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本が語ること、語らせること
 [ 読書・出版・書店]

本が語ること、語らせること
 
青木海青子/著
出版社名:夕書房
出版年月:2022年5月
ISBNコード:978-4-909179-08-1
税込価格:1,870円
頁数・縦:180p・17cm
 
 奈良県東吉野村の山村で「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」を営む、元大学図書館司書による人生相談&エッセー。
 夕書房note(https://note.com/sekishobo)に掲載した「司書席での対話」を大幅に加筆修正し、書下ろしエッセーを加えて構成。
 
【目次】
お元気でしたか
窓を待つ
司書席での対話1 コロナ禍でリアル会議、どうする?
「公」を作る
司書席での対話2 「婚活」を始めたけれど
謎のおかえし
待つのが好き
司書席での対話3 働かない夫となぜ暮らしているのか
自助を助ける
他者を知る仕組みとしての図書館
怪獣の名づけと
司書席での対話4 自分を語る言葉が見つからない
本が語ること、語らせること
本に助けられた話1 二冊の絵本
本に助けられた話2 「わたしは疲れてへとへとだ。一つの望みも残っていない」
司書席での対話5 「趣味」と言われて
蔵書構築の森
言葉の海に、潜る、浮かぶ
司書席での対話6 評価って何?
真っ暗闇を歩く
七転八倒踊り
司書席での対話7 最近、SNSが苦痛です
司書席での対話8 自分の考えを持ちたい
交差する図書館
図書館の扱う時間のはなし
本に助けられた話3 貸してもらった本
土着への一歩
 
【著者】
青木海青子 (アオキ ミアコ)
 1985年兵庫県生まれ。「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」司書。図書館を営むかたわら刺?等によるアクセサリーや雑貨製作、イラスト制作を行う。
 
【抜書】
●謎のおかえし(p45)
〔 「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」は、入場、貸出を無料で行っています。二〇一四年から毎週配信しているインターネットラジオ「オムライスラヂオ」も無償です。これらは自分たちが誰の依頼も受けず、放っておいても勝手にやる生活の一部で、あくまで生活の余剰を、おすそ分けしているだけだからです。だからからなのでしょうか、ときおり気のいいお客さんから、おすそ分けに対する「謎のおかえし」をいただくことがあります。「謎」とは不思議な言い方ですが、「こんな方面から、おかえしが」と面喰らうくらい、おかえしは多種多様です。きっとお客さんたち自身も、誰の依頼も受けず、放っておいても勝手にやるような生活の余剰を分けてくれているゆえの多様性なのでしょう。〕
 
(2022/11/28)NM
 
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新聞記者、本屋になる
 [ 読書・出版・書店]

新聞記者、本屋になる (光文社新書)
 
落合博/著
出版社名:光文社(光文社新書 1154)
出版年月:2021年9月
ISBNコード:978-4-334-04561-6
税込価格:1,034円
頁数・縦:219p・18cm
 
 毎日井新聞の企画記事で「ミズノスポーツライター賞 優秀賞(賞金50万円)」を2度受賞(2004年度、2007年度)した新聞記者による、転職顛末記。
 なぜ本屋になったのか、「正直、自分自身にも良く分からない」(p.56)らしいのだが、いろんな人との出会いがそうさせたようだ。肩の力の抜けた生き方なのである。それが、今の時代の本屋に向いていたか。斜陽産業で新規参入の熾烈な競争はないし、自分の趣向を生かして気ままに過ごせる。培ってきた人脈を生かして、トークライブや短歌の会など、本屋という場はいろんなイベントも開催できる。収入はあまり多くないけど……。
 一文が短く、テンポもよくて読みやすい。一気に読み終えてしまった。さすが、賞を取るほどの新聞記者の文章である。
 
【目次】
第1章 新聞記者だった
第2章 本屋開業に向けて
第3章 どんな本屋か
第4章 本を売るだけでなく
第5章 本屋の日々/考えていること
 
【著者】
落合 博 (オチアイ ヒロシ)
 1958年山梨県甲府市生まれ。Readin’Writin’ BOOKSTORE店主兼従業員。東京外国語大学イタリア語学科卒。読売新聞大阪本社、ランナーズ(現アールビーズ)を経て、1990年毎日新聞社入社。主にスポーツを取材。論説委員(スポーツ・体育担当)を最後に2017年3月退社。
 
(2022/6/10)NM
 
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小説岩波書店取材日記
 [ 読書・出版・書店]

小説 岩波書店取材日記  
中野慶/著
出版社名:かもがわ出版
出版年月:2021年12月
ISBNコード:978-4-7803-1197-6
税込価格:2,200円
頁数・縦:230p・19cm
 
 帯に「リアルすぎるユーモア小説です。」とあるが、これはシニカル。ユーモア小説と呼んでいいのかどうか……。
 むしろシュールすぎます。
 主人公の女性二人のキャラが立ちすぎ。テレビドラマや現実で見かける、自分の知っている範囲の若い女性としては、とてもリアルではない。出版社には、こんな女性がわんさかいるのだろうか?
 
