九州」を飲み込んだ事件だった。
 「西の北部九州は大国=富栄えた」国で、倭国(北部九州)の別種で小国(鉄をほとんど持っていなかった貧しい地域)の日本国が倭国を併合したという。
 北部九州を飲み込んだ国が東方の日の出る方角にあったから、「倭国から見て東は日本」なのであって、「日本」は中国大陸を基軸にして生まれた国号ではない。
 
(2023/9/20)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史
 [歴史・地理・民俗]

中華を生んだ遊牧民 鮮卑拓跋の歴史 (講談社選書メチエ)
 
松下憲一/著
出版社名:講談社(講談社選書メチエ 785)
出版年月:2023年5月
ISBNコード:978-4-06-531839-3
税込価格:1,870円
頁数・縦:243p・19cm
 
 中国の歴代王朝は、北方の異民族に支配されたものが半数近くある。そのなかで、のちの中国文明に少なからず影響を及ぼした北魏、鮮卑拓跋部の王朝の歴史を詳しく解説する。
 
【目次】
第1章 拓跋部の故郷―遊牧と伝説
第2章 部族を集めろ―「代国」の時代
第3章 部族を再編せよ―北魏の成立
第4章 中華の半分を手に―胡漢二重体制
第5章 中華の中心へ―孝文帝の「漢化」
第6章 胡漢融合への模索―繁栄と分裂
第7章 誕生!新たな中華―隋唐帝国の拓跋
 
【著者】
松下 憲一 (マツシタ ケンイチ)
 1971年、静岡県生まれ。2001年、北海道大学大学院文学研究科博士後期課程東洋史学専攻修了。博士(文学)。現在、愛知学院大学文学部教授。
 
【抜書】
●異民族王朝(p10)
 中国王朝のなかには、北方遊牧民が支配者となった異民族王朝(征服王朝、遊牧王朝とも)がある。
 五胡十六国、北朝、五代、遼、金、元、清である。
 近年では、隋・唐も遊牧王朝とする見解が強い。
 なお、金と清を建てた女真族は正確には遊牧を行わない狩猟民だが、遊牧民と同様に高度な騎馬技術を生かした軍事力を持っていた。
 つまり、中国王朝の半分は、異民族王朝が支配していた時代といってよい。
 
●子貴母死(p86)
 北魏では、後宮の女性が子供を生み、その子が後継者に選ばれると、生母は死を賜う。
 『魏書』太宗紀において、道武帝が息子の明元帝に次のように説明している。
 「むかし前漢の武帝が母親を殺し、母親がのちに国政に参与し、外戚が政治を乱さないようにした。お前はまさに跡継ぎになるのだから、わしも前漢の武帝と同じことをして、長くつづく計〈はかりごと〉とする。」
 この説明を受けた明元帝は、悲しみのあまり日夜号泣した。それを見た道武帝は、激怒して明元帝を呼びつけた。明元帝が行こうとすると、左右の者が「ここしばらくは平城を離れるべきです」と押しとどめた。
 明元帝が後継者になることを拒否したと思った道武帝は、弟の清河王紹を後継者にするため、紹の生母の賀氏を幽閉した。殺されると知った賀氏は紹に助けを求め、紹は宮中に乗り込んで道武帝を暗殺した。賀氏の出身部族の賀蘭部でも、かつての部族を集めて平城に乗り込もうと烽火を上げて集合した。
 一部の官僚が明元帝を呼び戻し、清河王紹を倒して、皇帝に即位した。
 あれほど子貴母死に反対した明元帝だったが、自分の後継者選びの際には、躊躇なく採用している。
 その理由は……。
 代国時代、母親が政治に口出しすること、後継者の選択に関与することがしばしば起きた。その反省を生かして、後継者に選ばれた時点で母親を排除することになった。
 もう一つの狙いは、後継者をあらかじめ選ぶということ。代国時代の後継者は、能力・年齢・母親の出身などをもとに、部族長たちが選んでいた。拓跋氏の中から選ばれるとはいえ、継承の仕方に定まった順番はなかった。そこで道武帝は、自分の子供、さらに孫と直系子孫に確実に継承されるよう、あらかじめ後継者を決めることにした。その際に母親を殺すという代償を払うことで、後継者選びを神聖化したのである。
 子供が皇帝に即位すると、殺された生母は、皇后の称号をもらって宗廟に祭られる。また、生母の一族に対しては、爵位が与えられて優遇される。ただし、政治的な権限は与えられなかった。
 
●レビレート(p204)
 夫を亡くした女性が夫の兄弟と再婚すること。遊牧社会では、夫の子と再婚する形も含め、広く行われていた。
 中華世界にはない風習。「貞女は二夫〈じふ〉を更〈か〉えず」。
 遊牧社会におけるレビレートの目的の一つは、部族同士の同盟を維持するというもの。君主の妻は他の部族から嫁いでくるため、妻を引き継ぐことで、その部族との同盟も維持される。
 中華世界に持ち込まれたのは、五胡十六国時代になってから。
 
●小麦の粉食(p228)
 小麦の栽培が華北で本格化するのは漢代。魏晋時代には胡餅〈こへい〉が文献に登場するようになる。
 小麦の粉食は、魏晋南北朝から隋唐にかけて爆発的に広がり、種類も豊富になる。
 小麦を挽いて、水と一緒にこねてまとめる。それをしばらく寝かしてから、細く伸ばせば麺になる。拉麺の「拉」は伸ばすという意味。削れば刀削麺。薄く延ばして肉を詰めれば包子〈パオズ〉、餃子。何も入れずに蒸せば饅頭〈マントウ〉。薄く延ばしたものを窯で焼けば芝麻餅〈ジーマーピン〉、鉄板の上で焼けば餤〈タン:クレープ〉、その上に具材をのせて包むと庶民の朝ごはん煎餅〈チェンピン〉。
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

御成敗式目 鎌倉武士の法と生活
 [歴史・地理・民俗]

御成敗式目 鎌倉武士の法と生活 (中公新書)
 
佐藤雄基/著
出版社名:中央公論新社(中公新書 2761)
出版年月:2023年7月
ISBNコード:978-4-12-102761-0
税込価格:1,012円
頁数・縦:278p・18cm
 
 1232年(貞永元年)に、執権・北条泰時によって制定された「御成敗式目(貞永式目)」をひもとく。
 中世鎌倉時代の社会・生活の一端がうかがえて興味深い。著者も、「本書は式目を通して、中世がどのような時代だったのか、そして中世の歴史が、現在に至るまでどのように受容されてきたのかを考えてきた」(p.247)と述べている。
 
【目次】
第1章 中世の「国のかたち」
第2章 「有名な法」の誕生
第3章 「道理」の法
第4章 五十一箇条のかたち
第5章 式目は「分かりやすい」のか
第6章 女性と「もののもどり」
第7章 庶民と撫民
第8章 裁判のしくみ
第9章 天下一同の法へ
第10章 「古典」になる
第11章 現代に生きる式目
 
【著者】
佐藤 雄基 (サトウ ユウキ)
 1981年(昭和56年)、神奈川県に生まれる。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程を修了し、博士(文学)を取得。日本学術振興会特別研究員(PD)などを経て、立教大学文学部教授。専門分野は日本中世史、近代史学史。
 
【抜書】
●権門体制論、東国国家論(pⅲ)
 鎌倉時代の国のかたちとして、大きく二つの学説がある。いずれも、「鎌倉幕府は日本国全体を支配する権力ではない」という事実認識は一致していた。
 権門体制論……幕府は中世の支配層の一部分でしかない。荘園制に基づいて民衆を支配するという点では武家(幕府)や公家(貴族)、大寺社という諸権力は共通しており、そのうち鎌倉幕府は軍事と治安維持を担う権門として天皇のもとで国家権力の一部を構成していた。
 東国国家論……幕府は関東に独自の基盤を持ち、京都の朝廷から半独立的な状態にあった。
 
●地頭(p7)
 鎌倉幕府が、守護とは別に国内の荘園や公領(国衙領)ごとに設置したポスト。
 御家人は、幕府から「御恩」として荘園・公領の地頭の地位を与えられ、軍役などの「奉公」を果たしていた。武士たちは、荘園・公領ごとに地頭のような現地管理者の職〈しき〉を持つことで、その荘園・公領に所領を確保していた。
 
●家(p17)
 鎌倉時代、「職」を所領とし、財産相続することによって「家」が成立した。「家」とは、財産(家産)と仕事(家業)が「職」とセットになった状況の下、それらを親から子に継承していくことを目的とした経営母体を指す。研究上は「中世のイエ」などと言われる。
 中世社会とは、荘園制とそれを基盤にした「職」(仕事と利権)と「家」、これらを基盤として、多様な勢力が緩やかに結びついて運営されている社会であった。
 
●格式(p57)
 きゃくしき。
 律令体制の下では、膨大な官僚制度を運用するため、また、新しく生じる問題に対応するため、個別の単行法令が出されたり、役所の部署ごとの施行細則の先例・ルールが形成されていった。
 律令は8世紀冒頭に導入されるが、格式が整備されたのは平安前期(9世紀)。弘仁、貞観、延喜の三代格式が広く知られている。特に延喜式(927年、延長5年)。式の集大成として百科便覧的な趣を持ち、中世の朝廷でも儀式や年中行事の典拠として尊重されていた。
 格……個別の単行法令を集積・整備したもの。
 式……役所ごとに施行細則となる先例・マニュアルを集積したもの。
 