【目次】
プロローグ 円筒分水を見ていた
第一日 爆笑した専務はその昔
第二日 卓越編集者に教わる驚異の賃金制度
第三日 組合のエースは叩き上げの読書家
第四日 瀬戸際で求められる経営改革
第五日 吉野源三郎。女性社員。ユニオンとマルクスと
第六日 組合執行部派と批判との攻防線
第七日 醜男の効用。会社の現在地
エピローグ 馬と蟻
 
【著者】
中野 慶 (ナカノ ケイ)
 本名大塚茂樹。1957年生まれ。早稲田大学第一文学部、立教大学大学院(修士中退)で日本現代史を専攻。岩波書店には夜間受付(嘱託)を経て1987年入社。校正部・辞典部を経て編集部で単行本、世界、岩波現代文庫(6年間編集長)等を担当した。労働組合では執行委員・地協委員等を経験。同社が提訴された沖縄戦裁判の担当者の一人。2014年早期退職して著述業。中野名では小説・児童文学を執筆。本名では評伝・ノンフィクションを執筆。主著に『原爆にも部落差別にも負けなかった人びと…広島・小さな町の戦後史』。
  
(2022/3/28)NM
 
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小さな出版社のつづけ方
 [ 読書・出版・書店]

小さな出版社のつづけ方
 
永江朗/著
出版社名:猿江商會
出版年月:2021年11月
ISBNコード:978-4-908260-12-4
税込価格:1,870円
頁数・縦:249p・19cm
 
 個性豊かな小さな出版社9社と、書店1社を紹介するルポルタージュ。
 
【目次】
01 パブリブの場合
 濱崎誉史朗。企画・編集・デザイン・営業・宣伝すべてを一人でこなす。デスメタル、ニッチな地域のガイドブック。『デスメタルアフリカ』『タタールスタンファンブック』など。
 
02 ブルーシープの場合
 草刈大介。美術館などでの展覧会の企画と、関連書籍の刊行。単なる図録ではなく、書店でも販売して展覧会とのハイブリッドで売る。立川のPLAY!や、町田のスヌーピーミュージアムの運営にもあたる。『世界を変える美しい本 インド・タラブックスの挑戦』など。
 
03 三輪舎の場合
 中岡祐介。CCC出身。東急東横線・妙蓮寺駅の石堂書店の2階がオフィス。『バウルを探して〈完全版〉』など。
 
04 フリースタイルの場合
 吉田保。下北沢の出版社。自宅兼オフィス。在庫は印刷所に預ける。『推理作家の出来るまで』(都築道夫、日本推理作家協会賞)など。
 
05 左右社の場合
 小柳学。社員10人。『〆切本』など。
 
06 アタシ社の場合
 ミネシンゴ、三根かよこ。三崎の夫婦出版社。シンゴは美容師、かよこはグラフィック&Webデザイナー。不定期刊行の雑誌『髪とアタシ』(シンゴ編集長、美容文芸誌)、『たたみかた』(かよこ編集長、30代のための社会文芸誌)。
 
07 夕書房の場合
 高松夕佳。せきしょぼう。つくば市の実家がオフィス。『家をせおって歩いた』『彼岸の図書館 ぼくたちの「移住」のかたち』など。
 
08 港の人の場合
 上野勇治。不定期刊PR誌「港のひと」、学術書、詩集。
 
09 荒蝦夷の場合
 土方正志。あらえみし。オフィスは仙台市。『別冊東北学』(東北芸術工科大学東北文化研究センター)『仙台学』『盛岡学』『X橋付近 高城高ハードボイルド傑作選』など。
 
10 往来堂書店の場合
 笈入建志。
 
【著者】
永江 朗 (ナガエ アキラ)
 1958年北海道生まれ。法政大学文学部哲学科卒業。西武百貨店系の洋書店、アール・ヴィヴァンに約7年間勤務した後、『宝島』などの編集を経てフリーライターに。「哲学からアダルトビデオまで」幅広いジャンルで活躍する。とりわけ書店流通には造詣が深い。
 
【抜書】
●なんでも屋(p207)
 「われわれは地域が見えている、読者が見えている、そこに向かって手本をつくっている。ここで100万部売れる本をつくれるわけはないんだけど。出版社って地域にあっては特別な存在じゃないんじゃないかな。産直なんかと同じ。気仙沼の漁師と同じだ(笑)。有限会社荒蝦夷を地元の零細企業として考えると、べつに出版だけで食べていく必要もないと思う。地域にとっての本にまつわるなんでも屋でいい。そんな気がします」(荒蝦夷、土方正志)。
 
●有限会社NET21(p219)
 「コラボレーション書店」を標榜。
 東京・学芸大学駅前の恭文堂書店や西荻窪の今野書店など、いわゆる「街の本屋」の2代目、3代目経営者。往来堂書店も加盟。各書店は、NET21の子会社というわけではなく、独立した会社・組織でありながら、NET21に参加するという形態。北は青森県八戸市から、南は岡山県まで18社28店舗が加盟。
 取次への支払いは、一部、共同で仕入れたもののみ。
 独自のPOSデータシステムを使った情報の共有化。
 会議は出版社の会議室を借りて行う。会議の前半は、当該出版社のプレゼン。「今度こんな本が出ます」「こういう企画(ブックフェアやキャンペーン)をやります」など。
 
●40万円(p223)
 書店業界の平均的な在庫金額は、坪当たり40万円。
 往来堂書店の2021年9月の棚卸では、2030万円だった。
 
【ツッコミ処】
・八王子? 立川?
〔 2019年7月にブルーシップはオフィスを吉祥寺に移転した。吉祥寺駅から徒歩6~7分ほどのビルの2フロアを借り、乃木坂にあったギャラリーもこちらに持ってきた。この稿の冒頭にも書いたように、八王子市のPLAY!のオープンも控えてスタッフも増え、すべてが順風満帆に見えた。ところがコロナのパンデミックが襲う。〕
  ↓
 「八王子」とあるが、冒頭には「PLAY!(東京・立川)」とある。ネットで調べたら、立川が正解のよう。
 
(2022/3/5)NM
 
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野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想
 [ 読書・出版・書店]

野垂れ死に: ある講談社・雑誌編集者の回想
 
元木昌彦/著
出版社名:現代書館
出版年月:2020年4月
ISBNコード:978-4-7684-5878-5
税込価格:1,870円
頁数・縦:263p・19cm
 
 週刊誌の黄金時代(?)をハチャメチャに突っ走った編集者による、平成時代の回想録。
 夜の飲み会は会社持ち、「取材のときに使う食事代や酒代も天井はなかった」という、太っ腹な会社で幸せな時代を生きた編集者の交遊録でもある。アルコールを通じて多くの知人・友人のネットワークを築いていく姿が、先に逝った先輩や友人へのオマージュとともに描かれている。「酒に強い」ことが良い編集者になるための第一歩だと言われるが、まさにそれを地で行くようだ。
 にしても、この人の肝臓は大丈夫だろうかと、いささか心配にもなる。御年76歳?
 
【目次】
プロローグ 引っ込み思案だった高校時代とバーテンダー稼業
第1章 講談社の黄金時代
第2章 フライデー編集長「平時に乱を起こす」
第3章 週刊現代編集長「スクープのためなら塀の内側に落ちても」
第4章 ばら撒かれた怪文書と右翼の街宣、そして左遷
第5章 もしも、もう一度逢えるなら
エピローグ 愛すべき名物記者たちへの挽歌
 
【著者】
元木 昌彦 (モトキ マサヒコ)
 1945年新潟県生まれ。早稲田大学商学部卒。1970年講談社入社。「月刊現代」、「週刊現代」、「婦人倶楽部」を経て、1990年「FRIDAY」編集長。1992年から1997年まで「週刊現代」編集長・第一編集局長、1999年オンラインマガジン「Web現代」創刊編集長。2006年講談社を退社し、2007年「オーマイニュース日本版」編集長・代表取締役を経て、現在は出版プロデューサー。
 
(2021/12/16)NM
 
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荒野の古本屋
 [ 読書・出版・書店]

荒野の古本屋 (小学館文庫 も 27-1)
 
森岡督行/著
出版社名:小学館(小学館文庫 も27-1)
出版年月:2021年1月
ISBNコード:978-4-09-406861-0
税込価格:616円
頁数・縦:237p・15cm
 
 東京・銀座で、「1冊の本を売る」というコンセプトで書店、ギャラリー、スタジオを併設した「森岡書店」を経営する著者が、書店経営に至るまでの生き方と、その過程、その後に出会った人々について語る。古本屋とか写真集にかける熱い思いが伝わってくる。
 本書に通底するテーマは「坑夫」である。大学卒業後に住んだ昭和レトロの中野ハウスに石炭置き場があったことをきっかに、「「坑夫」とのいくつかの出会いに思いをはせる。夏目漱石の小説や、子ども時代に収集した記念切手などだ。結局、古本屋という職業も、「坑夫」のように古書という深い鉱山を掘る仕事だ、という含意だろうか。
 
【目次】
1 「本」と「散歩」の日々
 中野ハウス
 古本を求めて神保町通い
 予算は二〇〇〇円
  ほか
2 「一誠堂書店」の日々
 入社試験
 配属は一階の売場
 落丁調べとブラシ
  ほか
3 「森岡書店」の日々
 ここで古本屋をはじめたい
 独立のスイッチ
 買いつけはプラハとパリ
  ほか
 
【著者】
森岡 督行 (モリオカ ヨシユキ)
 1974年山形県生まれ。「一冊の本を売る書店」がテーマの株式会社森岡書店代表。
 
【抜書】
●一誠堂書店(p79)
 一誠堂書店は明治36年創業。この店が母体となって、いまの神保町の礎が築かれた。『東西書肆街考』による。
 東陽堂書店、八木書店、小宮山書店、山田書店、崇文荘書店、けやき書店などは、一誠堂書店から独立した店舗である。
 独立した人物のなかでも特筆すべきは反町茂雄である。著書に平凡社『一古書肆の思い出』(全5巻)あり。一誠堂に入社したのは昭和2年。そのころは、社員全員が一誠堂の旧社屋に住んでいた。社員はみな好奇心旺盛で、「玉屑会(ぎょくせつかい)」という勉強会を組織し、仕事のあとも書誌学の知識を得たり、古書の評価について意見を交換していた。
 
(2021/5/24)NM
 
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出版と権力 講談社と野間家の一一〇年
 [ 読書・出版・書店]

出版と権力 講談社と野間家の一一〇年  
魚住昭/著
出版社名:講談社
出版年月:2021年2月
ISBNコード:978-4-06-512938-8
税込価格:3,850円
頁数・縦:669p・20cm
 
 講談社と野間家の歴史かと思っていたが、最初のほうは出版業界全体の話が多い。岩波茂雄、大橋佐平などにけっこう紙幅を割いている。いわば出版史と近代史であり、明治大正期の世情も描かれている。
 しかしながら、講談社という一本の筋を通してみる明治・大正全体の出版史は、個々のエピソードを中心に構成された歴史書より、すんなりと頭に入ってくる。
  
【目次】
本郷界隈に交錯する夢
問題児、世にはばかる
『雄弁』創刊前夜
大逆事件から『講談倶楽部』へ
団子坂の奇跡
少年たちの王国
雑誌王の蹉跌
紙の戦争
戦時利得と戦争責任と
総合出版社への道
ふたたび歴史の海へ
 
【著者】
魚住 昭 (ウオズミ アキラ)
 1951年熊本県生まれ。一橋大学法学部卒業後、共同通信社入社。司法記者として、主に東京地検特捜部の取材にあたる。在職中、大本営参謀・瀬島龍三を描いた『沈黙のファイル』(共同通信社社会部編、共同通信社、のち新潮文庫)を著す。1996年退職後、フリージャーナリストとして活躍。2004年、『野中広務 差別と権力』(講談社)により講談社ノンフィクション賞受賞。「講談社 本田靖春ノンフィクション賞」選考委員。
 
【抜書】
●岩波茂雄(p14)
 明治14年(1881年)、諏訪湖のほとりの、わりと裕福な農家の長男に生まれた。
 15歳で父親をなくし、地元の中学を卒業したあと東京に遊学し、20歳で一校に入学した。
 知り合いだった藤村操の自殺に衝撃を受けたりして、2回落第、一高除籍。東京帝国大学文科大学の哲学科の選科生となる。
 安倍能成『岩波茂雄伝』岩波書店。
 