●養老律令(p60)
 中国の律令は、皇帝の代替わりや王朝ごとに新たに作り直されていた。
 日本では、757年(天平宝字元年)に養老律令が施行されたのちは、新たに律令が作り直されることはなかった。
 
●辻捕(p151)
 つじどり。
 道路の辻において女性を捕まえて強姦におよぶ行為。
 
●塵芥集(p212)
 戦国大名の伊達稙宗〈たねむね〉(伊達政宗の曽祖父)による分国法。御成敗式目を意識して作られた。稙宗は、室町幕府に莫大な贈り物をして、陸奥国守護職に任じられた。
 『今川仮名目録』(今川氏)、『甲州法度』(武田氏)も、御成敗式目を意識して作られた分国法。
 
●封建(p234)
 封建の意味。
 (1)古代中国において、領地を一族・家臣に与え、統治を委ねる方式。「郡県」(中央から官僚を派遣して統治)と対になる。
 (2)中世ヨーロッパにおいて主君と家臣が土地を媒介にして主従関係を結ぶ仕組み。英語でfeudalism。「封建制」という訳語をあてた。法制史的用例。
 (3)マルクス主義歴史学において、土地に緊縛された農奴支配に基づく領主制を指す。社会経済史的用例。
 
(2023/9/7)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:

「諜報の神様」と呼ばれた男 情報士官・小野寺信の流儀
 [歴史・地理・民俗]

「諜報の神様」と呼ばれた男 情報士官・小野寺信の流儀 (PHP文庫)
 
岡部伸/著
出版社名:PHP研究所(PHP文庫 お86-1)
出版年月:2023年2月
ISBNコード:978-4-569-90297-5
税込価格:1,100円
頁数・縦:429p・15cm
 
 第二次世界大戦中、ポーランド、エストニア、スウェーデン、ドイツのインテリジェンス・オフィサーたちと情の通った深いつながりを作り、国家のために諜報活動を行った小野寺信の行動と人となりを描く。
 
【目次】
序章 インテリジェンスの極意を探る
第1章 枢軸国と連合国の秘められた友情
第2章 インテリジェンス・マスターの誕生
第3章 リガ、上海、二都物語
第4章 大輪が開花したストックホルム時代
第5章 ドイツ、ハンガリーと枢軸諜報機関
第6章 知られざる日本とポーランド秘密諜報協力
第7章 オシントでも大きな成果
第8章 バックチャンネルとしての和平工作
 
【著者】
岡部 伸 (オカベ ノブル)
 1959年、愛媛県生まれ。立教大学社会学部社会学科を卒業後、産経新聞社に入社。米デューク大学、コロンビア大学東アジア研究所に客員研究員として留学。外信部を経て、モスクワ支局長、社会部次長、社会部編集委員、編集局編集委員などを歴任。2015年12月から19年4月まで英国に赴任。同社ロンドン支局長、立教英国学院理事を務める。現在、同社論説委員。著書に、『消えたヤルタ密約緊急電』(新潮選書、第22回山本七平賞受賞)などがある。
 
【抜書】
●ブレッチリーパーク(p94、p99)
 ステーションX。第二次世界大戦期にイギリスの政府暗号学校(政府通信本部の前身)が置かれ、アラン・チューリングらがナチス・ドイツの暗号「エニグマ」の解読に成功した。
 MI6が、ロンドン郊外ミルトンキーンズにあった庭園とマナーハウス(邸宅)で女性や若い優秀な大学生を動員して各国の傍受電報を解読していた。
 現在、第二次大戦の暗号解読をテーマとした博物館となっている。
 
●浴風園(p99)
 日本陸軍の中央特殊情報部の本部はももと三宅坂の参謀本部にあったが、太平洋戦争開始と同時に市ヶ谷に移る。
 さらに赤坂に移転した後、昭和19年(1944年)春、イギリス、米国の暗号を解読する研究部が東京都杉並区高井戸の「浴風園」に移った。日本最古の養老院。
 数学や英語を専攻する学徒動員兵や勤労動員学生、女子挺身隊、旧制中学生、総勢512人が米国軍の各種暗号解読作業を行った。
 
●エシュロン(p100)
 米国は、イギリスからブレッチリーパークのノウハウの教示を受けた。
 戦後も、ソ連との対立を見越して、1948年にカナダ、オーストラリア、ニュージーランドを含むアングロサクソン5か国の諜報機関が世界中に張り巡らしたシギントの設備や盗聴情報を相互に共同利用するUKUSA協定を結んだ。
 現在、この通信傍受ネットワークは「エシュロン」と呼ばれ、米国の国家安全保障局(NSA)が中心となって世界中の電話・電子メールなどを違法に傍受し、情報の収集・分析を行っている。その活動実態は、CIAの元技術職員エドワード・スノーデンによって暴露された。
 