●大橋佐平(p59)
 博文館の創業者。越後長岡出身。明治19年(1886年)11月、52歳で上京。
 明治20年6月、『日本大家論集』を創刊。1冊10銭、破格の安さだった。当時の新聞・学術誌に掲載された諸大家の論説や記事を無断掲載。長男の新太郎のアドバイスによる。著作権の確立していない時代だからこそできたダイジェスト版雑誌。合わせて1万あまり売れた。
 『日本之教学』(仏教雑誌)、『日本之女学』(婦人教育雑誌)、『日本之商人』、『日本之法律』、『日本之少年』などのダイジェスト版を矢継ぎ早に創刊、いずれもヒットさせた。
 全国各地の有力書店(売りさばき店:大手書店と地方取次を兼ねたような業者)と特約店契約を結び、雑誌を中心とした全国販売流通網をまたたく間に作り上げた。博文館の構築した雑誌の出版販売流通システムは、書籍と雑誌の地位を逆転させた。書店にとって、母屋の書籍と庇の雑誌の比重が逆になっていった。
 坪谷善四郎『大橋左平翁伝』栗田出版会。
 
●東京堂(p63)
 明治23年、大橋佐平の次男省吾の義父高橋新一郎が上京、博文館の傍系会社の東京堂を創立。
 翌年、新一郎が越後に帰るのと入れ替わりに省吾が経営を引き継ぎ、雑誌・書籍の販売に加えて出版取次業を始めた。やがて元取次と呼ばれるようになり、日本の出版界の動向を左右する存在に成長する。
 
●白表紙(p201)
 『講談倶楽部』大正2年9月号は、「新講談」に衣替えした。初版が売り切れ、多色刷りの表紙は殺到する注文に応じきれず、赤と黒の二色刷りで重版した。5版に至ってはそれも間に合わず、白表紙に題号だけを印刷して出した。
 大正初期は浪花節の全盛時代。明治末、大阪で活躍していた浪曲師の桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が東京に進出、歌舞伎座を借り切って独演会を開き、大反響を呼ぶ。講談・落語は落ち目になって講談師たちは浪花節を目の敵にした。
 大正2年6月、『講談倶楽部』は臨時増刊『浪花節十八番』を出し、増刊記念に浪花節大会を企画した。そのため、講談師との関係がこじれ、講談落語の速記者今村次郎から次のような提案が会った。
 ① 今後、『講談倶楽部』に浪花節を掲載しないようにしてもらいたい。
 ② 講談落語供給の独占権を得たい。
 今村がライバル誌の『講談世界』に持つ特権と同じものを『講談倶楽部』に要求してきた。野間清治の答えは「ノー」。
 9月発行の『講談世界』は、有名講談師48名の連名による「緊急弘告」を掲載。「『講談倶楽部』は我が講談師の意思に反するものなるが故に我々は爾今該雑誌の為に講演せざることを誓約す」。
 『講談倶楽部』は、編集方針を大刷新、「新講談」を掲載することにする。
 新講談……「文学に堪能な小説家や伝記作家」が書いた、「講談の様式と題材を具合よく採り入れて、講談と同様な興味あるおもしろい物語」(野間清治『私の半生』)。
 まだ名を成していない文士や新聞記者で、筆も早く、器用にまとめる能力のある者たちに執筆を依頼。都新聞(東京新聞の前身)の編集室がこれに応じ、中里介山、長谷川伸、伊藤みはる、遅塚麗水(ちづかれいすい)、平山芦江(ひらやまろこう)などが執筆した。
〔 彼らの「新講談」は、寄席で“語られる言葉”を速記で写し取ったものではなく、はじめから書き言葉で表現された。そのため従来の講談につきまとう冗漫さが消え、心理描写や情景描写が細やかになって読者に清新なインパクトを与えた。〕
 
●定価販売、返品自由制の確立(p208)
 大野孫平……大橋佐平の妻・松子の妹ヨセの子。明治44年、42歳で逝去した従兄の大橋省吾から東京堂の経営を引き継ぐ。
 大正3年3月、大野の説得により東京雑誌組合(日本雑誌協会の前身)が誕生。雑誌発行所と取次業者の計81社が加盟。最大の眼目は、小売店に雑誌の定価販売を守らせること。違反した小売店は取引を停止される。
 同年4月、大野の働きかけで取次と小売店による東京雑誌販売組合が結成される。
 以後、雑誌の定価販売は段階的に定着。完全実施は大正8年から。
 増田義一(ぎいち)……元読売新聞経済主任記者。実業之日本社を創立。
 明治42年新年号から、実業之日本社は『婦人世界』の返品自由方式を採用。これが成功し、『日本少年』『少女の友』など、全雑誌の返品自由制の採用にいたる。博文館の各種雑誌を凌駕する「実業之日本社時代」の到来。
〔 大野が主導した定価販売制と、増田がはじめた返品自由制は、大正期日本に雑誌時代をもたらした。乱売競争が収まり、売れ残りの返品が可能になったことにより、地方書店も雑誌販売に力を入れだした。雑誌販売店(当時は書籍だけを売る店と、書籍・雑誌の両方を売る店、書籍を扱わない雑誌販売店の三種があった)も全国的に増加し、販売網の拡大は売れ行き増進に拍車をかけた。〕
 
●滝田樗陰(p236)
 30円の本給のほかに、『中央公論』1部につき2銭の歩合給をもらっていた。
 大正8年、『中央公論』の発行部数は12万部を記録。滝田の月収は2千円を超えた。当時の市電の車掌の月給は40円。
 
●関東大震災(p256)
 東京の新聞17紙のうち、関東大震災で社屋焼失を免れたのは、東京日日(大阪毎日系)、報知、都の3社のみ。3社は、比較的早く平常通りの新聞発行をすることができた。
 東京朝日も、大阪朝日の応援でいち早く復旧に取りかかった。
 震災を境に、東京新聞界の勢力地図は一変した。震災以前は、東京朝日、東京日日、報知、時事、国民が五大紙と呼ばれていた。時事、国民がその地位から脱落。やまと、萬朝報、中央などの伝統ある新聞も衰退の一途をたどり、やがて姿を消した。
 震災後は、東京系新聞社の復興は大きく遅れ、資本力のある朝日、毎日の関西系二大紙が勢力を伸ばし、寡占体制を築いていく。
 読売は、1カ月前に完成した新社屋を焼失し、経営に行き詰って大正12年に正力松太郎に身売りする。
 
●『大正大震災大火災』(p257)
 講談社は、国民雑誌『キング』の創刊を1年先延ばしし、『大正大震災大火災』の発行を計画。横山大観が表紙絵を描き、口絵写真80頁、本文300頁、発行予定50万部。9月14日に原稿依頼を済ませ、19日までに原稿ができ、24日に校了。
 写真版用アート紙を実業之日本社に譲ってもらい、東京堂に働きかけて、雑誌販売ルートで初版20万部を配本した。
 当時、書籍は木箱に詰めて縄をかけ、荷札を付け、目方をはかって1個ごとに料金を計算し、預かりの伝票を付けて汽車で送る規則だった。雑誌は、新聞紙に包むだけ。鉄道省の総務課長鶴見祐輔(かつての緑会雄弁部の花形で、『雄弁』の創刊メンバーの一人)と交渉し、「荷造りは雑誌並み、料金は書籍」の許可を取り付ける。
 注文は、講談社の少年社員たちが都内全部の書店を回り、社員らが全国を回って集めた。
 広告宣伝は、新聞広告、ポスター作製、60万枚のDMはがき、など。
 こうして、書籍を雑誌ルートに乗せて流通させる道を開いた。雑誌販売店でも書籍が扱えるようになった。
 最終的に40万部の大ヒットとなる。(p641)
 
●雑誌時代(p261)
 「大正時代は概して雑誌時代で、雑誌小売店十に対し書籍小売店三の割合だった。その三の十分の三程度が書棚と平台を備えた書籍と雑誌の小売店」だった(松本昇平『業務日誌余白――わが出版販売の五十年』新文化通信社)。
 
●修養主義(p272)
 大正デモクラシーの後、時代の空気を最も敏感に反映した思想はマルクス主義と修養主義。
 修養主義……修身養心。身を修め、心を養うこと。克己や勤勉による人格の完成を道徳の中核とする精神主義的人間形成。明治30年代に台頭し、40年代に大きな潮流となった。
 明治大正は新渡戸稲造、昭和では野間清治(講談社?)の修養本がよく売れた。
 
●内覧(p409)
 雑誌などの発行前、原稿や校閲刷りの段階で行われる検閲。昭和12年8月(盧溝橋事件の翌月)から、発禁によるダメージを恐れる出版業者の要請で始まった。
 
●鈴木庫三(p510)
 萱原宏一『私の大衆文壇史』より。
 昭和21年12月8日、熊本から鈴木庫三(敗戦時は鹿児島の輜重兵連隊の連隊長で大佐だった)が訪ねてきた。世田谷の私宅を、講談社の高木前専務に買ってもらう斡旋の依頼だった。帰り際、次のように言った。
 「僕に何か頼みたい原稿があったら、いくらでも書くよ。だいたい民主主義だなんて言ったって、僕はそのほうの専門家だからねえ」。
 
●野間省一の思想(p616)
〔 世界の国々、各民族は、それぞれ固有の文化を有している。私は、各国、各民族が互いに他国の文化に接し、それによって自国の文化の向上をはかれば、人類の生活は更に豊かになるはずであると常に考えています。また、世界の国々がそれぞれの文化と社会を互いに理解し合えば、平和的に共存し、戦争を防ぐことができるという信念を持っています。他国、他民族に対する理解不足や誤解が数々の悲劇を生んできたことは歴史が私たちに示している。従って、あらゆる国が文化交流を行うべきであると思います。それは一方交通ではなく、相互交流でなくてはならないし、相互の理解なくして真の理解はあり得ないともいえます。
 そこで、真の理解を得るための、最も有効で、しかも現実的なものは何か。それは図書であると私は確信しているんです。一つの出版物は、その時代、その民族の文化の水準を示すバロメータであるが、これは国境を超え、古今を通じての人類の共有財産ともなるものです。地味であるかも知れませんが、出版文化の交流は各国の人々の相互理解、人間的共感を培い育てていく萌芽となること確信しています。〕
 「マスコミ文化」昭和51年(1976年)1月号のインタビュー。
 
●『昭和萬葉集』(p620)
 講談社学芸一部の副部長菅野匡夫が企画。
 小学館の役職者だった篠弘(早大国文科卒。『近代短歌史』という著書あり)に相談し、四人委員会(篠、上田三四二、岡井隆、島田修二)を結成し、ブレーンとする。
 一般からの公募も含め、一千万首の歌が集まった。
 昭和54年2月に第一回配本、全20巻。
 
●デジタル関連商品(p637)
 2011年に就任した7代目社長野間省伸は、国際化とデジタル化に舵を切った。
 2019年の売上高約1,300億円。製品売上と事業売り上げが半々。事業収入のほとんどはコミックを中心としたデジタル関連事業。
 野間省伸……1969年生まれ。野間惟道(第5代社長)、佐和子(第6代社長)の長男。
 
(2021/4/20)NM
 
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めんどくさい本屋 100年先まで続ける道
 [ 読書・出版・書店]

めんどくさい本屋―100年先まで続ける道 (ミライのパスポ)
 
竹田信弥/著
出版社名:本の種出版(ミライのパスポ)
出版年月:2020年4月
ISBNコード:978-4-907582-21-0
税込価格:1,870円
頁数・縦:241p・19cm
 