●エストニア(p102)
 宗教はプロテスタント、民族はアジア系。言語はフィン・ウラル語。フィンランド語に近く、ハンガリー語とも同系統。一般市民は、支配されていたドイツ語、ロシア語をよどみなく話す。
 ちなみに、ラトビアもプロテスタント、ポーランドに接するリトアニアはカトリック。
 
●愛国心(p197)
〔 語学、学識とともに、愛国心も優れたインテリジェンス・オフィサーの必須条件である。米中央情報局(CIA)でシギントと呼ばれる通信を傍受・解析するインテリジェンス活動に従事していた技術職員、エドワード・スノーデンはアメリカが世界中の市民を対象に地球規模で行なっているシギントを内部告発して、二〇一三年八月にロシアに一時亡命した。しかし、「国家がなくても人類は生きていくことができる」というアナーキズム思想を信じて、「アメリカ政府が世界中の人々のプライバシーやインターネット上の自由、基本的な権利を極秘の調査で侵害することを我が良心が許さなかった」など独特の❝正義感❞を語るハッカーをソ連国家保安委員会(KGB)で辣腕を振るったプーチン大統領は容易に受け入れようとせず、一言で切り捨てた。
「元インテリジェンス・オフィサーなど存在しない」
 そこには、「インテリジェンス機関に身を投じた者は、生涯を通じて『諜報の世界』の掟に従い、祖国のために一生尽くすべきだ。この約束事に背いた者は命を失っても文句は言えない」という、プーチン大統領の厳格な倫理観と哲学があった。国家のために全てを捧げるのがインテリジェンス・オフィサーの職業的良心である。だから国家に反逆して祖国を裏切り、愛国心のかけらもないアナーキストのスノーデンをプーチン大統領が嫌悪して、亡命を容易に認めなかったのである。やはりインテリジェンス・オフィサーには祖国に身を捧げる愛国心が必須だろう。〕
 
●第三次世界大戦(p269)
 ヤルタ会談から2か月後、45年4月27日の小野寺からの電報(HW35/95)。
 「(ドイツの敗北を目前にして)国際情勢に変化が出てきている。英米とソ連の間で政治的対立が生じて、今後、残念ながら武力衝突に発展する懸念すら出てきている。多分にドイツのプロパガンダの影響もあることは確かだが、バルト三国の人たちの間では、(ドイツが敗北して第二次大戦が終われば英米陣営とソ連陣営の間で)第三次世界大戦に発展すると懸念する声も出ている」
 
●マツヤマ(p281)
 日露戦争時、日本はヨゼフ・ピウスツキ将軍(ポーランド独立の英雄)の嘆願を受け、ロシア軍に徴兵されたポーランド人捕虜数千人の取り扱いに特別配慮した。愛媛県の松山にポーランド人捕虜だけの収容所を作り、ロシア人将兵と区別して、彼らの虐待を未然に防いだ。
 捕虜は礼拝所や学校の自主運営を認められ、自由に外出して温泉や観劇を楽しむこともできた。
 劣勢となったロシア軍では、ポーランド人将兵が「マツヤマ」と叫んで、次々と日本軍に投降してきた。司馬遼太郎『坂の上の雲』より。
 
●カリシュの法令(p299)
 1264年、ポーランド王国は「カリシュの法令」を発布、ユダヤ人の社会的権利を保護した。
 ユダヤ人に寛容なポーランドは、十字軍の時代から、欧州にユダヤ人にとって大変住みやすい国だった。
 第一次大戦後、ポーランドが再び独立を果たすとユダヤ人が押しかけ、再び世界最大のユダヤ人を抱える独立国家となった。その数300~400万人。
 軍人を脱出させるという、ポーランド陸軍参謀本部情報部アルフォンス・ヤクビャニェツ大尉の要請により、杉原千畝は、リトアニアに殺到したポーランド難民に日本通過のビザを発給した。ユダヤ人が多かったが、元来は、軍を再建するために軍人を脱出させるのが目的だった。
 その見返りとして、杉原はポーランドからソ連情報や旧ポーランド領でのドイツ情報を得た。
 
●情報(p408)
〔 情報とは「長く時間をかけて、広い範囲の人たちとの間に『情』のつながりをつくっておく。これに報いるかたちで返ってくるもの」(上前淳一郎『読むクスリ』第一巻 あとがき 文春文庫)といわれる。『諜報の神様」と小国の情報士官から慕われた小野寺氏は、リガ、上海、ストックホルムで「人種、国籍、年齢、思想、信条」を超えて多くの人たちと心を通わせた。これこそインテリジェンスの本質ではないだろうかと思えた。〕
 
(2023/8/30)NM
 
〈この本の詳細〉


nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:
前の10件 | 次の10件 歴史・地理・民俗 ブログトップ