 双子のライオン堂の店主が、自らの生い立ちと考え方、同店のコンセプトを語るエッセー。そして、お店の常連・支持者による座談会。
 「本愛」が伝わる一冊である。生活するための「(生業としての)本屋」ではなく、本屋をやるための生活(アルバイトや副業)という発想の転換が潔い。「本屋で稼ぐ」のではなく、「本屋を続けるために稼ぐ」という考え方だ。生き方は人それぞれだ。
 
【目次】
第0章 双子のライオン堂と店主の日常―ある1週間の動き
第1章 気がつけば本屋をやっていた
第2章 2足・3足・3足の草鞋を履く男
第3章 100年続ける本屋の現在地
第4章 この場所に集まる人たちと
第6章 双子のライオン堂の「外側」から
 
【著者】
竹田 信弥 (タケダ シンヤ)
 1986年東京都生まれ。双子のライオン堂・店主。高校2年時にネット古書店を開業し、2004年5月に双子のライオン堂へリニューアル。大学卒業後はベンチャー企業勤務などを経て、2013年4月、東京都文京区白山にリアル店舗をオープン。2015年10月に東京都港区赤坂に移転した。「ほんとの出合い」「100年残る本と本屋」を同店のコンセプトに掲げ、店舗運営のかたわら、読書推進活動などにも携わっている。
 
【抜書】
●二つのコンセプト(p108)
 双子のライオン堂、二つのコンセプト。
 (1)ほんとの出合い……「本当」の「本」との出合いを提供したい。
 (2)100年残る本と本屋……本屋が急速に減少していく現象から、本屋が滅亡する、なくなるという嘆きの言葉への応答。
〔 でも、ぼくには本屋が必要なのです。そして、本屋がなくなったら悲しむ人が、数人はいるのではないか。本当に本屋がなくなった世界がきたときに、1店舗だけでも残っていて、「ほら、本屋って大事だったじゃん」と言いたい、その思いからこのスローガンを掲げたのでもあります。〕
 
●生き残る(p232)
〔 人生において大事なことは、負けないことだと思っている。勝つことではなく、負けないこと。負けなければいい。ある一定の時期においてトントンであるなら、それでいい。勝つことを至上命題にすると、勝ち続けないといけなくなる。
 そんな考え方だから、生き残ることを目標に、本屋をやっている。〕
 
(2021/3/21)KG
 
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印刷博物館とわたし
 [ 読書・出版・書店]

印刷博物館とわたし  
樺山紘一/著
出版社名:千倉書房
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-8051-1220-5
税込価格:3,080円
頁数・縦:291p・20cm
 
 著者は、2020年10月に創立20周年を迎えた印刷博物館の第2代館長である。ちなみに初代はグラフィック・デザイナーの粟津潔。
 中世西洋史の専門家である館長が、企画展の図録に執筆した文章によって構成されているのが本書の第2部である。ちなみに第1部は印刷博物館小史、といったところか。
 いずれの文章も、単に展覧会の紹介とPRにとどまらず、西洋史家の視点で書かれた歴史エッセーとして読みどころ十分である。
 
【目次】
第1部 わたしと印刷博物館の二〇年
 長い助走、短い序章
 博物館プロジェクトへ
 新設のミュージアム
 館長のスタート台
 印刷文化学のシステム化を
  ほか
第2部 印刷文化学をめざして
 大印刷時代の到来
 天文学と印刷
 ルネサンス教皇の夢
 スタンホープ、ふたつの革命の体現者
 活字人間「徳川家康」の謎
  ほか
 
【著者】
樺山 紘一 (カバヤマ コウイチ)
 印刷博物館館長、渋沢栄一記念財団理事長、東京大学名誉教授。1941年、東京生まれ。主著に『歴史の歴史』(千倉書房、2014年、毎日出版文化賞受賞)などがある。
 
【抜書】
●印刷文化学(p19)
 〔本来であれば印刷博物館が成立するためには、印刷にかかわる広範な研究体制が先行して成立しているべきである。けれども、わが国にあっては印刷産業にかかわる学術分野は、きわめて狭小である。わずかな国立大学内の研究室が存在するばかりであり、他方では企業内にある研究所は、もっぱら最先端の技術開発が課題となっているから。こうして、博物館は、学術分野からの支援を受けることなく、独力で出発した。〕
 
●COMIC(p21)
 COMIC=産業文化博物館コンソーシアム。2008年3月に発足。
 出入り自由、会員制度なし、会費なし。
 参加館は大小合わせて数十施設。
 
●本木昌造(p38)
 1824-75年。長崎で公式のオランダ語通詞をやっていた。
 1853年秋、安政大地震によってロシアのプチャーチンの旗艦が大破した。その修理・新造のため、伊豆・戸田に逗留していたロシア人のもとに通訳として動員された。数か月に及ぶ交友にあって、本木は日本で初めて洋式造船術を目撃した。
 長崎に帰還した本木は、洋式造船所を創設。明治初年までには長崎造船所として大成。
 アメリカ人宣教師・印刷事業者ガンブルの助言のもと、1869年(明治2年)までに、日本初の本格的日本語活字の製作に成功。
 
●ニコラウス・クザヌス(p56)
 1401年、ドイツのライン川の支流モーゼル川流域の町、クースで生まれる。1464年没。
 ハイデルベルク、ケルンの大学で哲学と神学を学ぶ。
 1440年バーゼル公会議に参加。「和解」や「合一」を合理的に説明するニコラウスの柔軟さは、広く注目された。教皇庁にも重用され、司教職に任用され、また枢機卿にも任命された。
 天体観測にも特別の関心を寄せ、「無限宇宙論」と呼ばれる宇宙観念を唱える。宇宙は際限を持たず、それゆえ中心点も存在しない。地球はほかの天体と同じく、その宇宙の中にあって中心を外れた位置にある。しかも静止しているわけではなく、円形軌道ともいえぬ、固有の規則に従って運動している。
 現行の太陽暦が、天体現象でずれていることを確信(11~12世紀から言われていた)。このため、復活祭をはじめとするキリスト教上の重要な祭儀日の特定が誤りを犯している。暦の修正に関する短期的な暫定措置を、そして長期的には閏日の再設定を提案する。1573年のグレゴリオ暦の先駆け。
 1460年、マインツで開かれたベネディクト修道会の総会に、教皇代理として出席する。マインツで開発されたばかりの活版印刷術とその成果(『四二行聖書』など?)を直接目撃。この技術を「神の業(わざ)」と命名。
 マインツ市内の政争の混乱で、印刷技術者が流出した際、シュヴァンハイムとパンナルツというドイツ人職人をローマに受け入れ、スビアコの地に印刷工房を作る。1965年には、キケロ『弁論家について』を印刷。
 
●印紙法(p100)
〔 1765年、イギリス政府は財政難を回避するために、アメリカ植民地に印紙法を公布した。文書や書物の発行に税金を課すことによって増収をはかるばかりでなく、無用な政府批判を事前に防止することができる、一挙両得の政策であった。しかし、この手段は植民地住民の怒りに火をつけた。みずからは、母国の議会に代表をおくっていないにもかかわらず、一方的な課税をひきうけよという不条理に、我慢がならなくなったのである。印紙法は、こうして植民地に自由を保障せよという政治スローガンを生みおとすことになる。〕
 
●駿河版(p120)
 徳川家康は、「関ヶ原」直前から木活字による出版を励行していた。伏見版。江戸に移ったのち、伏見版はさらに盛況をみた。
 駿府に隠棲したのち、鋳造活字による印刷出版「駿河版」を始めた。『群書治要』などが印刷された。
 キリシタンの印刷術によってか、もしくは朝鮮出兵の結果として朝鮮の印刷技術者によってもたらされた。
 1616年の家康の死後、しだいに金属活字による活版印刷の熱は冷めていった。わずか20年余りの短いピークだった。
 
●法服貴族(p138)
 絶対王政以降、国務を遂行するにあたって、軍事上の執行者である伝統貴族(帯剣貴族)と並んで、王政の実務を管掌する身分、とりわけ司法上の重要実務を志向する高等法院の司法官が高位の場を占めるようになる。下級判事から評定官、法院長にいたる法実務者。相当の処理能力を保有し、またその職務に由来する巨額の定期収入をも保障されて、確実に閉鎖的な身分団体を構成した。法服貴族。
 特定の条件を満たすことで獲得できる受爵身分であるとともに、官職売買が可能な流動性のある身分だった。主に、土地や動産の蓄積によって社会的実力を養った新興ブルジョワがこの身分に参入した。最盛期の18世紀には数千家系に配当されるほどの身分として、フランス国内に普遍化していった。
 法服貴族は、財務官僚も合わせ、多様な職階の上昇ルートが存在した。〔この身分の獲得の容易さ、あるいはいったん受爵したのちの世襲継承の安定など、制度的な硬直化をまねきがちであったため、ありかたをめぐって議論をよんだとはいえ、またこの新身分によって清新なエネルギーが注入されたことも事実である。「帯剣貴族」の対極にあって、軍事と絶縁した法服貴族は、まさしく「文治」の象徴ともいえるが、この新身分のなかから、フランス社会の新規の担い手が選抜されていくことににもなった。〕
 パスカル、デカルト、モンテスキュー、など。
 
●ヨーロッパの漢字活字(p167)
 19世紀前半、ヨーロッパでは中国漢字の活字化が進み、知識人たちが中国事情を紹介するにあたって部分的に利用するようになった。
 イギリスの東インド会社は、帯同するキリスト教ミッション団と協同して、本格的な漢字活字の製作に取りかかった。1815年のリチャード・モリソン『華英・英華辞典』など。モリソンによる最初の中国語聖書は1845年に広東で刊行された。
 ミッション系印刷所である英華書院は、1860年代から積極的な事業を展開した。
 
●百学連環(p181)
 西周(1829-97)、日本における最初の哲学者。石見国津和野藩の藩医の家系に生まれた。森鴎外の縁戚にあたる。
 儒学を学んだ後、24歳にして江戸に勉学の旅に出る。英語の学習を選択し、1857年、蕃書取調所教授手伝並に就任。1862年、幕府派遣留学生としてオランダに。
 ライデン大学で法学から哲学に及ぶ諸学について広範に学習。イギリス、フランス、ドイツなどにおける哲学思考を体得。
 1865年に帰国、開成所教授として洋学を講義。維新後も新政府の中軸にあって高等教育体制の新設に献身する。
 1868年、『万国公法』を翻訳・刊行。
 公務の傍ら、私塾・秀英塾を開設。中心となったのは、「百学連環」という講義。Encyclopediaの和訳。「其の辞義は、童生を周輪の中に入れて教育なすの意なり」。一定の分野の知識を整理したうえで、百般にわたる学科を記述・口授するもの。
 
●100万部(p225)
 大正14年(1925年)、大日本雄弁会講談社が総合雑誌『キング』を創刊。政論や評論より、世事一般に広く目を向け、適度の娯楽性を持たせる。
 昭和2年(1927年)、日本で初めて発行部数が100万部を突破する。
 『キング』と同じ年に発行された『家の光』も昭和10年代に100万部を超える。
 
●婦人参政権(p264)
 第一次世界大戦時、銃後の社会では、女性たちの力が求められた。連合国側、同盟国側両陣営とも女性による愛国運動や救援活動が活発になった。
 終戦後、こうした事態は婦人参政権運動にとって強い追い風となった。ドイツでは1919年のワイマール憲法において、イギリスや米国でも数年のうちに婦人参政権が実現する。
 
【ツッコミ処】
・350年(p33)
 〔グーテンベルクが開発した最初の手動印刷機は、その時点から三五〇年も経過した一九世紀末にあっても、寸分たがわぬ仕様で再生産・使用されていた。〕
  ↓
 グーテンベルクの発明は1445年頃とされいるから、350年後とは1800年。つまり、18世紀末となるはずだが……。
 おお、p169には〔「グーテンベルク・パラダイム」とも称される体系は、根本において不変である。むろん、印刷物にたいする需要の増大によって、刊行物の数量の増加はあったにせよ、一八世紀末にいたるまで、本質的には同一の作業システムが維持されてきた。〕とある。
 やはり18世紀末が正しいのだろう。
 
(2021/3/10)KG
 
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苦学と立身と図書館 パブリック・ライブラリーと近代日本
 [ 読書・出版・書店]

苦学と立身と図書館 パブリックライブラリーと近代日本
 
伊東達也/著
出版社名:青弓社
出版年月:2020年10月
ISBNコード:978-4-7872-0074-7
税込価格:2,860円
頁数・縦:262p・19cm
 
 江戸時代から明治・大正期にかけての公共図書館の歴史と意義、利用のされ方をたどる。
 
【目次】
序章 “public library”と日本の図書館
第1章 日本的図書館観の原型
第2章 パブリック・ライブラリーを日本に
第3章 東京遊学と図書館の発見
第4章 読書装置としての貸本屋と図書館
第5章 苦学と立身と図書館
第6章 勉強空間としての図書館の成立
 
【著者】
伊東 達也 (イトウ タツヤ)
 1965年、福岡県生まれ。九州大学大学院人間環境学府教育システム専攻博士課程単位取得退学。博士(教育学)。山口大学人文学部講師。専攻は図書館学、日本教育史。
 
【抜書】
●文庫、神社(p32)
〔 「文庫」と「貸本屋」それぞれの社会的機能を、近代公共図書館へと展開する可能性をもった読書施設に伝統的に備わるものと捉えたとき、書籍の貸借だけでなく、書庫や閲覧室といった読書空間を備えた建物としての図書館により近いのは「文庫」であり、その内容と機能では近世の文庫は近代の図書館と同質の要素をもっていたといえる。こうした性格と機能の類似性があったからこそ、近代公共図書館が制度上に登場した際に、人々はそのコンセプトを受け入れることができたのであり、現在の日本図書館協会の創設時(一九〇七年)の名称が日本文庫協会だったことにもあらわれているように、読書施設としての図書館は主に「文庫」に対する概念を底流として受容されたと考えることができる。
 基本的に武家のための文庫だった藩校付属の文庫を除き、一般庶民にも公開された文庫には、古来、神社に対する贄の一種として奉納されてきた図書を基礎として成立した神社文庫が多くあった。神社は市井を離れて森林や山中にあるのが普通であるために火災の被害がまれで、冒すことができない神域として万人に崇敬されているため破壊や戦禍を受けることがなく、図書を保存して文庫を設けるのに適していた。神社文庫のなかには、神職である国語学者による古典の収集・保存運動を起源とするものが多いことが指摘されている。〕
 
●櫛田文庫(p34)
 櫛田文庫(桜雲館)は、1818年(文政元年)、福岡藩大目付だった岸田文平によって筑前博多の櫛田神社内に設けられ、一般に公開された。
 利用が盛んになってくると、市中の若者たちが「読書に耽り家業怠り勝ち」になり「風紀面白からず」という状況になったため、藩命で「御取り止め」になった。神職を中心とした神道復興運動の拠点となってしまい、東学問所修猷館、西学問所甘棠館に匹敵するような学問所・桜雲館として発展させることができなかった。
 
●図書館令(p50)
 1899年(明治32年)、図書館令が公布される。
 この頃、都市部に次々と大規模な私立図書館が造られた。設立者が外遊し、当時欧米で盛んだった公共図書館に直接接したことが契機となって、私費を投じて設立された。
 南葵文庫(1899年、東京)、成田図書館(1901年・千葉)、大橋図書館(1902年、東京)、など。
 福岡図書館は、これらと異なり、福岡に存在した国学者のネットワークの中から発生した。
 
●納本制度(p127)
 1875年(明治8年)に始まった制度。
 出版物を公刊する際、出版条例に基づく検閲のために内務省に提出された数冊のうち一部が東京図書館に納本される。法律学校や医学校の講義録、資格試験の問題集なども含まれていた。
 
東京図書館(p131)
 1872年(明治5年)、書籍館として設立された。
 1875年(明治8年)、東京書籍館となる。書籍館が博物館とともに太政官の博覧会事務局に移管された後、文部大輔田中不二麿によって設立された。文部省所管。入館料(閲覧料)無料。77年から3年間、東京府に移管された。
 1880年(明治13年)~、東京図書館として、文部省の所管に戻る。
 1897年(明治30年)より、帝国図書館となる。
 東京図書館では、開館から85年(明治18年)まで、湯島聖堂にあったあいだは入館料(閲覧料)無料だった。上野に移転してから有料になった。
 
●物之本(p146)
 江戸時代、商品としての本は、おおきく「物之本」と「草紙」の2種類に分かれていた。
 物之本……教養書、実用書。販売を目的とした書店で扱われる。「本屋」という語は、「物之本屋」の略語。
 草紙……挿絵が入った読み物や物語。主に貸本屋が扱う。
 
●黙読(p160)
 人々の読書習慣の主流が音読から黙読に移行した時期は、1900年前後(明治30年代)ごろ。
 1909年に出版された『読書力の養成』では、「汽車の中や、電車の中や、停車場の待合室にて、をりをり新聞、雑誌の類を音読する人あるを見受く。調子のよき詩歌や美文ならともかく、普通の読物を音読するにても、其の人の読書力は推して知るべし」と記す。音読することが読書能力の低さの表れと見なされている。
 
(2021/2/27)KG
 
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